第4話 義一さん

あれから放課後、ピアノのレッスン帰り、思い付きでフラッと土手の方を行ってみたが、義一と会うことは叶わなかった。義一が横たわっていた土手の斜面、川に架かる橋と橋の間を行ったり来たりしても見つけられなかった。男なのにヒョロヒョロしてて、色白く、髪も長い、本人も言っていたけど、中々怪しい姿形しているから、いくら土手が広いとは言え、いたらすぐに見つけられると踏んでいたけど、甘かったようだ。

 最後に会った四月上旬から早三ヶ月、一学期も終わり今日は終業式、明日から夏休みに入ろうとしていた。学校帰り、友達と途中まで一緒に下校し、別れた途端私は駆け足で家に向かった。玄関を開けると人の気配が無かった。まずリビングに行って見ると、テーブルの上にお母さんが残したメモがあった。「ちょっと買い物に行ってきます。もし小腹が空いたら冷蔵庫にオヤツがあるからね。 母より」

 手に取って読んだメモをまたテーブルに戻し、自室に駆け込んでランドセルと持ち帰って来た学校の荷物を降ろし、着替えて、身支度を済まし、部屋を出た。今日貰った通信簿をメモの側に置き、ふと思い付いて、私もメモを残した。「ちょっと友達と遊んで来ます。暗くなる前に帰ります。帰る前に電話するね。 琴音」

 玄関を出ると日が燦々と照り、アスファルトからは目には見えないけどモワモワした熱気を感じた。頭には赤いリボンの付いてる麦わら帽子。当時この帽子がお気に入りで、夏場外に出る時は、必ずと言っていいほど被っていた。

「さぁ、今日から時間があるから、そろそろ見つけ出してやるぞ」

「おい、何をブツブツ言ってんだよ?」

「ん?」

 土手に向かう途中、一人で気合いを入れる意味も含めて独り言を言っていると、後ろから急に話しかけられたので若干ビクッとした。振り向いて見ると、自転車に跨がり、野球帽を被った少年が仏頂面でこちらを見ていた。背丈は私より少し低いくらい、タンクトップに膝が隠れるくらいのジーパンを履いていた。よく知るその姿に、私はホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、どうでもいいといった調子で答えた。

「なーんだ、ヒロかー。脅かさないでよ、いきなり話しかけて来て。ビックリするじゃない」

「へっ。お前はいつも大袈裟なんだよ」

と、ヒロは鼻を豪快に擦りながら言った。

ヒロ。森田昌弘。小学校入学時からの付き合いだ。最初出席番号順に席に座っていた時に、私の名字の望月、ヒロの名字の森田、たまたま隣同士になった頃からの腐れ縁で、今はクラスが違うけれど、変わらず関係は続いていた。

「で?何をブツブツ言ってたんだよ?」

「べっつにー。私の勝手でしょ?」

素っ気なく返事を返しながら、ヒロの格好を見て意外に思った。

「ヒロこそ、こんなところで何してるのよ?今日、練習は?」

「練習か?今日はねぇよ」

 ヒロは地元の野球チームに入っていた。練習も試合も河原のグランドでしているらしい。何度もヒロに応援にきてくれと頼まれたけれど、私は別に野球に興味がなかったから、今だに一度もヒロがしてるのを見たことがなかった。ただ、見に行ったという友達の話を聞くと、中々のものだったらしい。まぁ、どうでもいいけど。

「じゃあ何してるのよ?」

と、改めて聞いて見ると、ヒロは両肘を曲げ、手の平を空へ向け、首を大きく横に振りながら

「はぁ…出たよ。琴音の”なんでなんで攻撃”が」

「別に無理に答えなくていいよ。そこまで興味ないんだから」

「あっ!ひっでぇーこというなコイツは…」

「ま、大方ヒマな友達が居なくて自転車で意味もなく走り回ってるってトコでしょ?」

「おいおい…淡々と正解を言うなよ。こっちが何も言えねぇじゃねぇか」

ヒロはうんざりした感じで言ったが、これが私達のいつもの会話なのでお互いに慣れっこだ。

「そこまで言う琴音は、これからどこに行こうってんだよ?」

「わ、私は…」

 私は咄嗟に答えられなかった。あまりよく知らない、どこにいるか分からないおじさんを、当てもないのに捜しに行くだなんて言ったら、益々ヒロは私を小馬鹿にして煽り、からかってくるだろう。少し想像しただけで面倒臭そうだったので、ごまかす事にした。

「別に…ヒロに話す程のことじゃないよ」

「ム…何だよその言い方」

ヒロは私の言ったことの何かに引っかかったのか、ムッとしてたが、ガラッと態度を変えて頼み込むように猫なで声で喋った。

「いいじゃねぇか。教えてくれよー。ヒマなんだよー」

「知らないよ、アンタがヒマかどうかなんて…」

参った。このまま無駄な問答を繰り返してたら、今日一日の計画がパァだ。仕方ない。

「はぁ…ヒロ。ぜっったい私の邪魔をしないと誓う?」

「へ?お、おう。もちろん誓うぜ!」

「絶対よ?ぜぇっったいによ?」

「しつけぇなー。男に二言はねぇよ」

「じゃあ簡単に話すわね?実は…」

私はおじさんのことは避けて、人を探してるとだけ話した。ヒロは分かったような分からないような表情で首を傾げながら

「何となく分かったけどよー…それって面白いか?」

「だーかーらー、無理について来なくていいってば」

「いや、行くぜ!初めに渋ってたとこ見ると、何か他にありそうだからな」

 まったく、変なところで勘が良いんだから…。

「じゃあもう行きましょ。ここは暑くてたまらないわ」

 こうして予想外にできた相棒(?)を連れて、一緒に土手へと向かった。道中ヒロに、その探し人が何で土手にしか現れないんだとか、ある意味普通の質問をしてきてたけど、私にも分からないんだから答えようがなかった。

 土手の上部、遊歩道に辿り着くと、ここまでの道のりとは違って、心地よい風が吹いていて、汗ばんだ体には涼しく、とても気持ちよかった。

「んーん。気持ちいいな琴音」

「そうね…ってヒロ、目的分かってるよね?」

「分かってるよ。早速探そうぜ?で、どんな人なんだ?」

「ふーん…今まで聞いてこなかったから、最初から探す気が無いと思ってたけど、ヤル気はあるのね?」

「当たり前よ!」

ヒロは大きくガッツポーズをして見せた。この能天気さに、危うく流されそうになるのを堪えながら、説明した。

「見た目はそうね…そこそこ背が高くて色白よ」

「ふんふん」

「で、髪の毛が長くて痩せてるの」

「ほう…」

「見た目は実年齢とかなり違って見えるから、これは参考にならないかな」

「美魔女ってやつか?」

「え?」

「…え?違うのか?」

「違うよ。だって男だから」

ヒロは私の最後のセリフを聞くと、一瞬動きが止まったが、すぐまた一段と大きくリアクションを取りながら言った。

「なーんだ、男かよー。期待して損した」

「今までの会話のどこに期待を持たす点があったのよ」

と、冷静にツッこんだが、ヒロは聞いてないようだった。

「じゃあ、もう止める?」

もうここで正直諦めて帰って欲しかったが

「いーや、ここまで来たら、琴音が、あの人嫌いで通ってるあの琴音が探している男…俄然ヤル気が出て来たぜ」

「誰が人嫌いよ。…はぁ、もう勝手にして」

それから二人して土手を隈なく探したが、そもそもこのピーカン照りのせいか、私達以外にはグランドで野球をしている人と、斜面に腰掛けて日傘を差し、読書をしている女性(ヒロはチラチラ後ろを通り過ぎる時に見ていた。ああいうのが好きなのか、スケベめ)、後はチラホラ親子連れがいるだけだった。

「はぁ、ちょっと休もうぜ」

「そうね、休憩しましょ」

私達は土手の斜面に腰掛け、下のグランドの野球している人達を見ていた。ヒロが何か気が付いたように

「…なぁ、あの野球しているの、あの中にいるってことはねぇか?」

「え?…いやー、どうだろう。多分無いと思うけど」

「何だかなー…」

ヒロは後ろに両手をついて、空を見上げるような態勢になりながら愚痴をこぼした。

「そもそも、琴音の情報が少なすぎるんだよな。お前がそもそも、あんまし知らないみたいだし」

「…」

 そう。言われなくても分かっている。でも、どんなに少ない情報を手掛かりにしか探せないとしても、特に根拠はないけど、このチャンスをフイにしたら後悔する。あの三年前、おじさんと出会ってから、今まで月日が経って、おじさん程私の質問、会話を真剣に聞いてくれた人はいなかった。半分諦めていたところでの再会。私の本当の気持ちを分かってくれる、もしかしたら唯一かもしれない。ヒロの言う通り正直おじさんのことわかってるとは言えない。私の中で作り上げた理想なのかも知れない。でも、それを確かめる為にも、私はもう一度おじさんに会わなくちゃいけないんだ。

「…ーい、おーい、おい!琴音!」

「…えっ!?何!?」

「何?じゃねぇよ。急に黙りやがって。どうした?」

「え?…あ、いや…何でもない」

「ったく、熱射病にでもなったかと思ったぜ」

「大丈夫だよ。ちゃんと帽子も…あれ?」

ふと、隣座ってるヒロの向こう、日傘を差して今尚読書を続けている人の横顔を、初めて同じ高さで見えると、どこかで似ている面影が見えて、思わず吸い寄せられるように近寄って行った。

「お、おい、琴音!琴音ってば!ったく」

と、後ろで文句を言ってるヒロの事は気にせずズンズン歩き、ついに手が触れられるほどに近づいた。そして恐る恐る声を掛けた。

「…お、おじさんだよね?そうでしょ?」

丁度ヒロが追いつき、私のすぐ後ろに立った。

「おいおい、探してるのは男だろ?この人は女じゃ…」

「よく気づいたね。さすが琴音ちゃん」

とおもむろに日傘を畳んで現れたのは、白いTシャツに細身のジーパン姿の、まぎれもない義一本人だった。

「おいおい…マジか。男だったのかよ」

と、ヒロは私とは別の意味でショックを受けているようだったが、私はそんなの無視して

「おじさん!」

と何も考えないまま義一に抱きついた。

「おっと…琴音ちゃん、危ないよ。こんな斜面で…」

私達の姿を見て、また新たにヒロが違う理由でショックを受けていることは、私には知る由もなかった。


「いやー、とうとう見つかったか。二人とも喉乾いたでしょ?これ飲む?」

義一は側に置いていたバスケットから水筒を取り出しながら言った。

「…うん、ありがとう」

私は少し落ち着きを取り戻し、ヤケに用意が良いのにはツッこまずに、紙コップに注がれたスポーツドリンクを貰った。魔法瓶に入れていたからなのか、キンキンに冷えていた。私に渡した後、もう一つ紙コップを取り出し、注ぎながら今度はヒロの方を見ながら呑気な調子で

「えーっと…君も飲む?」

「…え!?あっ、はい、じゃあいただきます」

こうして三人は斜面に腰掛けて、端から見てると仲良さげに並んで飲んだ。

 まず何から話せば良いんだろう?おじさんを見つけた時何を話すか、あれこれ考え想定していたはずなのに、いざその時になったら、頭の中を色んな言葉が渦巻いて、上手く拾えず、ただ静かに黙っているしか無かった。そんな私の胸の内を察したか、また呑気な調子でヒロに話しかけた。

「君は、えっと…」

「お、俺は森田昌弘です。琴音の…あ、いや、望月さんの、一年の時からの友達です」

「へぇ、そうかい。中々しっかり挨拶できる、今時珍しい好青年だね?琴音ちゃん?」

「う、うん。私も今初めて知ったけど。こんなに外面がいいなんて」

「おい!余計なこと言うなよー。…で、あのー…」

と、ヒロは義一の顔を覗き込みながら先まで言わずにいると

「あ、僕かい?僕は琴音ちゃんのパパの弟をしている、望月義一といいます。琴音ちゃんからしたら、いわゆる叔父さんだね」

「へぇ、親戚の…」

と言いながら、ヒロは今度は私の方に向き直り眉をひそめながら

「おいおい琴音。初めから教えてくれよー。全然教えてくれないから、初めて見た時変に警戒しちまったじゃねぇか」

「警戒なんてしてたのあなた?」

「警戒?…はははは」

義一はヒロの言葉を聞いても、不機嫌になるどころか、愉快になってるようだった。私は予想通りだったが、予想していなかった、むしろ口を滑らせたことにバツが悪そうにしていたヒロがポカンとしてるのに、それにも構わず

「確かに確かに。私は見ての通り怪しい身なりをしているからね。まぁ自分では、なるべく浮かないようにしてるつもりなんだけど、君の反応はすごく真っ当だよ。はははは」

「…おい、お前のおじさん、かなり変わってるな?」

「まぁね」

ヒロが視線は義一に向けたまま、私の耳元でヒソヒソと言ったので、私も同じ調子で返した。

「さてと…」

義一はおもむろに立ち上がり、お尻をはたいて、両手を上げ大きく伸びをすると、私達の方を向き

「いつまでもこの炎天下にいるのは体に悪いから、とりあえず今日はここで解散しよう」

と言ったので、ヒロも立ち上がったが、私は慌てて

「いやいや、待ってよおじさん!まだ全然話したいことが…」

と言いかけたところで、ヒロが一緒にいることに改めて気づいて、先を言うのを躊躇った。まったく、ヒロがいるせいで…。ここまで付き合ってくれたのに、この心の中の悪態は、ヒロ相手といえども酷いとは思ったが、本心なのだから仕方がない。義一は視線を宙に投げながら、数秒考えていたが、私のそばで急にしゃがみ込み、右手で口元を隠しながらヒソヒソ声で

「琴音ちゃん、取り敢えず友達もいることだし、今日は帰りなさい」

「でも…」

「琴音ちゃん、この近くの区立図書館知ってる?」

「?…うん、知ってるけど」

「そうかい、じゃあ…」

と、今度は私と正面向かい合わせに、しゃがんだまま移動して

「そこに明日昼の一時に待ち合わせよう。都合はどうかな?」

「だ、大丈夫だと思う」

「よし!」

「おいおい、何を二人で話してんだよ?」

「あ、ごめんごめん!さぁ一緒に帰ろう」


 三人して川が見える側とは反対の斜面を降り、その麓に着いたかと思えば義一が

「じゃあ、僕はここで失礼するよ。じゃあね琴音ちゃん、あと森田くんも」

「お、おう。じゃあな、おじさん」

「あ、そうだ」

義一はまたさっきみたいに私の顔に近づき、ヒソヒソと言った。

「琴音ちゃん…夏休みの宿題ってあるよね?」

「うん」

「じゃあ明日家出る時、幾つか持って家を出てきてね?あと、ちゃんとママに図書館に行くこと言うのを忘れずに」

「別にいいけど…なんでまた?」

「いいからいいから、説明は後で。それに…」

と、義一が私から視線を逸らして、顎を一度クイっと向けたので、その方を見ると、ヒロが少し離れた所で腕組み、苛立たしげに爪先をリズム良く上下に動かしこちらを見ていた。

「友達待たしちゃ悪いし」

「おーい、琴音ー!。まだかよー!。置いてくぞー!」

「わ、わかったー!そんなに急いでるんなら、さっさと先帰ればいいでしょ!」

私は駆け足でヒロの方へと向かった。そばに着くと、改めて振り返り右手を大きく義一に見えるように振った。義一もそれに答えて簡単に振り返すとクルリと回って私達と反対方向に歩いて行った。今度は見えなくなるまで、見送らなかった。


「いやー、びっくりした。あんな大人初めて見たぜ」

ヒロは自転車を手で押しながら、しみじみ理解できないといった調子で言った。

「本当に変わってんな、お前の叔父さん」

「ふふ、変わってるでしょ?」

と、何故か得意な調子で答えた。ヒロは私の顔を見ると、何か面白くなさそうな表情で

「何だよ、そんなに伯父さんに会えて嬉しかったのか?」

「え?何でよ?」

と聞くと、ヒロは片手を使って自分の口角を持ち上げながら

「さっきからニヤケっぱなしだぜ?気味が悪い」

「気味が悪くてすみませんねー」

と軽く流しながら、ほっぺの辺りを適当に撫でた。自覚なかったけど、私ってそんなに表情出やすいのかしら?

「まっ、琴音が良かったなら、それでいいけどよ…で?」

「ん?」

「いやー…やっぱいい」

「何よー。変にやめないでよ。何?」

「いやー、お前…」

ヒロは私から顔を逸らしながら、とても言いにくそうに辿々しく言った。

「お前、あの叔父さんの事…どう思ってんの?」

「…え?どう言う意味?」

「どう言う意味って…あっ!」

何かを言い掛けたところで、ヒロは進行方向を向くと急に立ち止まった。私もならって止まると、いつの間にか私の家の前の通りに着いていた。ヒロは少し慌てた調子で

「もうここまでで良いよな?じゃあ、またな!あばよ!」

「あ、ちょっと!」

慌てて呼び止めようとしたのもつかの間、ヒロは自転車に跨り、一瞬も振り向きもせず一目散に通りの向こうへ行ってしまった。

「何だったのよ、アイツは」

はぁ…と大きく一つ息を吐くと、少し見えている自宅へ向かって歩き出した。玄関に手をかけようとしたところで、あっと思い出した。

「そういえば、電話するの忘れてた」


 先に買い物から帰っていたお母さんから軽く小言を頂いたが、平謝りで何とか許してもらえた。まぁ家出る時先に出しておいた通信簿の内容が、そこそこ良かったからかもしれない。成績が下がってたらネチネチまだ言われてたかも。

 この日はお父さんが珍しく夕食どきに帰ってきた。院長に新任されてから初めて、親子三人での夕食だ。ゴタゴタ続き、慌ただしく引き継ぎ、まだ慣れてない院長業務のせいか、目の周りに疲れが見えていたが、家庭に仕事を持ち込まない、愚痴を聞いた事のなかった私は、子供ながらにこの頃はまだ、お父さんを尊敬していた。

 

食事を終え寝る前の準備をして、そそくさとベッドに入った。

「明日はゆっくりと、おじさんとお話し出来るなぁ」

まるで遠足前に、興奮して寝付けずはしゃぐ子供のような心持ちだった。まぁ、まだ子供なんだけど…でも寝なくちゃ。意を決して目を瞑り、ウトウトと寝かかったその時、昼間ヒロに言われた事を、ふと思い出した。

「…おじさんの事どう思うかって?…ヒロの奴、何のつもりで聞いてきたのやら…そりゃ当然…」

と、思いを巡らしてるところで、気づけば寝落ちしてたらしく、目覚めたときには外は明るく、セミがけたたましく鳴いていた。


「それじゃあ、図書館行ってくるね」

「はーい、車に気をつけるのよ」

「うん」

昨日も被った麦わら帽子を身に付け、宿題の入った、白地にヒマワリが一本大きくプリントされたトートバッグを肩にして玄関から外に出た。

「ふぅ…今日もあっついなぁ」

見上げると空には雲一つなく、濃い青一色に塗り潰されていた。真夏日だ。

「まったく、用事がなかったら絶対外出ないのに…」

と一言恨み節を吐くと、図書館へ向かって歩いて行った。

 その図書館はよく知っていた。私の通っている小学校からは五分くらいの距離にあったが、前に授業の一環で担任の先生引率の元よく行ってたからだ。もっともその時会員証を作ってからは、一人でたまに本を借りたり読んだりする為よく通っていたので、勝手を知っていた。

全身に汗を滲ませながらもようやく辿り着き、正面玄関口のドアに手をかけ押すと、冷気が外に向かって出てきて私にも当たり、ここに来るまでにすっかり熱を帯びた体との温度差に、ホッと一息つける気持ち良さだった。中に入るとすぐ手前に受付があり、その脇には何列か等間隔に長テーブルが置いてあり、イスも幾つか置いてあった。ただこのスペースは非会員でも入れるスペースで、会員証を持ってる人は、受付の向こうのまた等間隔にある長テーブルのエリアに入れる。そこは奥に所狭しと並ぶ書庫に近いスペースで、入口付近よりも静かなので、読書や調べ物、勉強や仕事をする人には重宝されていた。

「あれ?琴音ちゃん、いらっしゃい」

「あ、こんにちは」

受付の方から話しかけてきたのは、いつもここに来ると何かと世話を焼いてくれる女司書さんだ。名札には”やませ”と平仮名で書いてある。初めて会った頃に聞いてもないのに、漢字で”山瀬”と書くと教えてくれた。一緒に下の名前も”絵里”だと教えてくれて、絵里と呼んでと言われたけれど、今だに話す時は、山瀬さんだ。歳はおそらくアラサーなのだろうが、言動や振る舞いで、良くも悪くも大学生でも通じるくらいには若く見えた。中肉中背でハキハキと喋る、あまり図書館には似つかわしくないと思われたけど、私はこの人を少なからず気に入っていた。でもせっかく鼻筋が通っていて、目も細く垂れ目がちで、キャラとは真逆に品を感じるような顔立ちで可愛いのに、マッシュルームカットはどうかと思ってたけど。

「久しぶりじゃない。もう来ないと思ってたよ」

「大袈裟ですね。前来たの、二週間前ですよ」

「その二週間がどんなに長かったかぁ」

「あ、ちょっと…」

山瀬さんは私の顔を両手で抑えると、こねるように弄びながら言った。もう一つある山瀬さんの欠点は、過剰な私へのスキンシップだ。迷惑そうな私の表情で察したか、はたまた単純に満足したのか、ようやく手を離すと、さっきより声の音量を抑えて、悪戯っ子のような笑顔で言った。

「ごめんねぇ。でも琴音ちゃんがそんなに可愛いのがいけないんだぞー?ただでさえ普段は年寄りしか来ないのに、前触れもなく急に来るんだから。アタシとしては、見渡すばかり殺風景の荒れ野の中で、一輪の花を見つけたかのような…」

「はいはい、もう気持ちはよく伝わったので…」

「そう?まだ語り尽くせないんだけどなー。で、今日は借りてく?それともここで読んでくの?」

「いや、今日は…」

「琴音ちゃん、お待たせ」

 背後から呼びかけられたので振り向くとそこには、昨日とまるで同じ格好の義一がそこに立っていた。と、義一の姿を見た山瀬さんが、少し面倒そうな表情を作りつつ

「あれ、ギーさんじゃん?珍しいね、どうしたの?」

「ギーさん?」

と私が声を漏らすと、山瀬さんは興味を持たれたのが嬉しそうに意地悪く笑みを浮かべて、義一のほうを見ながら

「ほら、この人、下の名前義一でしょ?中々珍しい名前だし、漢字の一が伸ばし棒にも見えるじゃない?だから一は発音しないで”ギー”。ギーさん。自分でも結構センスあると思うんだけど、琴音ちゃんどう思う」

「こら、あまり子供を困らせるもんじゃないよ。そんな風に言われたら、違うと思っても同意しちゃうじゃないか。幼気で純粋な子供の心を利用しちゃダメだよ」

「はいはい、すみませんね”お爺ちゃん”」

「二人は知り合いなの?」

と、急に目の前で息のあった漫才(?)を見せられて、図書館の中だというのに吹き出しそうになるのを堪えてから、並ぶ二人を見ながら聞いた。義一が何か言おうとするのを待たずに山瀬さんが

「知り合いというか、大学に通ってた時、ギーさんは私の先輩だったのよ。ね!」

「まったく先輩に敬意を表さない後輩だったけどね」

「まあまあ、堅いことは言いっこなし!」

「へぇ…じゃあ山瀬さんは…」

「あっ、しまった!歳がバレる!…まっ、いっか。ギーさんの一つ下だよ。それ以上は言えませーん」

「もうそれ、言ってるから」

「それはそうと、今度はアタシからの質問」

山瀬さんが今度は私と義一を見て

「お二人はどう言った仲なの?もしかしてギーさん、あんまりモテないからって…」

「あのねぇ…この子は僕の兄さんの娘だよ。姪」

「あぁ、あの高慢ちきの…あ、失礼。へぇー」

一瞬聞こえた単語は聞こえないフリをした私を、マジマジと舐める様に見た後

「確かに言われてみれば似ているかもね。ふーん、世間は狭いね」

「そうだね、絵里が僕の住んでる街で司書してるくらいだから」

「本当本当。あははは!」

「はぁ…じゃあそろそろ出ようか、琴音ちゃん」

「え?あ、うん」

「何、もう帰っちゃうの?」

山瀬さんは不服そうに言ったが、すぐいつもの顔に戻り

「じゃあ琴音ちゃん、またね!いつでも来てくれていいんだから。あっ。ギーさんは別にいいからね」

「はいはい」

外に出ると相変わらず空気は熱気で満ち満ちていた。涼しい図書館にいる間、せっかく体感的な温度を実際の温度までは感じないくらいに”暑さに耐えられるポイント”を貯蓄出来たはずだったのに、一気に消し飛んでしまった。汗がじんわり滲み出してるのがわかる。

 ふと義一の方を見ると、汗一つかいていないで平然としている。見た目は頼りなくヒョロヒョロしてるのに、意外に暑さには強いようだ。図書館の正門前に立っているポールの先の時計を見ると1時半を指していた。

特にアテがある様には見えないが、義一がゆっくりと歩き始めたので、私も隣を一緒に歩いた。

「さてと…どこに入ろうかな?」

「え?…お店に行くの?」

と、私は意外そうに義一に言った。

「ん?お店は嫌かい?でもなぁ、また図書館に戻るのもなんだし、そもそもお喋りできないからなぁ」

「…おじさんの家」

私は少し間を開けてボソッと言った。

「おじさんの家は…ダメかな?」

「…え?」

義一は少したじろぎ、歩みを止めることなく考えていたが、私の顔を見て

「…来ても何もないよ?美味しいものもないし、女の子には汚いかもだし…」

と言ったので、私は少しムッとしながら

「あのね、おじさん。分かってて言ってると思うけど、私はおじさんにそういう”普通”のことは期待してないから。ただ…」

とここで少しうつむきながら

「ただおじさんの家も知らなかったら、また会えなくなるかもしれないでしょ?」

「それは…」

義一は言葉に詰まり、その先を言わなかったが、私は慌てて無理に明るい調子で

「また土手を当てもなく探すのもうんざりだしね!」

と義一の顔を強く見ながら、いたずらする様な表情で言った。すると義一は観念した様な、はたまた背中を押されたかの様な表情になり、笑みをこぼして

「そんな苦労をまたかけるわけにはいかないね。…じゃあそうだね、汚い所だけど来るかい?」

「うん!」


 途中でコンビニに寄り、棒付きアイスとお菓子を少し買って、アイスを二人食べながら義一の家までの道を、他愛の無い会話をしながら歩いた。

「ちゃんとママに言ってから来たかい?」

「うん。それは言ったけど…ちょっといい?」

「ん?」

「昨日会った時も言ってたけど、私もう”ママ”なんて呼んでないよ。”お母さん”」

「あ、そうなのかい?何しろ僕の中では、あのお寺で”ママ、ママ”って連呼してる琴音ちゃんの姿で止まってるから」

「ふーん、昨日言ってたおじさんの想像の中の私は”そこだけ”成長してなかったんだね」

私は意地悪い笑みを浮かべ、下から義一の顔を覗く様にして言った。

「いやはや、面目無い。ちょっと偉そうに叔父さんらしいこと言おうとしたら、コレだよ。あまり慣れないことは、するもんじゃないね」

「ふふ」

「宿題も忘れず持って来てるんだね?」

「うん。あ、今気づいたけど」

私は肩に下げたトートバッグを見ながら

「宿題持って来させたのって、図書館で会うための口実作りだったの?」

「そう、その通り。ご名答」

義一は軽く拍手をしながら言った。

「今琴音ちゃんが言わなかったら、先に訳をいう所だったよ。でも安心して。後でお母さんに詮索されない様に、宿題を見てあげるから。本当は図書館で少ししてから出ようと思ったんだけど、今日が絵里の勤務日だとは思わなくてね。ちょっと疲れちゃったから、外に逃げたんだよ。僕の個人的な事情で振り回してごめんね?」

私は正直呆れかえったけど、これも義一らしさなんだろうなと変に納得しつつ

「私を振り回してるのは、今に限ったことじゃないけどね」

「あ、また墓穴を掘っちゃったか」

義一は頭をかきながら言った。昨日もそうだったが、今日も髪の毛を後ろで縛っている。

「そういえば、今も髪切りに行くのに覚悟がいるの?」

「え?」

「いやだって三年前お寺で、聡おじさんとそんな話をしてたと思ったから」

「へぇー」

と義一は本気で感心したかの様に言った。

「よく覚えてるね。確かにそんなこと言ったかも」

「言ってたよ。あれから色んな大人を見たけど、髪切らない理由に、覚悟がどうの大袈裟なこという人いなかったから。でも今はちゃんと後ろで縛ってるのね」

と言うと、今度は義一が悪戯っぽい笑みで

「そうだよ、誰かさんが後ろで縛ったほうがいいと言ったからね」

「えぇー、よく覚えてるのはそっちもじゃん」

「ははは」

楽しい。本当に久しぶりに会話している様な気がした。義一と最後お寺で別れる時、私に言ってくれた言葉、それを一時足りとも忘れたことは無かった。でも、結局我を通すのは今もだけど子供心に難しく、また元の、両親が望む、教師や顔見知りの大人たちの望む”当たり障りの無い良い子”を演じ続けていた。

それが今だけは素のままでいられる気がした。トートバッグを肩から下げてたけど、そんなの関係なしに肩がすごく軽い気がした。やっぱりおじさんにまた会えて、本当に良かった。


おじさんに連れられるまま歩いていると、昨日も来た土手に出た。とそこから横に切れて、土手に沿って走る高速道路の下をしばらくまた歩いた。すぐ隣の車道には、高速の出入り口が近いからなのか、大きなトラックが引っ切り無しに唸り声をあげて通り過ぎていた。でも基本は何も無い、倉庫らしきものが建ち並ぶだけの人気の少ない寂しい通りだった。しばらくして義一は斜に出ている狭い路地に入ったのでついて行くと、ようやくお目当の場所に辿り着いた。

 そこは平屋だった。今時珍しく屋根にはしっかりとした瓦がのっていたが、所々無くて下地が見えていた。塀の上から木々が鬱蒼としてるのが見えたが、あまりにも密があったので、塀自体の高さはそんなに無いのに視界は遮られ、外から建物の全貌はよく見えなかった。とりあえず年季が相当入ってるのは、幼い私にもわかった。ただお世辞にも綺麗な家とはいえなかった。想像してなかっただけに、マジマジと隅々まで目に入れようとしていると、見かねた義一が玄関前から声を掛けた。

「ほら、琴音ちゃん。そんなところにいないでおいで」

「お邪魔しまーす」

 中に入ると真っ暗だった。靴を脱ぎながらどこか嗅いだことのある、懐かしい様な匂いがした。でもすぐに思い出した。あ、これ、図書館の匂いだ。その間義一が暗闇の中慣れた手つきでスイッチを押すと、何度か点滅してから真上の蛍光灯が灯った。その様子を上を向いて見ていたら、また義一の呼ぶ声がした。

「琴音ちゃん、こっちにおいで」

呼ばれるまま声のする方へ行くと、そこは居間らしかった。らしかったというのは、私の家の居間の半分もないくらいの広さで、キッチンと一緒になってるような間取りだったからだ。でも掃除が行き届いていて、古臭いのは否めなかったが、とても清潔感はあった。私の感想を知ってか知らずか義一は照れ臭そうに

「ごめんね、狭いでしょ?でもまぁ、自由にしててね」

と言うと、コンロとシンクの間にある木製の棚の、ガラス扉を開けて、いくつもある瓶の前で一つ一つ人指し指を当てながら選び、決まったのかその中の一つを取り出した。

かと思うと、止まることなく流れる様に二つのティーカップ、ティーポッドをすぐ隣の食器棚から 取り出し、手際よく先程出した瓶を開け、中の茶葉を適量出してポットの中に入れ、ウォーターサーバーからお湯を出している一連の義一の身のこなしを、キッチンのそばの椅子に座る私はただ黙ってみているだけだった。義一はお盆に茶器一式を乗せると、私の座るところまで持って来て目の前に置いた。よく見ると、真っ白な陶器に濃い青一色でお花の絵が描いてあった。よく分からないけど、高そうだっていうのは分かった。

「待たせて悪いけど、もう少しだけ待っててね」

「う、うん。あの…」

「ん?」

「トイレに行きたいんだけど」

「あぁ、トイレなら今来たドアを出て、向かいだよ」

「ありがとう」

 トイレを済まして居間に戻る途中、少し見上げてみると天井が意外に高いのがわかった。梁が縦横に組み合わさっている。視線を戻すと、さっきは気づかなかったが、ドアがいくつか見えた。物が多いだけで意外と家自体の大きさは普通かもしれないと思いながら居間のドアを開けた。

 戻ると見計らったかの様に、ちょうど義一が二つのカップに紅茶を注いでいる所だった。

「おかえり。今家に何もないから、せめてと思ってね。カッコつけて紅茶を出してみたけど、紅茶で大丈夫だったかい?」

「うん、好きだよ」

「それは良かった。正直こだわりがあったらどうしようかと思ったから、オーソドックスにダージリンにしてみたんだ。召し上がれ」

「いただきます」

 初めて会った時、昨日今日と、改めて気付かされたけど、このおじさん、小学生のこの私に気をまわし過ぎなんじゃない?と、口には出さずに、出された淹れたての紅茶をゆっくりと啜った。確かに口に含んだ時、軽い渋みと共に良い香りが口中に広がって、口を空にし鼻で息を吐くと、余韻が鼻腔を満たした。普段は普通にコンビニで売ってるのしか飲んでないから、具体的な良さは分からなかったけど、それより美味しいのは分かった。

「…うん、美味しい」

「そう、それは良かった」

と、義一もカップを持ち上げ満足そうに笑った。


 お皿にさっき買ったお菓子を置いて、二人仲良く分けて食べた。何故か会話の内容はヒロについてだった。義一がヤケに聞きたがったからだ。

「へぇ、じゃあ今はクラスも違うのに仲良くやってるんだ」

「いやいや、仲良くないよ。ヒロが変に私に突っかかってくるだけ。いい迷惑なんだから」

「ははは。そうかい?これはヒロ君もまだ苦労しそうだね」

「おじさん、ちゃんと話聞いてた?苦労してるのは私の方なんだから」

「ははは、そうだったね。いやぁ、もっと琴音ちゃんの今までの話が聞きたいな。ある意味琴音ちゃん相手だし、今他に誰もいないから言えるんだけど、実はずっと気に掛かってたことがあったんだよ」

「ふーん、それは何で?」

私は新しいお菓子の封を開けながら聞いた。義一は紅茶を一口啜ってから

「お寺での会話がずっと頭に残ってたんだ。まぁ、僕が自分から話した事なんだけど」

と言ってカップを置き、テーブルの上で両手を組ませて、その中心に顎を乗せる様な体勢で、向かいに座る私に、真っ直ぐな視線を送りながら続けた。

「これは勝手に感じた事なんだけど、あの時の琴音ちゃんが昔の僕と、ふと重なったんだよ。なんて言えばいいのかな…懐かしかった?…うーん、この話続けてもいいかな?」

「…うん、続けて」

私も食べかけのお菓子をお皿の上に置いて、義一の顔をじっと見つめた。

「そう…懐かしくもあったんだけど、寧ろずっと会えなかった親友に、ようやく再会出来たような、この感覚に近いかも知れない。どう言う意味か分かるかい?」

「うん」

私の返事を聞くと、義一は穏やかな表情のまま続けた。

「だからついつい、嬉しくなっちゃって年の差忘れて話し込んでしまったんだ。相手は小学校低学年なのにね。でも琴音ちゃん、こう言われてどう思うか分からないけど、はっきり言えば君は、普通の子供達とはだいぶ違う、良く言えば本来の意味で成熟している、悪く言えば、と言うよりそのせいでとても感じやすい、その感受性豊かさ故に、これから生きていく上でかなりツライ思いをしなくちゃいけないんだこの子は、と思ったんだ」

「…つまりそれは、おじさんも?」

と、か細い声で私が問いかけると、優しく微笑むだけで義一は答えず

「だからあの時確か無責任に、そのままでいい、それはかけがえのない財産なんだから大切に誰に何を言われようと自分を信じて、みたいなことを当時の琴音ちゃんに偉そうに語ったと思う」

「…」

「あの瞬間だって『調子に乗って言ってしまった。僕なんかの言葉とは言え、幼い少女の心に余計な楔が刺さってしまってはいないか』と心配だったんだ」

「…うん」

「でも!」

とここで義一はあっけらかんとした、声の調子を出して天井を見上げながら

「昨日友達と一緒にいる琴音ちゃんの楽しそうな姿を見て、『あぁ、良かった。きっと僕の言ったことなんか忘れて、どこにでもいる普通の女の子として生きてるんだ』と安心したんだ。まぁ、今年の四月、土手でまさか再び会うとは思っても見なかったから、また性懲りもなく舞い上がって声をかけちゃったんだけど…。あれだけが誤算だったね。でも実際見れて話せて良かった…ってあれ?琴音ちゃん?」

 義一が心配そうに声を掛けてきた。私は途中から俯きながら泣いてしまい、大粒の涙を流していた。その状態のまま静かに涙交じりの声を出した。

「…楽しくなんかない」

「え?…琴音…ちゃん?」

「何にも楽しくなんか無かったよ!」

私は両肩を怒らせ、ワナワナ震えながら、思わず叫んだ。今まで溜めてた感情が堰を切って溢れ出し、自分でも抑えれないまま、想いを吐露した。

「あの時だって、おじさんは一方的にと言うけれど、私だっておじさんに会うまで、幼いながらに他人とのズレを感じて生きていたんだ!無理して周りに合わせて、友達と同じように、ズルく子供の殻に都合が悪い時は逃げ込んでやり過ごしていたんだ!もうこのままずっと過ごすもんだと諦めていたのに、おじさんに出会って『このままでいいんだ、ありのままの私でいいんだ』初めて”私”を承認してくれた気がして、どんなに当時嬉しかったかおじさんに分かる!?」

「…」

「でもあれからおじさんと会えなくなるし…次第にまた諦め癖が出てきて…元の…おじさんに会う前の仮面を被った”良い子”の私に戻っていった」

私はここでようやく顔を上げ、涙でクシャクシャになった顔を義一に向けて、渇いた笑いを漏らし、自嘲的な笑みを浮かべて

「こう見えて、私って役者なのよ?それも、自分で言うのもなんだけど、名役者なの。放課後ヒロ以外にも遊ぶような友達もいるし、学校の先生にも結構評判がいいの。昨日終業式で通信簿が配られたんだけど、そこの先生のコメントも良いことばかり書いてあったよ。でもそれは所詮私が作った、仮面に対してのコメント。先生だけじゃない。友達だって、いや、お父さんやお母さんだって私の仮面しか見てないの…」

「琴音ちゃん…」

「まぁ仮面を進んで被ったのはこの私。自業自得なんだけど。いつだって友達や大人達の大して興味も無い、ツマラナイ、クダラナイ話題に付き合って、無理して合わせても、結局その演じてた自分が後になるととても恥ずかしくて、嫌悪を催して、胸を引き裂いて中身を全部洗いたくなる衝動に駆られてたの」

「…」

「でも、それでも心の拠り所にしてたのは…おじさん、おじさんアナタとの、お寺でのあの本の一時間かそこらの会話だったんだよ。…それを」

私は自嘲的な笑みを殺し、今度は睨みつけて

「それをおじさんが自分自身が言った言葉、それを私に言ったのが間違いだったなんて…そんなの聞きたくなかった!そんなことをおじさんの口から聞く為に探してたんじゃない!おじさん答えてよ、本当にあの時私に言ってくれた言葉は偽りだったの?正直に答えて!」

ここまで言い終えると、私は椅子の背もたれに寄りかかり、途中から少し俯いて目を閉じ黙って聞いてた義一を見つめ続けた。しばらくは、居間の壁に掛けてある、これまた古ぼけた時計の、規則正しく時を刻む音だけが鳴り響いていた。ふっと短く息を切り、ようやく義一が重い口を開いた。

「…嘘なわけがないさ。偽りのわけがないよ」

義一はまだ睨みつけてる私に怯むことなく、穏やかな表情でこちらをまっすぐ見た。

「それにさっきも言ったよね?僕と琴音ちゃん、君とは似てるって。親友に会ったようだって」

と言うと、今度は優しく微笑みながら

「親友に対して、嘘で固めた偽りの言葉は吐かないよ」

「おじさん…」

「でも、僕自身、僕と君が似てると思うからこそ」

微笑みを消して、真剣な表情で静かに

「僕と同じ道を歩いて欲しくなかったんだ。僕自身は今の僕に満足している。でも詳しくは今言わないけど、だからと言って他人に僕と同じ道を歩むことを決して薦めようとは、絶対に思わない。ましてや親友とも思えた可愛い姪にね」

「…」

「でも…」

 義一は緊張を解いて、さっきまでの穏やかな表情に戻して、やれやれといった動作をしながら

「さっき、琴音ちゃんの決意表明とも捉えられるような宣誓には、正直言って参ったよ。元々低く見てる気は微塵もなかったけど、それでもなお君の事見損なってたみたいだ。僕は僕自身の弱さ、自分の運命に耐える力がなくて、ツライとすぐ弱気になる弱さを棚に上げて、似ていると決め込んでた君まで、巻添えにしてしまっていたんだね」

と言うと立ち上がり、向かいに座っている私の頭を優しく撫でながら

「琴音ちゃん、君は強い子だ。本当の初対面は君が幼稚園に入るかどうかぐらいだったけど、本当に初めて会話した時感じた直感。この子は大きくなったら僕なんかよりも遥かに強くなる。まだまだ君は発展途上で伸び盛り、まだまだ成長するんだろうけど、現時点を見るに、僕の見る目も捨てたもんじゃないって自惚れても良いかな?」

と最後にはにかんだ笑顔を見せたので、私も思わず釣られて笑顔になり、コクっと頷いた。ようやく落ち着いてきた私は、まだ声が掠れていたが構わずに言った。

「あの…おじさん?」

「ん?なんだい?」

「私のこと親友だと言うのなら…またここに遊びにきても良いかな?」

「…」

義一は返事を返さず黙った。腕を組んで考え込んでる様子を見せたが、ハッと目を見開き立ち上がって先程カップを取り出した食器棚へ向かった。

「?」

「えーっと…確かここに…あっ、あった」

食器棚の中段あたりに備え付けてある、小さな引き出しを開けて、ゴソゴソ何かを探していたかと思うと、何かを取り出し、持ってまた戻ってきた。

「おじさん、一体」

「はい、琴音ちゃん」

と義一がテーブルの上においたのは鍵だった。所々錆び付いていたが、鍵としての機能は残ってそうだった。

「これって…」

「見ての通り鍵だよ。…この家のね。これを琴音ちゃんにあげる」

「え!?いいの?」

と、私は思わずガタッと勢いよく立ち上がった。その反動でイスが前後に揺れている。

「うん。もちろん。まぁ普通は、親友だからって合鍵をホイホイ渡したりしないんだろうけど、琴音ちゃんは別だよ。もし何か辛くて逃げ出したくなった時、誰でもいいから思いっきり愚痴を吐きたい時、八つ当たりしたい時」

義一はそこまで言うとスッと私の目の前まで鍵を押し出しながら

「いつでもこの鍵を使って遊びにくるといい。いつでも歓迎だからね」

「うん、ありがとうおじさん!」

と私が嬉々として鍵に手を伸ばそうとしたその時、義一が鍵の上に手をかぶせて取れないように隠した。意味もわからずキョトンとしてると、義一が真剣な調子で言った。

「琴音ちゃん、これを渡すに当たって約束してくれなくちゃいけないことがあるんだ」

「え?何約束って?」

「この鍵の存在を、君のお父さんお母さんにバレてはいけない」

言われて私はハッと気づいた。義一は続けた。

「詳しく直接話したわけじゃないからわからないけど、兄さんが僕と琴音ちゃんが仲良くするのを、すごく嫌がってるのは知ってるんだ。もしこの鍵が何かの拍子で見つかったら、何も聞かなくてもすぐに、特に兄さんはすぐ察するだろうね。もしかしたら聞いたことあるかも知れないけど、この家は僕の父さん、君のお爺ちゃんの持ち物の一つだったんだ。兄さんも何度かこの家の鍵は見たことあるだろうから、すぐに気づいて琴音ちゃんに出所を問いただすと思う。僕自身何言われようとも構わないけど、琴音ちゃんがこの鍵のせいで傷つくのは、とてもじゃないけど耐えられない。だから、琴音ちゃん、君が自分自身のためにも、勿論僕の家に行く事自体も内緒に、出来ればどんなに親しい友達にも隠し通すくらいの覚悟を誓えるかい?」

「…」

私は一瞬口噤んだが、そもそも覚悟なりは、おじさんを探すと決めた時点で決まっていた。

「勿論、誓うよ。鍵を頂戴」

と直接目を見てハッキリ言うと、義一はまた表情を和らげて、手を浮かせて

「じゃあどうぞ。僕と琴音ちゃんの友情の証だ」

「うん、ありがとう」

私は鍵を手に取ると、錆び付いたその鍵を、宝物か何か価値ある物かのように、ひっくり返したり、天井の蛍光灯の明かりに当てて見たりした。その様子をニコニコしながら義一は見ていたがふと、怪訝な表情で私に言った。

「そういえば晴れて友達になった訳だけれども、それで一つ引っ掛かることがあるんだ」

「え?なんだろう?」

「さっき聡兄さんのことを”聡おじさん”って呼んでたよね?」

「え?あぁ、うん。それが何?」

「いやぁ、まぁ大したことじゃないんだけど」

と言うと、義一はホッペを掻きながら言いづらそうに言った。

「いや、聡兄さんは聡おじさんなのに、何で僕に対しては”おじさん”なのかな?って…」

「だって…私にとっては叔父さんで合ってるよね?」

「いや、だから…なんで僕には名前で呼んでくれないのかなって…」

と恥ずかしながら言うので、一瞬意味がわからず、無反応でいたがやっと気づいて

「え、えぇー!あぁ、そう言う意味かー。なぁーんだ。ふふ」

「おいおい、笑わないでくれよ」

「ごめんなさい。あまりにも可愛いことだったから」

「そうやってすぐ面白がって」

「えっと…じゃあ何て呼べばいいのかな?」

「う、うーん…義、義一おじさん?かなぁ…それじゃ聡兄さんと被ってるし、面白くないね」

「面白さねぇ…あ、ギーさんはどう?ギーさん!」

私は悪戯っ子のようにニヤケながら挑戦するように言った。義一は慌てて

「おいおい、それだけは勘弁してくれないかなぁ。そんな呼び名は絵里、アイツだけで十分だよ」

「ごめんごめん。でも他にこれといって…もう単純に義一さんは?義一さんでどう?」

「うーん…まぁ一周回って姪っ子に下の名前を呼ばれるって時点で、変わってるとは言えるかもね」

「よし、決まり!これからそう呼ぶから。改めて宜しくね義一さん」

と、私は右手を差し出しながら、目が泣いたせいで少し腫れてたけど、それでもとびきりの笑顔で言った。義一も笑顔で応えた。

「こちらこそよろしく、琴音ちゃん…あっ!」

「もうっ、今度は何、義一さん?」

「ほら、あれ」

義一が指差した先には時計があり、夕方の四時半を指していた。義一は苦笑いを浮かべながら

「時間は大丈夫かい?ほら…」

と、今度はテーブルの端に置いといた私のトートバッグを指差した。

「え?…あぁ!宿題!」

私は叫んだ後、ゆっくりと振り返り義一を見ると静かに笑ってるだけだった。私が恐る恐る

「やっぱり…やらないとダメ?」

と言うと、義一は明るい調子で答えた。

「勿論。そんなひょんな事で秘密はバレていくんだからね。図書館が閉まるのが確か五時。その時間ギリギリまでやろう!」

「ひえー」


「本当に途中まで送らなくていいの?」

「大丈夫だよ、ここまで難しくなかったし」

 私が玄関で靴を履いていると、その姿を見ながら義一が背後から、心配そうな声を投げかけてくる。つま先をトントンと、足と靴を馴染ませてから、置いてたトートバッグを肩に掛けて、明るく挨拶した。

「じゃあまたね、義一さん」

「うん」

外に出る時義一が点けてくれたのか、優しい光が頭上から降り注いだ。コレも気付かなかったが、剥き出しの裸電球がぶら下がり、薄オレンジ色の光を放っていた。

 高速道路の真下の通りに出て、期待はしてなかったけど、名残惜しそうに振り返って見ると、義一が腕を組み、静かにこっちを見ていた。私は大袈裟に右腕を大きく振ると、義一もゆっくりと振り返した。表情まではわからなかったけど、笑ってくれてたに違いない。

「義一…義一さん…か」

私はボソッと独り言を言い、家でお母さんに泣いた跡がバレないことを祈りながら、足取り軽く家へと帰った。

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