第13話 受験

裕美の大会が終わった次の週の日曜日、初めての模試を受けることになった。これといった準備をして受けた訳ではなかったので、大して結果を期待していなかった。でも意外なことにというか、自分でも予想外な程に良い結果が出た。具体的には一番良い判定ではなかったが、次点の判定で、今のまま続けていけば合格圏内に入るだろうと、手紙で来た模試の結果が書かれた紙にはコメントが書かれていた。

年末冬休みに入り、塾の冬期講習に出たりしていたが、クリスマスには裕美のお家にお呼ばれされた。今まで私は、最も裕美もそうだったらしいが、クリスマスはクラスメイトと大人数で騒いで過ごすのが定例だったが、今年は裕美と大人しく粛々と二人っきりで過ごすという、珍しさから来る新鮮さを楽しんだ。普通だったら物足りなさを感じたりするのだろうが、寂しさなど一切感じず、ただただ充実感を味わっていた。

その後私は家族と、これまた恒例の家族旅行に行ってしまったので、裕美と大晦日に会ったり、元旦含む三箇日に一緒に初詣には行けなかったが、旅行先で連絡取り合ったりしていたので、そんなに別々にいる感じはそれほどしなかった。

三学期に入るとそのまま変わらぬ日常が始まり、私は相変わらず義一さん家、先生の家、図書館、時々絵里の家、そしてついでに塾通いと、こう書き出してみると中々に忙しい一週間を毎週同様に過ごしていた。そんなこんなで毎日毎週ルーティンをこなしていたら、もう四月を迎えて、晴れて六年生になり、最後の小学生生活を迎えていた。


「…いやー、緊張するなぁ」

「ふふ、何によ?」

四月の終わり、ゴールデンウィークに入る前の最後の登校日、午前中までの土曜日の放課後、私と裕美はお互い一度家に帰り軽く着替えて、勉強道具を一応持って絵里のマンションに向かっていた。前々から裕美は絵里の家に行きたがっていたので、ようやく叶った形になった。

裕美は私の方にジト目で流してきながら答えた。

「…いや、アンタは緊張なんかしないだろうけど、私は初めて会ってからも図書館でしか会話をしたことが無いんだからぁー。…そりゃ緊張するわよ、一人暮らしの女性の家なんて」

「…ふふ、まるで初めて彼女ができた男が、その彼女の家にお呼ばれに行くみたいな事を言うのね?」

私は意地悪くニヤケながら言った。裕美は言われたすぐ後には照れてうなじあたりを掻いていたが、

「…えぇー、何ー?経験豊富なお姫様は過去にそんな男がいたことがありましたの?まだ小学生ですのに?」

とよく分からない似非貴族風な口調で、途端に同じように意地悪く笑い返しながら答えた。私はそのノリには乗らず、淡々と表情を殺して返した。

「…何言ってんのよ?私の事を見ていれば、そんな事と縁遠いことくらい分かるでしょうに」

「…うん、分かってて敢えて聞いた」

「…」

お互い顔を見合わせて一瞬黙ったが、その後何も言わずクスクス笑いあっただけだった。

「…はぁーあ。ところであなたはすっかり私の事を姫呼ばわりするのが定着してるけど、仮に私が姫ならあなたは何なのよ?」

「え?私?…そりゃ当然…」

裕美は胸を大きく張り、威風堂々といった調子で返してきた。

「姫の成長を優しく見守る、慈悲深い女王陛下ってとこかしら?」

「…また随分大きく出たわね」

私は苦笑まじりに返した。

「見守るだけなら、乳母でも侍女でも良いじゃないの?」

「…えぇー」

裕美は顔だけでなく、体全体を使って不満を表して見せた。

「何で私がアンタの側で仕えなくちゃいけないのー?」

「…だったら何で私が姫なのかも考えて欲しかったわ…あっ!あれよ」

そんな無駄話をしていると、いつの間にか絵里のマンションが目の前に現れていた。

こんな事私が言うのはおかしい…というより生意気だけど、何の変哲も無い平均的な見た目と中身のマンションなのに、裕美はうろちょろしながら、あらゆるところから建物を眺めていた。

…ふふ、いつだったかの私みたいね。初めて義一さんの家を見た時の。

なんて事を思っていたが、私は早速オートロックの前まで行って絵里の部屋番号を押した。これもまた在り来たりなチャイムが鳴ったかと思うと、すぐに絵里の声が聞こえてきた。

「…あぁ琴音ちゃんね?今開けるから、いらっしゃい?部屋のドアは開けてあるから」

言い終えるのと同時にすぐ横の自動ドアが開いた。

「うん、今行く…おーい裕美ー、行くよー?」

「あ、うーん!」

裕美は私の元に駆け寄って来た。それからエレベーターに乗り、六階で降り、出て左に曲がり突き当たりにある絵里の部屋に向かった。

私は率先して前を歩いていたが、後ろから人の気配がしなかったので振り返ってみると、裕美は通路の手すりにつかまり外の景色を見ていた。

今日は春のうららかな陽気で、吹いてくる風は若干肌寒いくらいだったが、子供の頃の体温が高めな私達には丁度良い心地よさだった。

「琴音ー!気持ち良いよ?」

「…ふふ、そうね」

私はやれやれといった感じで裕美のそばに寄った。あれから私は何度も来ているが、絵里の部屋に行く前に私も一度立ち止まり、よくここからの景色を見ていた。

「…さ、もう行くよ?」

「うん」

私は早速絵里の部屋のドアノブを回して入った。

「絵里さーん、来たよー?」

「お、お邪魔しまーす」

裕美は少し恐縮しながら私の後から中に入って来た。

「はーい、いらっしゃーい」

向こうのドアが開いた音がしたかと思うと、絵里が廊下に出て来たのが見えた。絵里は着すぎて首元がヨレヨレになったグレーのTシャツに、濃い青のスキニージーンズを履いていた。本来ならだらしないという印象を与えるのだろうが、絵里が着ると首元のヨレ具合がヤケに色っぽく見えた。

「よく来たわね!ささ、上がって上がって」

絵里はズンズンと向こうへ行ってしまった。私達二人も後に続いた。


リビングに入ると、既にあのテーブルの上にはお皿とコップが人数分椅子の前に置かれていた。椅子に関して言えば、一つだけ折りたたみ式の簡易的な物だった。

「じゃあ適当に座って?」

「は、はい」

まだ裕美は緊張が解けない様子で、遠慮したのか折りたたみ椅子に座ろうとした。すると慌てて絵里が裕美の肩を掴むと、そのまま普通の二つお揃いの椅子まで押して座らせた。

「ダメよ遠慮しちゃ?そこには私が座るから」

絵里は座った裕美の顔の高さに合わせて腰を曲げ、顔を近づけながら言った。顔はニヤケている。

「は、はい」

その絵里のニヤケ面が功を奏したか、裕美の顔にも明るさが徐々に戻って来ていた。

私はその様子を微笑ましげに見ながら、無言で普段ここに来たときに座る定位置に座った。私と裕美が真向かい、絵里が座るのは私から見て左側、目の前にキッチンが見える場所だった。

「この椅子どうしたの?」

私は冷蔵庫から何か取り出している絵里に声を掛けた。絵里は作業をしたまま、こちらに顔を向けないままに答えた。

「それー?それはねー、琴音ちゃんは見た事無かったかもしれないけど、前々からあったのよー?二人以上の時に出すのー」

絵里は間伸び気味に言いながら、私が一番最初にここに来た時と同じケーキ屋さんのロゴがプリントされた紙箱を持って、テーブルの中心に置いた。

裕美は紙箱の側面に描かれているロゴを見ると「あっ!」と声を上げた。その反応を見た絵里がすかさず裕美に声を掛けた。

「え?裕美ちゃん、この店を知ってるの?」

「あっ、はい!これって駅ナカのヤツですよね?」

裕美はロゴを見つめながら答えた。絵里はまたキッチンに戻りながら話した。

「その通り!よく知っていたわねぇ。もしかして食べたことあった?」

「いえいえ!いつもお店の前を通るだけで、食べたことはないです!はぁー」

裕美はまだ中身さえ見てないというのに、既に幸せそうな表情を浮かべていた。裕美には悪いけど、私はそんな裕美に若干だけど引いていた。

そんな私の心中を知るわけもなく、既に絵里と裕美とで会話が盛り上がっていた。

「はぁー、やっぱり小学生でも分かるんだねぇ。…いやぁ、私は」

絵里はオレンジジュースと紅茶の準備をしながら、私の方へ流し目を送りつつ続けた。

「身近で親しい小学生が琴音ちゃんしか居ないから、小学生のイメージがこの子で固定化されちゃってるのよー。琴音ちゃんはそこまでいいリアクションをしてくれなかったし」

「えぇー?ちゃんと美味しかったって言ったと思うけど?」

私は肘つきほっぺを膨らませて見せながら抗議した。絵里は満面の笑顔だ。

「そういう意味ではないんだけどなぁー…ねぇ裕美ちゃん?」

「あははは!そうですね」

さっきまで緊張して居たのが嘘みたいに、すっかりいつもの裕美に戻って明るく元気に笑って話していた。

「でもダメですよー?」

裕美も絵里と同じ様に私に流し目を送ってきながら言った。

「この子を基準に小学生を見たら。…この子は良くも悪くも”変わり者”なんですから!」

それを聞くと、絵里は裕美用のジュースと、紅茶の入ったポットを持ってきながら返した。

「ふふふ、それもそうね?いやぁ、私も薄々そうなんじゃないかって思ってたんだけど」

「…もーう、二人して本人前にして何話してるのよ?」

「あら?もしかして聞こえちゃってた?」

私は先程から表情を崩さず、不満タラタラにブツブツ言ったが、絵里がワザとらしく惚けながら返した。

その後絵里が私の前にセットされていたティーカップに紅茶を注いでくれようとしたので、慌ててカップを手に取りポットの注ぎ口に近づけた。

「ありがとう」

「いーえー」

絵里は私のに注ぎ終わると、自分のカップに注ぎながら裕美に話しかけた。

「…そういえば、裕美ちゃんは図書館でも聞いたけど、紅茶じゃなくて良かったんだよね?一応カップだけは用意しといたけど」

「あ、はい。私はジュースのほうがむしろ良かったです!…琴音は」

裕美は絵里に笑顔で答えてから、私のほうをチラッと見て話しかけてきた。

「いつもお茶を飲んでるねぇ?私もたまに飲むけど、進んで飲もうとは思わないから」

「えぇ。なーんか渋かったり苦かったりするのが好きなのよねぇ」

「ふふ、本当に変わってるわよねー。まぁ私としては、紅茶に付き合ってくれるから嬉しいけど…」

絵里はおもむろに紙箱を開けて、そして角っこを綺麗に割いてバラして見せた。露わになった箱の中身は、私が初めて来た時と同じ種類と、後は何周りも小さいミニチュアみたいな苺のホールケーキが入っていた。「わぁー」と裕美は感嘆の声を上げた。

「じゃあ二人共、各々好きなのを手に取るがいい」

絵里は何やら芝居掛かった口調で慇懃な調子で言った。私と裕美はそれを聞いてニヤニヤしながら、軽く相談しあいながらも揉める事なく手に取りお皿に乗せた。

「…よし、みんなに渡ったね?じゃあ”初女子会”を祝して、かんぱーい!」

「かんぱーい!」

掛け声と共に私と絵里のカップ、裕美のコップをカツンと軽く当てた。

他のいわゆる”女子会”で乾杯するのかは知らない。ただ私がここに来る度に、まぁいつもおやつがある訳じゃなかったけど、紅茶の入ったカップを軽くぶつけて乾杯するのが習わしになっていた。…まぁ尤も喫茶店で乾杯する事はまず無いから、変わってることは変わっているんだろう。

「じゃあ頂きまーす」

「召し上がれー」

各々嬉々としてお皿のケーキにかぶりついた。私はスフレチーズケーキとモンブランタルト、裕美はチョコレートケーキとモンブランノエル、絵里は抹茶プリンとチョコのムースだった。


「…あー、おいしー」

裕美は私の向かいで食べていたが、手につけていたチョコレートケーキを小振りとはいえ、ペロッと平らげてしまっていた。その様子を見た絵里は微笑みながら裕美に話しかけた。

「良かったわぁー、そんなに美味しそうに食べてくれて。買ってきた甲斐があったよ」

「いやー本当に美味しいんで、すぐ食べちゃいました」

「ふふ」

絵里は一口紅茶を啜った。

「いやぁ、さっきも言ったけど私って小学生と言えば琴音ちゃんしか知らないじゃない?今時の小学生ってどんな話をしてるのか興味があるのよ。まぁ私も図書館で子供を相手にしてるんだけど、深いところまでは当然ながら話せないからね」

「そうですねぇ…うーん」

裕美はフォークを咥えながら少し考え込んでいた。

「…まぁでもこれと言って面白い話はしてないですよ?よっぽど」

裕美はここで私の方を見ると、意地悪くニヤケながら続けた。

「この姫様と話している方が面白いですもん!」

「あっ、こら裕美!そんなことを言ったら…」

私は慌てて裕美を制止したが遅かった。顔は裕美に向けたまま視線だけ絵里に向けると、案の定、絵里の顔一面に悪戯小僧が出現していた。

「…えぇー?何その”姫様”って?琴音ちゃん、学校ではお姫様に祭り上げられてるの?」

「い、いや違…」

「そうなんですよー」

裕美は私の言葉を遮って、呑気にジュースを飲みながら答えていた。

「イヤイヤ、違うでしょ。何が『そうなんですよー』なのよ」

私は裕美を思いっきり睨んだが、裕美は全く意に介していないようだった。私はため息交じりに絵里に言った。

「…はぁ、本当に違うの。裕美が勝手に一人で言ってるだけなんだから」

「ふーん…」

私の必死の抗議にも、絵里は変わらずニヤケているだけだった。

「じゃあ私が二人目になろうかな?」

「あっ!是非!」

「…もう勝手にして」

絵里と裕美が結束している横で、肘を付きソッポを向きながらボソッと言った。視線を感じたから、おそらく二人は私を見て微笑み合っていたことだろう。

「あははは!琴音ちゃん、そんなにいじけないでよー?冗談やからかいじゃなくて、本心から言ってるだけなんだから。ねっ、裕美ちゃん?」

「そうですよー。…琴音、中々”姫”なんてアダ名つけられて、反発がないのは珍しいんだからむしろ光栄に思ってよー?」

「…ははは」

私は半目で空笑いをしながら顔を二人に戻した。

「ところで姫は…」

絵里が何の違和感もないといった調子で、私に話しかけてきた。

「姫って自然に言わないでよー」

無駄だと知りつつ反発したが、難なく抗議は無視された。

「相変わらず”王子”にしても良いと思う、眼鏡にかなう男子は見つからないの?」

「…王子がどうのって今日初めて聞かれたけど…」

私は淡々とツッコミ、チーズケーキを口に含みながら返した。すると裕美が予想外に身を乗り出すように話しかけてきた。

「そうよー。誰か好きな人いないの?気になる人とか」

「えぇー…そんなの」

私はここでなぜか咄嗟に義一のことを思い浮かべていた。自分でもギョッとしたが、すぐに冷静に分析した。私が出会った男性の中で、私の興味を惹く人が義一以外に居なかったという、異様に低い恋愛偏差値の成せた業だと納得した。

「…居ないわねぇ」

「あっ!何その間?意味深ー」

裕美はフォークの先端を私に向けてきながら、口元をニヤケさせつつ言った。

「こら裕美。人にフォークを向けてはいけません」

「はぐらかさないでよー」

そんな私達の様子を絵里は微笑ましく見ながら、抹茶プリンをスプーンで掬っていた。私はまた一口チーズケーキを口に含むと裕美に聞いた。

「…そんなあなたはどうなのよ?」

「…え?」

裕美は二つ目のモンブランノエルに手をつけていたが、ふと顔を上げて私のことを凝視し声を漏らした。

「だってあなた、いつも私のことばかり聞いてきて自分のことを一切話さないじゃない?」

「あら、そうなの?」

絵里もスプーンを咥えながら、私の言葉に反応した。

「どうなの?」

「どうなのって…ねぇ」

裕美は視線だけを斜め上へ逃がしながら口籠もった。

「あっ!何その反応?意味深ー」

私は裕美のモノマネをしながら言った。

「意味深ー」絵里も乗っかってきた。

「もーう、からかわないでよー」

裕美は笑顔でごまかしていたが、顔は真っ赤だった。

「ふふふ、裕美ちゃん可愛いねぇ」

「裕美ったら、お可愛いですこと」

絵里は両肘をつき、顎を組ませた両手の上に乗せるようにしながら、裕美を和かに見ていた。私は澄まし顔で紅茶を啜っていた。

「…もーう、アンタ後で覚えときなさいよぉ」

裕美が薄目で私をジトーっと見ながら言った。

「あーら、怖い。お気をつけ遊ばすことにしますわ」

「…ぷっ、アンタそれって言葉遣いあってる?」

「あははは!」絵里は一人で凄くご機嫌だ。

こうなれば絵里も巻き添えだと私から振ろうかと思ったが、思いがけず裕美に先を越された。

「そういえば司書さんは…」

「絵里でいいわ。っていうかお願い?」

絵里はウィンクをバチっと決めて、昭和のアイドル風な雰囲気を醸しながら言った。普通だったらイタイ…いや、絵里でも充分イタイタしかったが、底抜けに明るいキャラのお陰で致命傷には至っていなかった。…多分。

裕美は一瞬きょとんとしていたが、ハッとした表情を見せると、今度はまたここにきた時とはまた別な感じにオドオドしながら答えた。ウンウン、気持ち分かるよ裕美。

「…え?本当に良いんですか?」

「えぇ、モチのロン!」

ワザと敢えて空気を読まないかの様に、絵里はまだお目目をパチクリして戸惑っている裕美を他所に、テンション高めに返した。

「じ、じゃ、じゃあえぇっと…え、絵里…さん?」

「うん!よろしい!」

「絵里さんは…そのー…」

いくら自由闊達な裕美でも、中々先を言い出せない様だった。自分で言うのも馬鹿馬鹿しいが、私だったらすんなり聞いちゃうところだけど、いくら水泳などで傑出していたとしても、それ以外は普通の小学生である裕美には、大の大人、しかも詳しくは聞いていないが憧れの女性に対して、”こういう”話題は振りづらいのかも知れない。

それを知ってか知らずか、絵里は微笑みながら先を促す。

「何よー?なんでも遠慮しないで聞いて?」

「あ、はい」

裕美は『遠慮しないで』が効いたのか、漸く、でもまだモジモジしながら聞いた。

「絵里さんて…恋人いるんですか?」

「…え?」

絵里はキョトンとして”見せた”。わざわざ点々で囲ったのは、色々気の回せる絵里のことだ、ここまで裕美がモジモジしながら聞こうとした事、それに今までの会話の流れから、どんな質問が来るか当然わかっているに決まっていると思ったからだ。敢えてワザとそう表現してみた。

「こ、恋人ねぇ…なんでそんな事を聞きたいのかな?」

「え?…そ、それは…」

それから絵里と裕美が相手の出方を伺う様に、モジモジと沈黙し合っていたので、私は我慢できずに切り出すことにした。

「…それはね絵里さん、裕美が絵里さんのこと初めて見た時に憧れちゃったみたいなのよ。だからその憧れの女性が好きになって付き合う男性がどんなだか、知りたいんじゃないの?ねぇ、裕美?」

と私が事も無げに言い終え、残りのチーズケーキを口に入れた。私はある意味この”冷戦”状態を脱してあげたつもりで、良い事をしたと思っていたが、どうやら二人にとっては微妙だった様だ。

絵里と裕美は私が言い終えると、ほぼ同時に同じ様に苦笑を浮かべた。そして二人して私を見ながら言った。

「…ふふ、ほんっと琴音ちゃんは空気を読んでくれないんだからなぁ」

「アンタ…流石だわ」

「それは褒めてるのよね、二人共?」

「さぁってね」

この様なやりとりがあった後、三人でクスクスと笑いあった。

空気読めない女という名誉ある称号を貰ったので、そのまま力を発揮することにした。

「だからほら絵里さん、裕美が勇気を出して聞いたんだから答えてあげてよ?ねっ、裕美?」

「え?あ、う、うん…」

裕美はそこから先を言わなかったが、無言で絵里を見つめていた。絵里はすっかりタジタジになりながら答えた。

「…もうっ、小学生が二人して大の大人を困らせるんじゃないよぉ…困ったなぁ、こんなに引っ張っちゃ、逆に言いづらくなっちゃったよ…いません!」

絵里はしなくても良いのに、大袈裟に頭を下げて見せてから答えた。言われた裕美もアタフタしていた。

「あ、あの、顔を上げてください」

「そうよ、そんな大袈裟な…」

あくまで私は冷たく突き放すように見せながら、つっけんどんに言った。絵里は顔を上げると、苦笑いを万遍なく浮かべて私に非難めいた視線を向けながら言った。

「あのねぇ、アナタのせいで言い出しづらくなっちゃったのよ」

「えぇー…」

「そうだそうだ!」

何故か裕美が絵里に乗っかって、一緒になって抗議してきた。私が納得いかない表情をしている側で、絵里と裕美はまた二人だけで微笑みあっていた。まるで共通の敵を見つけた様な、戦友同士の友情劇を私は見せつけられていた。

「さ、て、とっ!まぁ、冗談はさておき…」

絵里は大人らしく、なんとも言えない微妙な場の空気を払拭する様に声を出して、それから改めて先を続けた。

「裕美ちゃん…ありがとうね?私なんかに憧れてくれて」

「…え?あ、いやぁ」

裕美はまた顔を真っ赤にしていた。絵里はその様子を見て、微笑ましげに続けた。

「誰かさんのせいで微妙な感じになっちゃったけど」

「でもまぁ良かったじゃない?想いを伝えれて」

私は構わずモンブランタルトに手をつけながら言った。裕美はさっきから苦笑しっぱなしだったが、そのまま呆れ返ったといった様子で返してきた。

「はぁ…まぁ確かに結果オーライかもね?…絵里さん?」

「は、はい?」

絵里は突然裕美から話しかけられて、一回り以上歳下に対する反応とはかけ離れたリアクションを取った。裕美はそのまま構わず続けた。

「絵里さん程可愛くて綺麗な女性は、どんな男性がタイプなんですか?」

「え、えぇっと…」

裕美のこのど直球の激賞に、絵里はただ狼狽えるだけだった。この場合は極端だとしても、普段から褒められ慣れていない人の反応だった。これも中々新鮮だった。裕美の方は良くも悪くも開き直っているのか、赤みが引いていた。真っ直ぐに絵里を見つめている。

「参ったなぁ」絵里はいつものように照れ隠しにホッペを掻いていた。

「絵里さん、私も聞いたことが無かったから教えてよ?」

本当は助け舟を出してあげようと思ったが、急に気が変わった。”なんでちゃん”が起き出してしまったのだ。考えてみたら聞いたことが無かった。というのも、聞いたら逆に質問されるのが分かっていたからだ。

流石の絵里も、裕美相手には質問をし返すという考えには至らなかったようだ。

絵里も私が助けてくれると踏んでいたのか、私が思惑とは裏腹に裕美に乗っかったので、ジト目で私を見ながら答えた。

「えぇー…そうねぇ…って、あっ!」

「ん?」

絵里は何かに気づいたのか、今度は打って変わってニヤニヤしだした。

「…そういう琴音ちゃんのタイプも聞いたことが無かったなぁ?」

「ゲッ」

思った通りというか、気付いていたのにそのまま墓穴を掘ったようだ。絵里が反撃に打って出た。

「教えてよ琴音ちゃーん」

「あっ!私もタイプについては聞いたことなかった!」

やはり裕美も乗っかってきた。私も慌てて今度は裕美に振った。

「いやいや、私もアナタのタイプを聞いたことが無かったわ」

「え!?あぁ…いやー」

裕美は照れてまた口を噤んだが、何やら私と絵里とは違い反応が柔らかかった。

…あ、これはイケるかも。

言い方が酷いが、特別興味があった訳では無いけど、戦略上これ以上火の粉が広がる前に、まだ言う気がありそうな裕美を攻める為に、畳み掛けるように聞いた。

「さっきも何か意味深に言いかけて無かった?それに絵里さんにわざわざ聞くって事は、アナタ自身に好きな人がいるか、それとも少なくとも”願望”はあるってことじゃない?」

「ヴっ!」

裕美は何やら言葉にならない声を出した。図星のようだった。

絵里は?と何処からともなくツッコミが入ってそうだが、絵里は違う。

違うというか、これまた自分で言うのは恥ずかしいが、絵里の場合単純に私に対する強烈な興味の延長線上の事でしかない。一言で言えば、”お節介お姉さん”なだけだ。

裕美は観念したかの様に大きく溜息をつくと、さっきから変わらずしている苦笑いのまま私を見て言った。

「…はぁ、もう分かったわよ!言うからそれで勘弁してね?これ以上三人で斬り合ってもラチが明かないもの」

どうやらこの場で一番”大人”なのは裕美だったらしい。

前からわかってはいたが、ここまで絵里が自分の恋バナを苦手にしてるとは思わなかった。絵里は大人な態度で自己犠牲を被ろうとしている裕美に、申し訳なさそうに声を掛けた。

「…裕美ちゃん、ごめんね?」

「あ、いえいえ。絵里さんは何も悪くないです。どっかの誰かさんが空気を読まない所から始まったんですから」

最後に裕美はチラッと私のことを見た。私は咄嗟に視線を逸らした。裕美はまた大きく溜息をつくと、そのまま話し始めた。

「…まぁそうね。さっきアンタが言った推理、今は肯定もしなければ否定もしないわ。…それで二人がどう思うかはお任せするね」

「うん。…で、裕美ちゃんはどんなタイプが好きなの?」

絵里はすっかり先程までのしっちゃかめっちゃかだった状況が無かったかの様に冷静さを取り戻し、興味津津といった表情で、上体を軽くテーブルの上に被さりながら聞いた。私も同じような体勢を取った。裕美も落ち着きを取り戻して話を続けた。

「まぁ…タイプって言うのかな?もしかしたら恋愛とは違うかも知れないからハッキリとは言えないけど」

「うんうん」私と絵里は同じ反応を示して、先を促した。

「そうだなぁ…うん、こう言えるかな?…私が良い時でも悪い時でも、態度を変えずに側に居てくれる人」

流石に落ち着きを取り戻したと言っても、言い終えると裕美は途端にうなじ辺りを掻きだし、照れ臭そうに笑顔を浮かべていた。

「…はぁー、裕美ちゃんってすっごく”大人”なんだねぇ」

聞き終えると絵里が感心したような調子でしみじみ言った。一緒に聞いていた私も同じ感想だった。

「い、いえいえ!私はそんな…」

裕美は絵里に言われて嬉しそうに照れていたが、何かを決意したかの様にフッと顔の表情を緩めたかと思うと、静かにまた話し始めた。

「…もうここまで来たら言っても良いかなぁ…実は実際に好きな人も…いるの」

「へぇー」

「え?…えーー!」

「琴音ちゃん、シーーーーっ」

「あ、ごめん…」

思わず絵里の家で声を上げたのは、初めて来た時以来だった。裕美の言葉に絵里は笑顔で反応していたが、私は自分でもビックリする程大きな衝撃を受けていた。前まで仲良く遊んでいた仲良しグループの女の子達ともこんな話はしていたが、軽く聞き流していたせいか、何にも感じなかった。が、裕美から聞かされた、実は好きな人がいるという告白には、心の底から驚いてしまった。

私は改めて問い質してみる事にした。

「それって、私の知ってる人?」

「え?えぇ…っと…ねぇ、…内緒」

裕美は可愛らしくハニカミながら誤魔化したが、それはもう言ってるに等しかった。

私の知ってる人か…

後々になって見れば、こんなに分かりやすいことも無いだろうと思うけど、当時の私にとっては、まさかのまさか過ぎて候補の一人にも上がっていなかった。だから…

うーん…誰かいたかな?今裕美が挙げた様な人。

「…そんな人私の周りにいた?裕美が今言った条件満たしている人」

「…ほっ。あ、いや、分からなければそれでいいんじゃないかなぁ」

裕美は私が何一つとして勘付いていないことに、心底ホッとした表情を浮かべていた。

「何よ、その『ホッ』は?」

私は不満タラタラに言ったが、裕美は笑って誤魔化すのみだった。

「あははは、内緒ー!これでお終い!」

裕美の鶴の一声で、一連のこの意味なくわちゃわちゃした一騒動は一旦の結末を迎えた。


「いやぁ、しっかし」

絵里は一口紅茶を啜ると、シミジミと感慨深げに呟いた。

「女子会ってのは、こんなに疲れるものだったのねぇ」

「イヤイヤ」

私も同じく一口啜ると、苦笑まじりに返した。

「ただ単に私達がいわゆる”恋バナ”に向いてないのが、致命的な原因だと思うよ?」

「あははは、違いないわね」

裕美もジュースを一口飲むと言った。

私達はあらかたケーキを食べ終えて、テーブルの上に散らかった物を片付けて今落ち着いていた所だった。

”女子会”に一区切りがつくと、絵里が唐突にパン!っと手を一回叩いて、私と裕美に向かって話しかけてきた。

「さて二人共!お疲れの所なんだけど、今から勉強タイムに入るわよー?」

「えぇー」

私と裕美は二人声を合わせて不満げな声を上げた。絵里は構わず私の足元にあるカバンをチラッと見ながら続けた。

「しょうがないでしょー?あなた達は受験生なんだからね?私と遊んだせいで落ちたと思われたら、私の立場がないじゃない?」

「絵里さんがどういう立場だって言うのよ?」

と生意気に軽く反論しながらも、私は素直にカバンから勉強道具を出すのだった。そんな私の様子を見て、裕美も同じ様に取り出すのだった。

「あははは!まぁ良いじゃないの!ちゃんと分からない所があれば私が教えてあげるからね?」

「はーい、先生。期待してますよ?」

「付き合ってもらって、ありがとうございます」

裕美が慇懃に畏まって絵里に言った。絵里は優しく微笑み返した。

「良いのよぉ?そんなに畏まらないでよ。あと心配しないで?私こう見えて先生になれる一歩手前まで行ったことがあるんだから、何でも遠慮せず聞いて頂戴?」

「えっ?手前ってどういう…」

「…”仮免”ってことよ」

裕美が感嘆の声を上げて、憧れの視線を絵里に向けたので、なぜか意地悪したくなった私はすかさず、ニヤニヤしながら横槍を入れたのだった。絵里もホッペを掻きながら、照れ臭そうに答えた。

「…まぁ、今琴音ちゃんが言った通り、所謂仮免までだったんだけどねぇ。まだ時間があるし軽くだけ触れるとね?」

私はチラッと時計を見た。時刻はまだ二時半丁度になる所だった。ここに来てまだ一時間弱しか経っていない。あのグダグダした騒ぎを体感的には長く感じていたが、全然時間は経っていなかった。唯一の救いは、時間を無駄に極力消費をしなかった事だった。

「大学で私は文学部だったんだけど…まぁ、よく分からなくても大丈夫だから聞き流してね?で、授業の中にそれを受講していると、中学高校の”国語”の先生になれるってヤツがあったの。まぁその授業の時間帯は私も暇だったし受けてみたのよ」

「へぇー、そんな気軽に学校の先生なんてなれるんですね?」

裕美はこんな呑気なことを返していた。絵里は苦笑いを浮かべながら答えた。

「うーん…簡単、かなぁ?…まぁ確かに”思ってたより”かは簡単だったね。…でね?その後教育実習っていうのがあるんだけど…」

ここで絵里は一度話を打ち切り、紅茶を一口啜った。そしてカップを置いたが、その先を話す前にその情景を思い浮かべていたのか、顔はまさしく苦虫を潰したような表情を浮かべていた。私と裕美二人は黙って絵里が続きを話すのを待った。

「…もうね、それが最悪だったの。…教育実習ってんで、琴音ちゃんの言う”仮免”状態、先生としては半人前の状態で、私立の中高一貫校に行ったんだけどね」

「絵里さんみたいな人が先生で来たら、男子は大喜びだったんだろうね?」

裕美は悪意の無い爽やかな笑顔を絵里に向けた。純粋な子供の笑顔の前では、流石の絵里も軽口を返すことは出来なかったようだ。ただただ苦笑をしている。

「…いやぁ、どうだろう?あっ、いや、それはさておき、…授業自体は楽しくやれたんだけどねぇ。その後職員室で色々とそこに勤めている先生達と喋ったんだけど…それが酷かった」

「ふーん…。たまにニュースの特集で、うまく授業が回せなくてナンチャラみたいなのを聞くけど?」

私はもう温くなった紅茶を一気に飲み干してから言った。絵里はゆっくりと首を横に振った。

「うん、私もそんなのを見たことがあったけどねぇ。…たまたま私が行った学校がそうなのかも知れないけど、私みたいな半人前には”監視役”としてベテランの先生がつくのよ」

「うん、なんかで見たことがあるかも知れない」

「でその人はおばさんの先生だったんだけど、どうも生徒指導の先生らしくてね?見てると生徒達から煙たがられていたみたいなんだけど…いや、そんな事は良いか。結論から言えばね、その先生に職員室でブーブー文句を言われたのよ」

「えぇ、何でですか?」

「何かヘマをしちゃったの?」

「うん、私も何か授業の落ち度を注意されるかと思ったのよ」

絵里はここで何かのモノマネをしだした。そのおばさん先生だろうか。

「『ちょっと良いかしら、山瀬さん?』なんて言ってくるから、私もすぐにそう察して低頭平身にしてたんだけど、そしたらねぇ」

絵里は掛けてもいないのに眼鏡をクイッとあげるフリをしながら続きを話した。そのおばさん先生の癖なのだろう。

「『あなた、生徒達に色目を使わないで下さる?』『…は?』私はすぐには言われたことを理解出来なくて、ただ唖然としながらやっとそう返したの」

「い、色目?」

流石の私も予想の斜め上を行っていたので、絵里と一緒にキョトンとする他なかった。はっきり言って、年齢関係なしに絵里が男に色気を使うっていうワードが繋がらなさ過ぎて、違和感しかなかった。私の反応に少し機嫌を直したのか、若干表情を緩め気味に続けた。

「ね?意味がわからないでしょ?でもあのおばさん、呆れて何も言わない私を無視して他にも色々言ってきたの!えぇっと…そう『あなたはまだ大学生でしょうけど、生徒達にとっては紛いなりにも先生なんですから、”変に”生徒達と仲良くしすぎないようにして下さい』とか…」

「絵里さんは実際どうしてたんですか?」

今度は裕美が途中に割って入って質問した。絵里は裕美を向くと苦笑まじりに答えた。

「んー?別にただ休み時間に、私が受け持った生徒達が親しげに声をかけて来てくれたから、それに私も笑顔で対応しただけだよ…モチロン男女問わずにね?」

「…色目を使う云々とは関係ないね」

私は淡々と言った。

「でっしょー?まぁおばさんから見れば、大学生の私の対応が生徒達と大差なかったかも知れないけどね」

よっぽど根に持っているのか、「おばさん」を強調しながら苦々しげに話を続けた。

「後ねぇ…そうそう『お化粧が濃い』って言われたの。『あまり生徒達に良い影響を与えないから控えてください』ってね。実際は今と変わらないくらいだったのに」

と絵里が言うので、マジマジと顔を見てみた。正直褒めてるのか悪口になるのか判断つきかねるけど、素直に言って今の絵里が化粧をしてるかどうか分からなかった。それぐらいに自然体だった。気付くと裕美も私と同じように絵里の顔を見ていた。ふと私と目が合った。裕美は私に向かってなぜか頷くと、絵里に話しかけた。

「…普通にナチュラルメイクじゃないですかぁ。何の因縁ですかそれ」

「あははは…本人の方が濃い化粧だったのに」

絵里は何か最後にボソッと言うと、私達の反応を見る前に先を続けた。

「まぁそんなこんなで、結局その場はやり過ごしたんだけど、…そのー…」

絵里は一旦切ると、言い辛そうにしていたが、何とか絞り出すような口調で話した。

「…それからは一度も教育実習に行かなかったの。因みにその学校が1校目でね?他にも行く学校があったんだけど…辞めちゃったの」

「えぇー…でもまぁ、私でもそうするかな?」

私は一瞬引いて見せたが、すぐに同調する意を表した。すると何故か絵里は苦笑まじりに応えた。

「ふふふふ、ありがとう。まぁ琴音ちゃんは耐えられないだろうね」

「アンタは確かに無理そう」

「な、何よぉ?」

絵里と裕美が二人揃ってニヤケながら何やら私に対して言ってきたので、私は短く抗議した。しかし予想通り軽くあしらわれ、私以外の二人がクスクス顔を見合わせて笑い合うのだった。私も仕方ないと苦笑で応じた。

「だからね?」

一頻りしたあと、絵里がまた続けた。

「まぁ、簡単に説明すると、先生になるにはその実習をこなさなくちゃダメなんだけど、私は最後まで終えてないから、実質教員免許は持ってないの。だから勝手に私は自分の事を”仮免”って呼んでるのよ」

「…もう、駄目な大人だなぁ」

「あっれー?さっきは肯定してくれてなかった?…ごめんなさい」

私が軽く毒を吐くと、絵里は最初は惚けていたが途端に深々と頭を下げた。でも顔を上げた時舌をぺろっと出しながらニヤケていたので、私と裕美は釣られて同時に笑い合ったのだった。


「はぁーあ!…あっ」

絵里は伸びをしながら時計を見た。時刻は三時ピッタリを指していた。絵里はまたさっきみたいにパンと一度手を打つと陽気に言った。

「さっ、二人共!主に私のせいで時間を潰してしまったけど、今からは本当に勉強しましょう」

「…自覚があるなら、何も言えないわね」

「ふふ、そうね?」

私達はお互いに顔を近づけて、内緒話の音量でボソボソ言い合った。

「二人してなにをコソコソ話してるの?」

絵里は目と鼻の先の私達の話を聞こえなかったフリをしながら聞いてきた。私と裕美はまた顔を見合わせて、うんっと一度頷き合うと一緒に絵里の方を向いて明るく答えた。

「何でもありませーん!」


「…うんうん、そうそう、それでこれをね」

「…あぁ、なるほど」

絵里に教えてもらって、裕美は本当に理解した事を示すように首を縦に振っていた。

私達二人は、あれから一時間ばかり勉強を教えて貰っていた。途中途中で、自分の時はどうしてたか、こんな風に言うと怒られるけど、小学生の頃程大昔の事もよく鮮明に覚えているらしく、事細やかに経験を踏まえた方法論を展開したりしていた。主に裕美に語っていたが、私も目の前の、今日やる分だと決めて持って来ていた教材を片付けながらも、ついつい聞き耳を立てていた。尤も、私が個人で聞いた時のと大差のないものだったが、裕美に対して話す時とはニュアンスが違ったりして、同じ事でも新たな発見が見つかるのが面白かった。

絵里は先程自分を説明する時におちゃらけて話していたが、実際絵里はとても教え上手だった。

私も何度かここにお邪魔して、たまに絵里に言われるままに勉強道具を持って来て、そして教えてもらっていたが、その上手さ分かり易さに口にせずとも感嘆していた。 正直言っては何だが、複数人を相手に満遍なく平均的事務的に教えてくる塾講師よりも、ハッキリ分かりやすいと言えた。

まぁだからと言って学校の先生に向いているかといえば、そうとも思わなかった。 勿論いくら大人ぶっていても所詮は子供だから、いわゆる大人の仕事面に関しては当然無知だったけど、でも小学校や塾の先生とは根本的に絵里は違って見えた。

急に出すようで悪いが、義一もそうだ。この二人はタイプは違うが、私にとって大事な友達であり、尊敬できる先生だった。

これは全くの私見だが、教師と生徒の関係とはいえ結局人間対人間、相手に対して尊敬の念が無ければ、当然教えて貰う側だって真剣に話を聞こうだなんて思わないだろう。いくら周りの大人、教師、はたまた両親に至るまで、口先で頭ごなしに言う事を聞きなさいと言われても、子供と雖も意思を持つ故に、無理強いされても反発しか生まない。子供達は具体的には分からなくても、言ってる大人達自身が中身の無い軽薄な人間で、人生経験に基づく何か後の世代に遺したいような価値観思想を持たず、徒に月日を過ごしているだけだという事を見抜いているからだ。そんな大人達が偉そうにすればするほど、不満が積りに積もって反抗期になるのは当然の流れだろう。

とまぁそんな訳で、私にとって尊敬してるが故に、全幅の信頼を置いて相談したり話を進んで聴ける身の回りの大人は、義一と絵里、それにピアノの先生この三人だけだった。…いや”だけ”じゃなく、三人”も”いるという幸運に感謝をしなければバチが当たるだろう。

そんな事を私が考えてるなんて知る余地の無い裕美は、絵里に笑顔で明るく言っていた。

「…いやー、絵里さん。すっごく分かりやすいよ!本当の先生だったら良かったのに」

「あははは、ありがとう裕美ちゃん!…でもね、さっきは恨み言をツラツラ話しちゃったけど、今思えばこれで良かったって思うのよねぇ」

「へぇ、何ですか?」

裕美が手を止めて、顔を上げ絵里の方を見た。

「まぁさっきの続きだけど、あれで途中でハッキリ言えば色々御託を並べたけど、私は逃げたのよねぇ…その所謂大人の世界から」

「絵里さんは逃げてなんて…」

裕美は自分のことのようにシュンとなっていた。絵里はその様子を見て、なぜか私の方をチラッと見て、まるで私と裕美を見比べるかの様にしてから、微笑みつつ続けた。

「ありがとう。裕美ちゃんは優しいね。…でも一般的には逃げたのと一緒に思われちゃうのよ。で、私も当時それを受け入れていた。…でもね?」

とここまで言うと、また私の方を意味深にチラっと視線だけ向けて、それからまた裕美に戻して続けた。

「”ある人”にね、事のあらましを話したのよ。…まぁ相談したの。…いやぁ、ただの愚痴だったかな?」

絵里は悪戯っぽく笑っている。ちなみにこの時既に、私には”ある人”の正体があらかた分かっていた。

「その人がね、こう言ってくれたのよ。『絵里、君は何でも無い様な風に言っていたけど、その授業を取ってる時楽しそうにしてたじゃないか。それなりに本気だったんだろ?』『えぇ、そりゃあ…ね?』って私は返したの。この人ね、普段からいけ好かなかったんだ。色々理由があるんだけど、一番の理由はね?相手の心理を驚くほど間違いなく読んでくる事なの。もうね、エスパーかってくらいに」

「絵里さん、絵里さん」

私が横槍を入れて制した。

「段々と”その人”の話になってってるから」

「あ、あぁ、そうね」

絵里は私が敢えて”ある人”の名前を出さなかったのが面白かったのか、クスッと小さく笑ってから、気を取り直して話を続けた。

「でね?その人が私から何も言わなくても、何かを察してくれて言ってくれたのよ。『絵里、君は大げさに言えば、子供達の成長をそばで見たいって事じゃ無いのかな?だったらさ…図書館の司書にでもなればいいんじゃない?』ってね。『…図書館司書かぁ』思わずシミジミ言ってしまったのよ。なんせ私は自分が図書館で働くっていう姿を、一度たりとも想像したことが無かったからね。それを初めてその人に言われて…凄くしっくり来たのよねぇ…シャクだけど」

「…ふふ」

裕美は反応しなかったが、私は思わず吹き出してしまった。これは絵里の言った軽口にも原因があるけど、それと一緒に私でも初めて聞く、絵里の図書館司書になった経緯を面白く聞いていたというのも遠因にあった。

裕美は何事かと私を見ている。絵里は構わず続けた。

「でね?もうそれからは猪突猛進っていうのかな、ガムシャラに司書の勉強をして資格を取って今に至る訳!」

絵里はそう言い切ると、紅茶を一気に飲み干した。と、私のカップに紅茶が無いのに気付いたのか、私にお代わりがいるかを聞いてきた。私が欲しいと答えると、今度は裕美にも聞いた。裕美のコップも中が空になっていたからだ。裕美は遠慮がちだったが、お代わりをお願いしていた。それを聞くと絵里はテーブルの上のポットと裕美のコップをを持って台所へ行き、ポットには紅茶を淹れて、コップにはジュースを入れてからまた戻ってきた。

そしてまず私のカップに紅茶を注ぎながら

「だからまぁ、私は逃げたんだけど、こうして司書として働いて良かったなぁって思うよ。何せ…」

「え?…わっ」

絵里はポットを置き、ジュースの入ったコップを裕美の側に置くと、私と裕美が無造作にテーブルの上に出していた手、私の左手と裕美の右手の上に自分の手をそっと置いた。

「琴音ちゃんや裕美ちゃんみたいな、可愛い子達と知り合えたんだからね!」

絵里は私と裕美の顔を交互に見てから微笑んで言った。私は内心を隠す様に、迷惑そうにして見せながら返した。

「…絵里さん、あんまし恥ずかしい事を言わないでよぉ。言われた私達が困っちゃう」

「…ふふふ、アンタがそういう事を言う?」私が言い終えた途端に、裕美がプッと吹き出してこちらに意地悪く笑みを向けながら言った。

「え?どういうこと?」

案の定というか何というか、絵里が期待通りに食いついていた。ニヤケ面だ。

裕美は何となく自分と気持ちが同じだと直感したのか、顔の表情そのままに、絵里に少し顔を近づける様にして話した。

「それがですね?この子ったら平気で私達が口にしない”恥ずい”事を口にしちゃうんですよぉ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる様な事を。…でも不思議と嫌な感じはしないんですよねぇー…でついつい釣られてというか、私も同じ様に真面目な恥ずい事を話しちゃうんです…」

裕美はここまで言うと、何かを思い出したのか、顔を真っ赤にしていた。おそらく先程の恋バナ(?)をしていた時の自分の態度を思い出していたのだろう。

絵里はその様子には特に触れる事もなく、微笑ましげに私の方を見ながら裕美に返した。

「…そうなのよねぇー。私がどう思われているかはともかく、私ですら普段はそんなに深い話は自分からしないんだけど、琴音ちゃん相手には臆する事なく話せちゃうのよね」

「あぁ、分かります分かります!」

裕美はうんうんと大きく頷きながら同意を示して、私の方を苦笑いなのか何なのか例えづらい表情で見ていた。

「…多分ね?」

絵里は私から視線を外さず、そのまま裕美に応えた。

「この子はね、普通の人よりも真面目に、真剣に話を聞こうとしてくれてるからじゃないかなぁって思うのよ」

「…あぁー」

裕美は短く、でも同意の意味だと汲み取れる声を上げた。絵里は続けた。

「普通はね裕美ちゃん、こんなに他人が自分の話を熱心に聞いてくれる事なんて、滅多にない事なの。まぁ、私達大人の世界だけじゃなくて、裕美ちゃん達子供の世界もそうかも知れないけど。…裕美ちゃん?」

絵里は途中で一口紅茶を啜ると、今度は裕美の方に顔を向けて、少し真面目な、でも微笑みを絶やさずに話しかけた。

「それってとても素敵なことなんだよ?裕美ちゃんは言われなくても分かっているかもしれないけどね。今時ね、中々心を割って話せる人が出来るのは本当に難しいの。大人になってからだと尚更ね。裕美ちゃんが言う”恥ずい話”だってね、本当は誰かと”恥ずい話”をしたくても出来ない人がごまんといるのよ。要は、相談したくても出来る相手がいないってことね。まだまだ若い、これから私よりも生きるあなた達にいうのもアレだけれど、年寄りくさい事を言えばね?ますますこれから人と人との繋がりが希薄になっていって、一人一人がフワフワ当て所なく水面に浮かぶ睡蓮の様に、風に吹かれるまま虚しく漂う他なくなっちゃう気がするの。…今すでにそうと言えばそうなんだけど…私の言ってる事わかるかな?」

「は、はい」

裕美は突然振られて戸惑っていたが、しっかりと返事をした。私は余計なお世話に、絵里が話している間、裕美の方を見て反応を見ていた。この手の話は老若男女問わず、すぐに飽きるか、退屈してるという意志表示をするものだったからだ。この考えは明らかに義一に由来している。

しかし絵里が話している間、裕美は食い入る様に絵里の方を見つめ熱心に身を乗り出す様に聞き入っていた。私はその様子を見てホッとしたのと同時に、無性に嬉しかった。

裕美の返事に絵里は満足げな笑顔を浮かべ、そのまま続きを話した。

「だから”仮免先生”が二人に言いたいのはね、お互いに恥ずい話が出来る相手がいるなんて、何物にも代えがたいくらい貴重なんだから、今の関係を大切にしてって欲しい…ってことかなぁ。…どう二人共?」

聞かれた私達は、真顔でお互いの顔を見合わせたが、示し合せる事もなく頷きあい、そのまま二人で絵里の方を向いて頷いた。何も言わなかったが、絵里も察したか、微笑みながら力強く頷き返しただけだった。


「はぁ…興が削がれちゃったなぁ。…まぁ私のせいだけど」

私はおもむろに時計を見ると、時刻を見ると四時半少し前だった。

「いえいえ、大変面白い話を聞かせて頂きました」

裕美が慇懃に絵里に答えた。絵里は悪戯っぽく笑いながら裕美に話した。

「…もうちょっと軽ーい感じに出来ない?すっごく肩が凝っちゃうんだけど」

「え?えぇっと…」

裕美はただ戸惑うという、小学六年生として当然のリアクションを取っていた。

私がすかさずため息交じりに助け舟を出した。

「…はぁ、何言ってんの絵里さん?普通小学生が一回りも二回りも上に人と対等に話せる訳ないでしょ?」

と私が突っ込むと、これまた素早く反応を示して私にジト目を使いながら返してきた。

「ちょっとぉ…私はあなた達より二周りも歳離れていないんだけど!」

そこに食いついてきたか…

絵里は私が言いたかった点じゃない、明後日の方角に吠えていた。

…まぁワザとそう仕向けたんだけど。

「…ちょっとぉ?聞こえてるんですけど?」

「…え?」

「そのワザとがナントカって」

どうやら口に出ていたらしい。

「ごめんなさい、ドジっ子だから許して?」

私はまたワザと首を傾げて上目遣いで絵里を見つめた。

「…あのねぇ、ドジっ子はそんな意地悪な悪意まみれの間違いはしないんだけど」

「…プッ、あははは!」

絵里が薄目で私を見ながら突っ込むと、裕美が途端に吹き出し遠慮なく笑っていた。その様を見た私と絵里も一度顔を見合わせると、同じ様に笑うのだった。


「そういえば裕美に言ってたっけ?」

笑いが収まり、一呼吸を入れる意味でも一口紅茶を飲みながら聞いた。

「ん?何のこと?」

裕美は呑気な声を上げると、ジュースに口をつけた。

「…絵里さんの出身校が、私達二人の第一志望校だって話」

「…え?えーーー!そうなんですか!?」

「え、えぇ」

これまた呑気に我関せずと言った感じで紅茶を飲んでいた絵里だったが、突然裕美が興奮してすぐ脇に座る自分に向かって身を乗り出す様に来たので、ただただ戸惑いつつ答えていた。

絵里はしかしすぐに落ち着くと、裕美のおでこを人差し指で軽く押し、椅子に座らせる様にしつつ言った。

「しーーーーっ!裕美ちゃん声が大っきい」

「あっ!ごめんなさい」

裕美は先程のテンションとは真逆の、シュンとした態度で絵里に軽く謝っていた。絵里は鼻から勢いよくフンッと息を出すと、苦笑交じりに切り出した。

「もーう、気をつけてよ?…何だっけ?あっ、そうだったそうだった!うん、そう。私はソコの卒業生なの」

「へぇー、いいなぁ」

裕美はすぐに明るく戻り、絵里に目を輝かせながら言った。絵里はその裕美の反応に、最初の時の様に戸惑っていた。

「…しかも演劇部だったみたいよ?」

私は顔を逸らしながら淡々と情報を加えた。裕美が余計に食いつくことが分かっていたからだ。面白半分だ。案の定裕美は、余計に絵里に食いついていった。

「へぇー、絵里さん演劇部だったんですか?」

「え、えぇ…」

絵里は答えながら視線は私に向けていた。視線は少し非難めいていたが、困り顔だ。私は相変わらず澄まし顔を維持していた。何だか面白くなってきたので、私は火に油を注ぐことにした。

「絵里さん、裕美にも見せてあげてよ。昔舞台に出てた時の写真を」

「あっ!写真があるんですか?見たーい!」

「えぇっと…」

絵里は変わらず私に視線を流していたが、もう非難というより助けを求める目だ。

もういいかと思ったが、最後の一押しだけして見ることにした。私は初めて絵里の家に来て、その次来た時に渋々ながら当時の写真を見せて貰っていた。


後の展開を見れば分かることだが、都合上あえてこの場を借りて、話が大きく逸れることを恐れずその写真の中身を話してみようと思う。勝手で悪いがここしか言える場所が無いからだ。許して欲しい。

写真は綺麗に丁寧にアルバムに纏められていた。その中身は練習風景半分、実際の舞台が半分、具体的な枚数は数えてないから分からなかったけど、最低でも五十枚以上はあった。絵里以外にも当然他の演劇部員が写っていた。練習風景はみんな各々地味な服装をしていた。無地の半袖Tシャツに下はヨレヨレのジャージ、髪の毛は長い子は単純に後ろで縛り、それ以外は頭をタオルで巻いていた。舞台の上では言い方が正しいか分からないが、皆んな澄まし顔で平気だと言う風に何でもなさげに自然体で演技していたが、練習風景はみんな汗だくになっていた。当時本で戯曲は読んでいたけど子供だったし、演劇の裏側を知る機会が無かったから、実際写真を見て、こんなに肉体労働的だとは思っても見なかった。そんな所を変に感心しながら見ていた。ゆっくりじっくりと念入りに穴が開くほど熱心に見ていたので、最初は早くページをめくりたがっていたが、私にからかう意図がない事がわかると、ある種開き直りとも言えるが、絵里が途中から率先して一枚一枚背景を説明してくれた。劇の内容だったり、練習の時のエピソード、失敗談等々だ。

ふと一際目立つ美人な女子が目についた。絵里に聞くと彼女が先輩だった。何と例えて言えば良いのか。写真写真が様々な格好をしてたりするから、捉えどころが無いと言うのが第一印象だった。まぁ尤も演劇部の写真だから当たり前なのだが。髪型は今の絵里と同じくらい短かった。説明してくれた時に教えて貰ったが、この髪型は”マニッシュショート”と言うらしい。マッシュルームヘアーとは言わないみたいだ。まぁどうでも良いけど。因みに絵里はというと、制服を着ている普段の写真があったので見てみた。前に話してくれた様に、写真で見る絵里はロングヘアーにしていた。前髪ありのパッツンだ。ストンと胸辺りに後ろ髪を持ってくる、典型的な髪型ではあった。

練習中なのだろう、頭にタオルを巻いている、今と不気味なほどに顔が変わらない絵里と、先輩が笑顔で汗だくになりながら立ち並ぶ写真があったので背丈もわかった。大体同じに見えたが、若干先輩の方が大きかった。単純に身長差で考えるなら、実際は兎も角感覚から言えば私と同じくらいに見えた。絵里はこの頃から目がクルンと大きく、典型的な二重瞼だったが、先輩は一重ではあったけど、横に綺麗に品良く切れていて、鼻筋もシュッとしていたから、例えるなら美人さんな日本人形って見た目だった。写真で見る限り、絵里から聞く陽気で気さくでサバサバしてたと言う人物像とは必ずしも一致しなかった。でも、当事者が語るのだから、まぁそうなのだろう。

余談に次ぐ余談だが、絵里の先輩、この人とは高校の卒業とともに離れてしまったらしい。大学の進学先も別々だった様だ。尤もお互い卒業後も会っていたらしいが、途中で先輩は大学を辞めて、本格的に演劇にのめり込んでいったらしい。今も生きていれば、国内か国外で演技を続けているだろうと言うのが絵里の言葉だ。

この話も含めて、どこかで機会があれば絵里と先輩の話も、私の知る限りにおいて話そうと思う。長くなったがそんな感じだった。


それからは何度かせがんでも見せて貰えなかったから、久しぶりに見たくなってしまったのだ。正直裕美がどうのは関係なかった。私の都合だ。

「ほらぁ、絵里さん。こんなに頼まれてるんだから…」

「いやほら、もう時間もないし」

絵里の小さな抵抗を受け、チラッと時計を見ると、確かに五時十五分前、あまり時間は無かった。でも、私は諦めなかった。

「…じゃあ次来る時にでも見せてあげてよ?私にも見せてくれたんだから、今更でしょ?」

「…でもねぇ」

絵里はホッペを掻きながらも、中々しぶとく渋っていた。

よし、じゃあ…

「じゃあ絵里さん、次お邪魔した時に写真を見せてあげるか、また”恋バナ”をするかどっちにする?あっ、勿論恋バナは絵里さんの話でね?」

「あっ!それ両方気になるー。どれだけの恋愛をこなしてきたのか」

裕美が私に乗っかってきた。良い兆候だ。

絵里はますます困り果てたという表情を顔中に湛えていた。そして腕を組み首を傾げて考え唸っていたが、はぁっと一度息を吐くと、力も無げに私に苦笑まじりに応えた。

「…はぁ、分かったわよ。裕美ちゃんがそこまで熱心に興味を持ってくれるなら、見せるのもやぶさかじゃ無いよ」

最後の方は小さな抵抗として刺々しく言っていたが、とりあえず我々小学生チームの勝利だ。

「ありがとうございます!次また来るのを楽しみにしています!」

まぁ尤も、裕美の純粋無垢な憧れの表現の前では、さすがの絵里も折れざるを得ないというのが実情だろう。

「はいはい、またいらっしゃい。…しっかし」

「え?」

絵里はさっきからそうだったが、苦笑いを浮かべながら私の方を見た。私が何かとすっとぼけていると、苦々しげに切り出した。

「ホンットにこの子ときたら…琴音ちゃん、あなたは悪魔の子かい?」

「え?何よそれぇ…」

「違いますよ、絵里さん!」

何故か横から裕美が得意げに口を挟んできた。顔はニヤケ面である。

「え?何が違うの?」

絵里もキョトンとしながら裕美に聞いた。裕美は絵里の耳元に、口元を私から見えない様に右手で隠しながら”私にわざと聞こえる様に”言った。

「この子は悪魔じゃなく小悪魔なんです!」

「…ねぇ裕美、丸聞こえなのも含めてツッコミたいんだけど」

私は一度溜めてから突っ込んだ。

「私が自分の悪口に訂正するのも変だけど…それって、意味合いおかしくない?」

「あら、ホントだ!」

裕美は口元で右手を広げて見せて、あっ!と驚いた表情を見せながら声をあげた。すると絵里が大袈裟にイスの背もたれに寄り掛かり天井を見ながら笑い声を上げた。私と裕美も一度顔を見合わせ、それからクスクスと笑うのだった。


「じゃあまたね、絵里さん」

「また来ます!」

「いつでもおいでー」

絵里はいつも通りエレベーターホールまで見送りに出てくれた。そしてエレベータが来ると乗り込み、ドアが閉まり、縦長の窓からお互いに手を振りあって別れて一階に降りた。外に出た頃には空は紫色に染まっていた。カラスが鳴きながら空に黒い影を作りつつ、どこか寝ぐらへ向かって飛んで帰っていた。

「…はぁーあ」

裕美は暮れた空を見上げながら大袈裟にため息ついて見せた。

「どうしたのよ?」

「いやぁ…」

裕美は正面に向き直り、そして私の方を向くと晴れやかな笑顔で答えた。

「絵里さんってやっぱり素敵だなぁって。あのキャラは図書館でだけだと思ってたけど、普段も変わらず私達みたいな子供と同じ目線で話してくれるし。それに…」

裕美はゆっくりと進行方向に顔を戻すと、静かにボソッと続けた。

「…しかも赤の他人なのに、あんなに真面目に大事な事を、恥ずかしがらずに話せる所とかね」

「…えぇ」

私は他の言葉は不要だと、短く、でもハッキリと同意の意を示した。

すると裕美は勢いよくまた私の方を向くと、悪戯っぽく笑った。

「あの”オンオフ”の切り替えが凄いよね?しかも…見た目あんなに美人なのにお高く止まってないし、むしろ”恋バナ”に対してあんなに苦手なんてね。なんだか親近感が湧くよ」

「ふふ、まぁ絵里さんが特殊だとは思うけどね」

私は裕美に微笑み返すと、そのままの表情で正面を向いた。それを聞いた裕美は、顔は見なかったが、隣で力強く頷いているのがわかった。

「…あっ!」

「今度は何?」

裕美がまた突然隣で声を上げたので、私は呆れて見せながら聞いた。裕美はそんな私の様子に構う事なく、素っ頓狂な声で言い放った。

「何であんな変な髪型にしてるのか、聞くのを忘れてた!」


これから先は特に話すこともない。毎週毎週をほぼ同じルーティンで回していただけだからだ。まぁでもこのまま終わるのは味気ないし、せっかくだから冒頭に話した事を少し細かく話してみようと思う。

まず義一関係の事。家に行き、その時はまず借りた本の感想を話して、その後義一の意見を聞き、それぞれの考えを照らし合わせながら話し合い、その後また借りる本を選定して貰って、まだ時間がある様なら、数曲あの部屋にあるアップライトピアノを弾いて見せてた。その度に義一が喜んでくれるので、私は尚更褒めてもらいたくなってしまって、曲のレパートリーを増やしたり、自分の弾ける曲の完成度を高めようと一生懸命練習した。今思えばここに人前で演奏して見せる意義の一つがあるのかも知れない。これまで私は先生の前でだけ弾いて、褒められればそれで満足していた。それはそれで学習意欲は絶えることなく湧いてきていたが、違う人にも聞いてもらうというのが、こんなに良い作用をするとは思っても見なかった。勿論聞き手の”質”が良くなければ意味がない。義一はクラシック音楽にも造詣が深かった。音楽室の壁によく掛けられてる肖像画達、バッハやモーツァルト、ベートーベンにショパン、いわゆる”バロック”、”ウィーン古典派”、”ロマン派”などの有名どころだけじゃなく、ルネッサンス期の作曲家達まで深く知っていた。よく時間の余す限り私にアレコレと、昔活躍していた演奏家達の古いフィルムを見せながら話してくれた。でも義一はいわゆる”スノッブ”では無かった。知ったかぶりの頭でっかちでは無かった。先ほど言ったルネッサンス期に書かれた曲を、たまに私に代わってピアノの前に座り、ピアノに合わせて編曲したのを、恥ずかしがりながらも聞かせてくれたからだ。初めてこのピアノを見た時、鍵盤のカバーには埃が溜まっていた割に、鍵盤自体は綺麗に手入れがなされていて、いつでも弾ける状態だったのを思えば、誰かが定期的に弾いてるだろう事は想像出来ても良かった。がしかし、当時子供だった私には、そこまで状況証拠を組み合わせて、推論をたてるような事は無理な相談だった。勿論定期的に弾いていたのは、義一本人だ。ピアノに限らず、芸術芸能関係の事を話す義一の顔は、本当に少年の様な、裏のない純粋な笑顔を全体に浮かべるのが印象的だった。本当に心から好きだと言う気持ちがありありと感じられた。

この繋がりでピアノの先生の事。先生は以前にも増してピアノのレッスンに熱意を込めて打ち込む私に、勿論嬉しがってはくれていたが、それと同時にすごく心配そうに気を遣ってきた。前にも話した通り、先生は私の事情を全部分かっていた。両立出来なければ、ピアノの方を暫く辞める様な事だ。それを知っているから恐らく先生は、私が意固地になって無理して頑張っているんじゃないかと思ったらしい。勿論その推察は半分くらいは正しかった。…というより、初めは単純にそんな理由だったかも知れない。でも心配してくれながらも、先生は私がアレ弾きたいコレ弾きたいとせがめば、喜んで手元に楽譜がない場合なんかはわざわざ取り寄せてくれたりした。これは私の想像だけど、恐らく先生は私の知らないところで、改めて昔の勘を取り戻すべく練習をしていたみたいだった。それを証拠に、顔の表情は私がせがむ度に苦笑を浮かべていたが、普段のどこか遠くを見つめる様な、達観した表情を浮かべることが少なくなったからだ。顔に充実した明るみが差していた。

…あんまり関連づけて話したくないが、受験勉強の事。これも後になって思い至った事だが、ピアノに打ち込んだ事が寧ろ、勉強に於いても良い影響を与えていた様だった。あくまで私個人の場合という注釈付きだけど。他にも似た様な話は聞くが、要はピアノに打ち込むことによって、俗世間から受けるストレスを発散する事が出来、まっさらな気持ちで受験勉強が出来る。で当然ストレスがたまっていくが、ピアノを弾く事によって心身ともに洗い清められて、また要らない受験勉強に打ち込める…という様な良い循環が出来ていた様だ。勿論ストレス発散の為にピアノを弾いていた訳ではないが、結果的にはそういう意味もあったという事だ。

塾にも休まず通った。…正直何度もサボりたい衝動に駆られたが、これはある意味裕美に助けられたのかも知れない。登校時だけではなく、放課後もほぼ毎日裕美と過ごす様になっていた。お互いの教室の前で待ち合わせ、たまにヒロも居たりしたが、基本的に二人で仲良く帰っていた。塾に行く時もそうだ。いつも渋る私を引っ張ってってくれたのは裕美だった。私の無駄に強固な心の壁を力任せに粉砕し、深い居住区まで来て土足で上がり込み、縮こまる私を無理矢理立たせて外へと連れ出す。その厚かましさに私は救われていた。

一応言っておくが、今話したのは私から裕美に送る最大限の賛辞だ。

あと毎週とまではいかなかったが、絵里のことも触れないわけにはいかないだろう。前にも話したが、私一人で何度も絵里の家を訪れては、お喋りしたり、勉強を見てもらったりしていた。勿論都合がつく限り、図書館に行った時にも挨拶と軽い会話くらいはした。そして裕美が初めて絵里の家に行ってからは、三人それぞれ同時に都合が合った時に絵里の家に行き、お喋りをして、私と裕美の勉強を見て貰っていた。勿論約束通り、絵里の演劇部時代の写真を見せて貰ったりした。何度も見せてるのに、絵里は一向に慣れる気配が無かった。そして”恋バナ”も。これも後になって気づいたが、冒頭に話した様に、初めての模試で想像以上の成績を出す事が出来たのは、絵里に起因するところが大きかったのかも知れない。途中からは二対一で勉強していたが、それまではマンツーマンで事細やかに教えて貰っていた。私個人は何も勉強のスタイルを変えては無かったから、どう考えてみても絵里の教え方が良かったとしか思えない。本当につくづく私は、周囲の人間に恵まれて助けられてるなぁと、当時から既にシミジミ感じる次第だった。

夏休みに入ると、当然というか夏期講習で潰れた。…いや、変に真面目ぶる事もないだろう。夏休みの間は何だかんだで結構遊んだ。去年の様に家族で丸々一週間旅行に行く様なことは無かったが、近場の海沿いにある温泉地に一泊二日、私とお母さん、裕美と裕美のお母さんと旅行に行った。裕美の出場した大会に観戦に行って以来、同じ受験の娘、しかも志望校が同じと、共通点がたくさんあった為か、すっかり二人は私達娘の知らないところで仲良くなっていた。海水浴したり、温泉に入ったりと比較的呑気に過ごしていた。この夏休みの間の事も話すとキリがないので、割愛させて貰うのを許して欲しい。これも機会があったら話したいとは思っている。

…うーん、まぁこれも良いか。ヒロの事だ。遂にというかやっとというか、ヒロの所属する野球チームが、都内の東部地区代表として夏の大会に出るといってたが、私は案の定観に行く気が無かった。この場を借りて言い訳をさせて貰えば、何せ応援に行くと言っても炎天下の中、屋根の無い観客席に座っていなければならない。これも随分前に言ったが、そんな苦行をしてまで、そこまで興味のない野球の試合を観るのは…無理だった。

ヒロとは言え、流石に毎度の様に断って悪いとは思っていたけれど。しかし何故か裕美に強く薦められたので、重たい腰を上げたのだった。私は知らなかったが、裕美はずっとヒロの試合を、毎度の様に見に行っていた様だった。その縁があって、応援に来てくれるお礼も含めて、ヒロも裕美の大会には、毎度の様に応援に行っていた様だった。それこそ裕美が都大会で優勝する様になるずっと前からだ。裕美が言うには、いつでも変わらず、ずっと応援に来てくれたのはヒロだけだったという話しだ。こういうところはヒロの良い所だ。癪でも認めざるを得ない。この話も割愛させて貰うが、どーーーしてもと言うなら、機会があれば話す事もあるかも知れない。ただ一つ感想を言えば、ヒロが炎天下の中あちこち動き回っている姿を初めて観て…そのー…ま、まぁ悪くは無かった。それだけ。

あっ、あと一つ補足すれば、裕美がヒロに対する呼び方が、『森田君』から『ヒロ君』に変わった事だ。今まで裕美はヒロの事を『森田君』と、名字で呼んでいた。ヒロの方は何度も名前で呼んでくれと頼んでいたみたいだけど。ヒロの言い分は、お互いの試合を応援し合うほどに仲良くなったのに、下の名前で呼び合わないのは、まだなんか距離を感じるという理由らしかった。確かに私との間でも、かなり早い段階で下の名前で呼び合っていた。一年生の頃からだと思う。ヒロの試合を私と一緒に観戦に行った帰り、地元で三人仲良く帰っていた時に、私がおもむろに裕美に言ったのだった。『遠慮しなくても良いのよ?ヒロ相手に控え目でいる必要なんて無いんだから。まぁ確かにいきなり男子に、下の名前で呼ぶのは抵抗あるかもだけど、まぁ本人があぁ言ってるんだからさ?』裕美は最初ウジウジしていたが、その日をキッカケに徐々に『ヒロ君』と呼ぶようになっていった。


夏休みの間、義一とまた一週間ちょっとの間、会えないし連絡が取れない事もあった。去年と同じだ。ただ去年と違って私も受験で忙しかったから、ようやく会える様になっても、久し振りな感じはしなかった。何が言いたいかというと、”なんでちゃん”が起きてくる程ヒマじゃ無かったという事だ。絵里と去年一緒に行きたいと言っていた花火大会も、私の都合で見に行けなかった。私は薦めたが、結局義一と二人で一緒に見に行かなかったみたいだ。残念。

この辺りは目まぐるしく、月日が早く過ぎてく様に”初めて”感じた。よく大人が『子供の頃は一日一日が長く感じたけど、大人になると年単位で早く過ぎるよ』と言っていたのをよく耳にしていたが、何を言っているのかイマイチ分からなかった。でも夏休み明けから年が明けるまで、本当に月日が早く過ぎるのを実感出来た。受験とは全く関係無かったが、この時期の私の印象に残った、数少ない得られた経験の一つだった。

駆け足で済まないが、繰り返す様だがなんだかんだ言って受験生、そこまで特筆すべき話す様な事も無かった。寧ろ自分で言うのも何だが、”色々”あった方だと思っている。

そんな言い訳は置いといて、この年の年末は珍しく家で静かに過ごした。人によっては嫌味に聞こえるかも知れないが、事実として家でのんびり過ごす珍しさを存分に楽しんだ。

一月二日、三箇日。私と裕美、お互いのお母さん二人合わせて四人で、近所にある全国的に有名な真言宗の大師に初詣に行った。初めて行ったが、人でごった返していて、息をするのがやっとといった感じだった。何とかお賽銭にお金を投げ入れお参りし、帰りに合格祈願のお守りを買って帰った。因みに私と裕美二人共、何とか成績は少しずつとはいえ順調に伸ばし、合格圏内を維持出来ていた。後は本番で、ドジを踏まないかどうかだけが心配だった。

そうこうしている間に、気づけば二月になり、とうとう受験日を迎えた。


「忘れ物は無い?受験票はしっかり持った?」

「うん、持ってる」

木枯らしが吹き荒ぶ二月二日。私とお母さんは揃って駅までの道を歩いている。今日は平日。学校は休みを取って、これから試験会場である四ツ谷まで電車に乗って行くところだ。それぞれの学校が試験会場になっている。受験期間はどの学校もお休みになっていた。

「…もう一度確認したら?」

隣を歩くお母さんは一人で何だか落ち着きが無い。さっきから何度も私に確認する様言ってくる。まるでこれからお母さんが受験しに行くみたいだった。それに引き換え私は自分でもびっくりするほど冷めていた。空気が寒いのは関係ないだろう。

「…もーう、大丈夫だから。お母さん、少しは落ち着いて?」

私は苦笑交じりにお母さんに言った。

「そ、そうね」

お母さんがそう短く答えるかと同時に、駅前の広場に着いた。今は丁度七時。スーツ姿のサラリーマン姿がちらほら見えたが、まだそんなに目立っていない。これから時間が経つにつれ、勤務先のある都心に向かい、ドッとスーツ姿の大人達でいっぱいになるのだろう。朝ラッシュと若干ズレてるらしく、それだけでも気は楽になった。もう暫くは、あの塾帰りの時の混雑具合は経験したく無い。

「…あっ、おーい琴音!」

私達よりも先にこちらに気付いたのか、裕美が大きく手を振っているのが見えた。

「…いよいよね」

私は胸の前で小さく手を降りながら近づいた。裕美は表情に若干の緊張を漂わせながらも、笑顔を作って頷いた。一瞬見せた本気の表情は、あの水泳大会のスタート前のに酷似していた。

予め私と裕美は待ち合わせをしていた。今日受ける学校は試験後に面接があるというので、普段より若干おめかし気味だ。私は寒さ対策でグレーのコートを着ていたが、下は紺のブレザーにグレーと黒の地味目なチェック柄の膝が隠れる程度のスカート、厚手のタイツを穿いていた。たまたまというか、何というか、裕美も同じ様な出で立ちだった。尤も裕美のコートは淡いクリーム色だった。チラッと見えるスカートは真っ黒、タイツも真っ黒だった。一月に今いるこの面子で、都心のデパートにわざわざ出かけて、一緒に買ったものだった。…結果はまだ言わないが、もし二人とも合格、もしくは不合格じゃ無かったらと思うと、ゾッとする。これでどっちかだけが合格した日には、殺伐とした空気が両陣営の間に流れたことだろう。私達本人とは別のところで。

それはさておき、挨拶もそこそこに、早速私達は電車に乗り込んだ。殆ど塾までと変わらない道のりだった。電車はギリギリ座れないくらいの混み様だった。私と裕美はドアの手摺り付近に立った。お母さん達は少し離れた所にいた。

「…いやー、緊張するな」

裕美は外を流れる景色を見ながらボソッと呟いた。

「…ふふ、大会とどっちが緊張する?」

私も同じ様に外を眺めながら言った。すると裕美はチラッと私の方を見ると、何か不思議なものを見る様な表情で返した。

「…アンタ、今日みたいな時でも、そんな軽口叩けるんだねぇ…いやぁ、凄いわ」

「ふふ、褒めてくれて有難う」

私は心から感謝を述べて、微笑みながらまた顔を外に向けた。裕美は鼻で短く息を吐くと、苦笑交じりに言った。

「…まぁ褒めてるっちゃあ褒めてる…かなぁ?私はやっぱり緊張してるもの…下手したら大会より」

「え?そうなの?」

「うん…あ、いや、勿論初めて大会に出れた時は…もう、何をしてたか思い出せないくらいに緊張してたけどね。おかげさまでというか、何度か出るうちに慣れてくもんだから」

「ふーん、そんなもんか」

私は呑気な調子で返した。

「そんなもんよ。…でも今日は初めてでしょ?しかも最初で最後。…あぁ、自分で言ってて、また緊張がぶり返してきた」

裕美は暖房の効いてる車内だというのに、両腕を手でさすっていた。見兼ねた私は、おもむろに裕美の右腕を一緒に数回摩りながら言った。

「…もーう、今から緊張してどうするのよ?今まで精一杯やってきたんでしょ?だったら今は過去の自分を信じるしかないじゃない。私は自分を誰よりも信じてる。…まぁ尤も」

私は裕美の腕から手を離し、そのままほっぺに持っていってポリポリ掻きながら続けた。

「駄目かもしれない自分のことも信じてるけどね?」

「…ぷっ!何それぇ」

裕美は吹き出した。薄眼を使いながらニヤケている。

「それじゃあ駄目じゃーん」

「私は駄目な私も好きなの。…懸命に努力した結果であればね」

「…うん、そうだね」

そう返してきた裕美の顔は、先程までの強張った表情から打って変わって、何やら解放されたかの様な柔らかい微笑みを浮かべていた。

「…ありがとうね」

「…ん?何が?」

私はワザとすっとぼけて見せた。裕美は目をギュッと瞑りながら、明るく切り返した。

「もーう!何でもないっ!」


四ツ谷駅に着き改札を出ると、辺りには私達と同い年くらいの女子達が、お母さんらしき人と一緒にゾロゾロと同じ方向へ歩いていっていた。彼等はみんな恐らく同じ受験生だろう。皆んな一様に暗い表情でいるか、全くの無表情そのどちらかだった。私と裕美みたいに表情が柔らかいのはザラだった。

歩いて二分くらいで学校の正門前に着いた。その前では何やら色んな大人達が子供達に向けてエールを送っていた。私達はスルーして行こうとしたら、見覚えのある人に捕まってしまった。塾での私達の先生だ。何やら色々言われた。『お前達は俺達がついてるぞ』云々。正直この先生には悪いけど、なーんにも思い入れが無いせいで、どんな美辞麗句も何一つ私の心の琴線に触れる事は無かった。さすが”大人”な裕美は、それなりに先生の相手をこなしていた。私の分までしてくれて、とても助かった。お母さん達も軽く先生に挨拶していたが、そろそろ私達の時間が迫っていたので、お暇することにした。私は全く相手にしてなかったのに、一人でドッと疲れていた。何とか絵里の事など思い出して、気を取り直した。

朝起きて携帯を見たら、義一と絵里からメールが来ていた。義一からは一言『ほどほどにね』だった。私は「らしいなぁ」とニヤケながら独り言を漏らしていた。絵里からも一言だけだった。『楽しんできてね』。これまたいかにも”絵里”といった調子だったから、またニヤケてしまった。普通が何だか私には分からないけど、恐らく安直に『頑張れ』が一般的なのだろう。私はこんな性格なので、裏をどうしても読もうとしちゃうから、偽善の匂いを感じ取ってしまう。 それらを理解し踏まえた上での、義一と絵里のメールだった。たった一言の中にどれだけの私への気遣いがあるか、計り知れなかった。それで十分だった。…これのおかげで当日緊張しないで済んだのかも知れない。


「携帯電話の持ち込みは禁止です」

無感情なアナウンスがひっきりなしに鳴り響いていた。私と裕美はカバンからスマホを取り出し、自分のお母さんに預けた。細長い簡易的な看板が立っていた。そこには『受験生』『保護者』と書かれていて、それぞれの字の上に矢印が書かれていた。左が受験生で、右が保護者だ。ここで別れるらしかった。

裕美とおばさんが何やら会話をしてる間、お母さんも私の肩に手をそっと置きながら話しかけた。顔は朝とは違い柔らかかった。

「…じゃあ琴音、頑張ってくるのよ?」

「…うん。行ってきます」

私も優しく微笑み返して、裕美とともに入試会場へと向かった。中は土足厳禁だったので、持ってきていた上履きを履いて中に入った。受験番号で教室が割り振られており、裕美の方が番号が小さかったので、一つ隣の部屋に入って行った。入る時黙って私を見ると、力強く頷いたので、私も同じ様に強く頷き返した。それを見ると、裕美は一瞬微笑んで見せて、中へと消えて行った。

私達が受ける試験科目は四科目だった。国語、算数、理科、社会だ。全ての科目を受け終えても、そのまま待たされた。何故ならこの後に面接があったからだ。面接は受験番号順に行われるので、裕美の方が私よりも先に受けるはずだった。

その間ちょうど十二時を過ぎていたので、周りの受験生が各々カバンからお弁当を出し、それを食べ始めていた。私も倣って持ってきたお弁当を食べた。お母さんが朝に持たせてくれたものだった。久しぶりにお母さんの手作り弁当を食べたので、この状況下でそう思うのはどうかとは思ったが、やはり素直にお母さんの作るご飯は美味しいと、実に良く味わいながら食べた。

一時半になろうかと言う頃部屋のドアを開けて、スーツを着た三十代程の女の人が、私の番号を含む数字を呼んだ。番号順に座っていたので、私の前後数人が同時に立ち上がり、カバンに荷物を片付けて持ち、そして女の人の後を一斉について行った。ある部屋の前に椅子が何個か置かれていた。女の人はここで座って待つように言うので、私達は黙ってそのまま番号順に座った。女の人は見届けると、どこかへ行ってしまった。

廊下は薄暗かった。廊下の突き当たりに大きな磨りガラスがあるらしく、外からの自然光が漏れて、廊下に一本の光の筋が出来ていた。それ以外には弱々しげな蛍光灯が点いているだけだった。

私の前にいた女の子が部屋の中から無表情で出て来た。そしてそのまま出口の方へとスタスタ歩いて行ってしまった。その後ろ姿をぼーっと見ていると、開けっ放しのドアからさっきとは別のスーツ姿の女性が出て来た。

「〇〇番さん、どうぞ中へ」

「はい」

私は足元に転がしていたカバンを手に取り、言われるまま誘われるままに、部屋の中に入って行った。そこは日当たりが良いらしく、一瞬目がくらむ程だった。中には人が先程の女性を入れて三人いた。皆女性だ。私を呼んだ女性はドアの脇に直立していた。残り二人の女性は年配の女性だった。二人は長テーブルを前に、等間隔で座っていた。いかにも教師といった容姿だった。二人共に顔に微笑を湛えていた。

「どうぞお掛けください」

そのうちの一人が私に、上品な調子で声を掛けた。

「失礼します」

座れば二人が真正面になるように設置された、一つだけポツンと置かれた椅子に、一言断ってから座った。もう一人の女性は何やら紙を捲り、ペンを手に持つと、もう一人の女性と同じ様に微笑みながら私を見ていた。

「まずは自己紹介をお願いできますか?」

私に座る様薦めた女性が、私に話しかけてきた。

「…私は望月琴音といいます」

「望月琴音さんね」

隣の女性はカリカリと、何やら書き始めた。

「面会時間は約三分間です。よろしくお願いしますね」

「はい、よろしくお願いします」

私は深々とその場で座りながらお辞儀した。顔を上げると、先程から話しかけてくる女性は微笑みながら、優しい口調で言った。

「緊張しなくても大丈夫ですよ?楽しい会話をする様にしましょう」

「はい」

私は一応恐縮して見せながら答えた。

女性はニコッと笑うと、隣でずっとメモをしている女性の手元をチラッと見ると、早速質問を投げかけてきた。内容は『思いやりを感じた体験、もしくは心に残っている体験』だった。実は予め面接直前に質問の書かれたカードを手渡されていたので、急に聞かれても困らない様な救済処置がなされて居た。私に言わせれば予定調和だった。

これは前に一度だけ裕美と学校の説明会に来た時に、この学校の教頭が登壇して、去年の面接内容はどうだったかを説明していたが、それと大体一緒だった。 説明会の会場、その場に居た他の子達は、裕美もそうだったみたいだが、この漠然とした問いにどう答えるのが良いのか困っていた様だった。私はまた別の意味で困っていた。寧ろ話したいことが多過ぎたからだ。説明会でも制限時間が三分だと聞いていたので、当たり障り無く”私”を殺してどう答えるのかが、鍵になるだろうと思っていた。でもいざ本番になってみると、急に頭の中に義一と絵里、ピアノの先生の姿が思い浮かんできた。…うーん

「では話して頂けるかしら?」

女性は顔中に興味津々だと言う感情を、万遍なく浮かべて見せながら聞いてきた。隣に座ってメモを取ろうとしている女性も同じだ。

私は少し躊躇したが、覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。

「はい、私は…」


「では失礼します」

私は一礼して部屋の外へと出た。そして前の人がそうした様に私も出口に向かって歩いて行った。途中から大きな矢印の書かれた紙が廊下の壁に貼ってあり、その下に『出口』と『控え室』と書かれていた。

私は『控え室』と書かれている矢印に従って進んだ。

「琴音!」

控え室に使われている講堂の中に入ると、遠くの方で私の名前を呼ぶ者がいた。お母さんだ。側には裕美のお母さん、そして一足早く面接を終えた裕美の姿もあった。 私はゆっくりとした足取りでお母さん達の元へ近づいた。お母さんは優しく微笑みながら、私の両肩に手を置いた。

「琴音…お疲れ様」

「うん」

何だかんだ私も自分で思う以上にやはり緊張していたのか、一気に脱力感に襲われつつも、ただ短く、でも明るく努めて笑顔で返した。

「お疲れ様、琴音ちゃん」

裕美のお母さんも私の背中に手をやりながら、優しく労ってくれた。

「お疲れ様、琴音」

裕美も満面の笑みで私を迎えてくれた。私は意地悪く笑いながら返した。

「…お互いにね?」

「あははは!そうね」

すっかりいつもの裕美に戻っていた。と、ここでおばさんはお母さんに声を掛けた。

「…じゃあ瑠美さん、いつまでもここにいてもしょうがないから、帰りますか?」

「あっ、そうね。そうしましょう」

「じゃあ二人共ー!行くわよー!」

「はーい!」

私達四人が講堂を出て、正門を抜け、四ツ谷駅のホームに着いた頃には二時半になっていた。 ここまでの道中、せっかく都心まで出てきたんだから、この辺りで軽く食事する案が出ていたが、第一志望の受験が終わったとは言え、まだ二校ほど入試が残っていたこともあり、今日のところは大人しく帰り、地元に着いたら軽く食事をする案に落ち着いた。

電車の中、真昼間だからか余り人気が無かった。余裕で座れた。お母さん達と向かい合って座る形になった。とは言ってもお互いの会話が、詳しくは聞き取れないほどには離れていた。

「いやー…ひとまず終わったね!」

裕美は電車の中だというのに、座りながら大きく両手を上に伸ばしながら言った。私達の背後の窓から、冬の太陽の陽気が光と共に降り注いでいた。

「…そうね」

「ん?何?どうしたの?」

「え?…んーん、何でもないわ」

私はなるべく悟られないように答えた。裕美は「ふーん」と言ったきりで、それ以上は聞いてこなかった。

私の頭の中には、今日の面接の風景が思い出されていた。用意していた答えとは全く違う事を答えてしまったのを、今になって後悔していた。

…アレが影響したら…どうしよう。

流石の私も一応それなりに、裕美ほどじゃ無いにしろ頑張ってきた自負があったから、こんなつまらない事で落ちたりしたらと思うと、気が気じゃ無かった。…今ここで言うことでは無いかもしれないが、正直ここまで来たら絶対に合格したかった。口が裂けても恥ずかしいから言えないけど、…もちろん初めは絵里の出身校だと言うんで、興味を持ったというのが動機だったが今は…単純に裕美と同じ学校に通いたいという気持ち一心だった。合格発表はすぐ明日に迫っている。

そんな私の何かを察したか何なのか、裕美はおもむろに面接の話を振ってきた。

「いやー、想定通りの質問で助かったね」

「…うん、そうね」

私は顔を後ろの窓に向け、外を眺めながら答えた。すると裕美は何を勘違いしたのか、ツンとして見せながら言った。

「まぁアンタは良いよねぇー。仮に想定外の質問が飛んできても、易々と答えてしまうんだから。何せ普段からあんなに弁が立つんだし」

「…ふふ、何よそれ」

私は苦笑交じりに返したが、心中は穏やかではなかった。仮に裕美の言う通りだとしたら、その弁が立つせいで、暴走してしまった可能性を否めなかったからだ。

「そういえば、アンタが面接終えて出て来るまでじっとしてたんだけどね」

「…うん」

私は上の空で返した。

「周りの子達の会話が聞こえてきたの」

「…なんて言ってたの?」

「なんかねぇ…」

裕美は何だかつまらなそうにしながら、先を続けた。

「正直面接って合否には関係しないみたいなのよ」

「…え?」

私は一瞬裕美が何を言ったのか理解出来ず、思わず聞き直してしまった。

「それって、どういうこと?」

「なんかね…」

私が見るからに動揺しているのにも気に留めず、裕美は淡々と続きを話した。

「その子達が言うには、この面接の目的は合否に関係無く、いわゆる子供の自主性ってヤツを見るためにしているんだって。話していた女の子のお姉さんが在学中らしいんだけど、そのお姉さんに教えて貰ったらしいのよ。『実はな…』みたいにね」

裕美は急に私の耳元に顔を近づけ、内緒話をする真似事をした。

「ほら、面接前に質問が書いてあるカードを貰ったじゃない?アレを見て、子供達が面接までに自主的に考えるのを促進してるんだって。だから面接する本意はそこにあるらしいのよ。面接内容は、どうでも良いとは言わないまでも、そこまで重要視はされないんだって」

「…はぁーー」

私は大きく肩を落としながら、ため息をついた。

「え?何々、どうしたのよ?」

裕美は不思議そうに私を見ていた。

「…んーん、何でもありませーん」

私は車内が空いているのを良いことに、足を前に無造作に投げ出し、大きく伸びをしながら返した。その名も知らない女の子の話、お姉さんに聞いたと言う不確定事項、しかもただの又聞きに対して信頼をおくのはどうかと思ったけど、話に筋が通っていたし、まぁ心理的に安心したいが為に、藁にもすがった感は否めなかったが、ホッとしたのも確かだ。

私はすっかり晴れやかな気分になっていた。自然に笑みも溢れた。もうすっかり覚悟を決めて、明日の合否発表を迎える準備が出来上がった。

それに反して私の反応のせいで、裕美は見るからにモヤモヤしていたようだった。ゴメンね、裕美。

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