第2話 おじさん
「ほら、琴音。起きなさい。もう着いたわよ」
「うーん…」
目を擦り起きたのは車の後部座席だった。起こしてくれたママは、全身を基本黒い服で纏めていて、今まで見たこと無かった装いだったが、背も高く背筋もピシッとしていて、子供ながらに立ち居振る舞いに無駄がなく精錬されているのがわかった。スラッとしている姿が友達や同級生のママとは違って見えて、自慢だった。
「二人共、何をもたもたしているんだい?早く外に出なさい」
「はい、パパ」
パパは車のトランクを開けてお花やら紙袋などを取り出しながら、こちらに声を掛けた。
パパもママと似たように黒で統一されたスーツを着て、下のワイシャツは真っ白だったけどネクタイも真っ黒だった。パパも背が高くて、友達のパパとかはお腹が出てたりするのに、ママと同じようにやはりスラッとしていて、また幼いながらにパパが医者をしているというのは凄いことなんだと、事あるごとに近所の大人たちに言われるので、私の中でパパというのは立派で偉い人なんだというのが脳裏にこびりついていた。
かくいう私も、今日は真っ黒というそんなに好きな色では無かったけれど、襟元が真っ白でよく見るとお花が象られている可愛いワンピースを着ているせいか、普段よりも訳も分からずウキウキしていた。
デパートに行ってこの服を着た時に、絵本で見た可愛らしい魔女に似ていて、これを買って貰った時は、当時まだ小学校二年になろうかという頃の私には、何よりものプレゼントだった。
ようやく着れる機会が訪れ、何度も説明されたはずだったけど、てっきり大きなお城があるような遊園地に連れてって貰えると期待していたが、今こうして車から降り周りを見渡して見てガッカリした。たまに車で前を通り過ぎていたお寺だったからだ。
でも確かにガッカリしたけど子供ながらに、あのパパママにはしっかりしているワガママじゃない子でありたかったから、多分ブー垂れた表情はしていただろうけれど、何も言わずお寺の正面玄関に向かう二人の後についていった。
「今日はお世話になります」
パパは言いながら紙袋から額に入れた写真と位牌を受付のおばさんに渡した。
「どうもお疲れ様です。他の皆様は先に来られてますよ。いつもの控え室にいらしてます」
「そうですか。有り難うございます。ではよろしくお願いします」
私達は下駄箱で靴を脱ぎスリッパを履いて、私は辿々しく、少し音を立てながらワックスで磨き上げられた廊下を通り控え室へと向かった。
中に入って見るとパパと同い年くらいの男女が、これもまた同じように黒い服装に身を包み、用意されたお茶やお菓子を食べながら談笑していた。皆私の知らない人達だった。
と一人のおじさんがこっちに気づくと、手をふり笑顔で話しかけてきた。
「やぁやぁ!喪主が一番遅れちゃいけんじゃないか?」
と、やや非難めいた言葉を吐いたが満面の笑みだ。
「そう言わないでくれよ聡兄さん」
「兄さん?」
と私が気になったのでとっさにパパに聞き返した。
「パパのお兄ちゃんなの?」
とパパに聞いたつもりだったが、聡は私に気づくとまた人懐っこい笑顔を浮かべて、私と視線が合うようにしゃがみこみ、そして答えた。
「そうだよ嬢ちゃん。君のパパ、栄一の兄ちゃんだ」
「いやいや違うだろ」
と間髪入れずパパは聡にツッコミを入れた。おウチでは見たことなかったパパの姿に、私は思わず吹き出し笑ってしまった。
「お、嬢ちゃん。笑いがわかってるねぇ。いいぞ」
「ほら、娘が本気にするから。このおじさんはな」
とまだ笑顔を顔に湛えたまま、パパは聡の肩に手を掛けながら私に話した。
「私のパパの妹の子供だよ。つまりは従兄弟さ。琴音、従兄弟はわかるね?」
「うん、なんとなく」
と私がパパの方を見て答えると、また聡が笑顔で親しげに話しかけてきた。
「嬢ちゃん。名前は琴音だったね。今何歳になるの?」
「7歳」
「来月から小学校の二年生だよ」
「は?…あ、そうかい。てことは琴音にとっての爺ちゃんが亡くなった時は…」
「生まれてはいたけど何ヶ月かってとこじゃないかな?」
「そうか。琴音ちゃん、俺の事覚えてるかい?」
「えっと…」
とっさに振られて私は上目遣いでパパを見ると、すぐに察したらしく頭を撫でながら
「何だ、琴音らしくないぞ。覚えてなかったら素直に言えばいいんだ。あなたみたいな中年のおじさんは知らないですって」
「おいおい、ひどいな」
「えっと…覚えて…ないです」
私はパパのスーツの裾を掴み、ドギマギしながら答えた。すると聡はしばらく表情を暗くし、大げさに肩を落とす仕草をしていたが、すぐ笑顔に戻り
「そりゃそうだろうな。なんせ前回は今から三年か四年前だもんな。でも」
聡は話を一旦打切り、控え室をぐるっと見渡すとまた私に視線を戻し
「同じ日付同じ部屋で会ってたんだぜ?」
「へぇ…」
「まぁ俺らが早く来すぎちまっただけだから、まだしばらくあるし、ゆっくりしてなよ。ところで栄一、今日の七回忌なんだが…」
聡は私の頭をひと撫でしたかと思うと、パパを連れ立って部屋の外に出ていってしまった。
聡との余りに強烈な会話をしたせいで、今自分がどこにいるのか忘れてしまうぐらいに惚けてしまったが、落ち着きを取り戻し周りを見渡すと、同い年の子がいないことに気づいた。つまんないな…そう言えばママは?と、ママの方を見て見ると、こちらもまたママと同じくらいのおばさんと和かに、すっかり私のことを忘れて話し込んでいた。
すっかり手持ち無沙汰になり、ひとり椅子に座って好きでもない苦くて渋いお茶を、ふうふう息を吹きかけながら飲んでいると、少し慌ただしげに乱暴にドアを開ける音がした。
音のした方を見ると、また見た事のない男の人がドアの前に立っていた。一瞬辺りは静かになり、皆の視線は男に集中したが、中々話しかける人はいなかった。男は男ではにかみながら頭を掻いていたが、この状況をどうにかしようとはしてないらしく、突っ立っているだけだった。この男も同じように黒い服を着ていたが、どこか他の大人の人とは違って見えた。それはおそらく女の人かと思うくらい肩にかかるかかからないかくらいの長髪だからかも知れない。
私は男が入って来た時からずっと観察していたら、ふと男と目があった。私はギクッとして視線を逸らそうとしたが、目にかかるほどの前髪をかき上げて笑顔を向けられた時、身に覚えがあるのに気付いた。えっと…誰だっけ?
「おいおい、出入り口に立ってたら邪魔だろ?どいてくれ…っておぉ!」
と何か用事を済ましたらしい聡が戻って来たと思いきや、男を見るなりさっき私に見せた同じ笑顔を男に向けて話しかけた。
「ちゃんと来たか!今回は来ないかと思ったぞ」
「まぁ一応…父さんの七周忌だしね」
と聡の勢いに押されているのか、男は苦笑いを浮かべながら答えた。
「聡兄さんそんなところで何を…あっ」
と遅れて入って来たパパは男の姿を見るなり、何とも言えない、苦々しいとまでは言えないけれど、歓迎はしてない表情をした。男は少しドキドキしてるのか、どうパパに接すればいいのか、距離感がつかめない調子で話しかけた。
「や、やぁ兄さん。久しぶりだな」
「…久しぶりだな、義一」
と感情のない口調で一言挨拶すると、ママたちがまだおしゃべりしている集まりの方へ行ってしまった。一部始終を見ていた聡も流石に苦笑いを浮かべながら
「相変わらずだな、お前ら兄弟は」
「まぁ、いつもの事だからね」
と男も力無い笑みで返した。同じように一部始終を見ていた私も、今来たこの男がパパと話していたこともあり、短い会話の中でどうしても聞き捨てならないところがあったりで、人見知りな性格よりも好奇心の方が勝り、思い切って話しかけてみることにした。椅子から降りて恐る恐る近づくと、数メートル先で二人が私に気づいた。先に口火を切ったのはやはり聡だった。
「お、琴音。何か用かい?ていうか」
聡は親指を立てて、その先を男に向けながら
「こいつに用かな?」
「えっと…そ、そう」
私はモジモジしながら、チラチラ男の方に視線を送りつつ答えた。
「だとよ義一。お前この嬢ちゃんのこと覚えてるかい?」
聡に聞かれた男はさっきまで合わせなかった視線を私にまっすぐ向けた。時折前髪が邪魔なのか、鬱陶しげにかき上げながら。
「あぁ…覚えてるよ。琴音ちゃんだろ?」
「え?私の名前も知ってるの?」
意外だった。さっき遠くから会話を聞いてた限りでは、私の話題なんか無かったし、当然名前を知るすべは無かったからだ。でも後になって思えば変でも何でもない。何せこの人はパパの弟なんだから。でも、それでもそう思ってしまったのは、この人がこの空間の中で馴染めていなくて浮いていたからだと思う。咄嗟に答えた私の返事に悪い気もしなかったのか、続けて
「そうだよ。確か三回忌の時に君を見たんだけど、流石に覚えてないよね」
「あったりまえだろ!俺の事だって覚えてなかったんだから」
「それは凄いね。こんなにうるさいのに。一度見れば忘れたくても忘れられないよ」
「なんか言ったか?」
聡はパパとの会話と同じように、わざと怒ったように見せたが、すぐ笑顔になって男の背中をバシバシ叩いていた。
「じゃあ改めて自己紹介しないとな。ほら」
と聡は儀一の背中をポンと押し出し、私により近づけさせた。男は部屋に入って来たときと同じハニカミ笑顔で、頭をポリポリ掻きながら
「本当に無茶振りするんだからな…えっと、君のパパ、栄一の弟の義一です」
と言い終わると、今度は聡が私の背中を押して、より近づけさせながら意地悪い笑みを浮かべて
「ほら嬢ちゃん。自己紹介されたら今度は自分がしなくちゃ」
「う、うん…えっと」
と言われたので私も仕方無げに、でもさっきまでの緊張感はなく笑顔で言えた。
「琴音です」
「しっかし、お前なぁ…」
聡はおもむろに義一の髪に手をかけて、梳いたり持ち上げたり遊びながら
「この髪の毛はどうにかならんのか?お前自身もそうだろうが、周りのお前を見る、少なくとも俺には見てるだけで鬱陶しいぞ」
「もちろん僕も鬱陶しいんだけど中々出不精で、今日こそ切りに行くぞと思うんだけど途中で挫折しちゃうんだよ」
「何じゃそれ…?ん?琴音どうした?」
「いや、だって…」
いつの間にか私はクスクスと爆笑とまではいかないまでも、笑いを堪えきれず吹き出してしまった。
「だって、髪切りに行くだけで凄い大変なことしに行くかのように言うんだもん」
「確かになぁ…昔からコイツは何かずれてんだよ」
とまた義一の髪を弄びながら聡は呆れた調子で答えた。
「そうだ義一、ちょっと待ってろ。確かカミさんがヘアゴム持ってたはずだから。おーい」
聡はおもむろにママたちの方へと歩いていき、何か会話をして、集団の中の一人から手渡されたかと思うと、また此方へ戻って来た。
「ほら、後ろを向け。縛ってやる」
「うん…あ、いった」
「我慢しろ。俺だって野郎の髪なんか触りたくないんだから。乱暴されたくなけりゃ、今度からせめて縛ってから来い」
さっき散々パラその男の髪をいじり倒していた人のセリフとは思えなかったが、それでも結局丁寧に肩まであった髪の毛を後ろで綺麗に纏め上げた。
「どうだ、琴音。顔が見える方がいいだろう?」
「…うん。その方がいいよ」
「そうかい?…これぐらいは頑張るか」
「頑張るってほどじゃないだろう」
聡と義一が笑いあってる傍で、改めて義一の露わになった全貌をマジマジと見た。そうか、どっかで見たことあると思ったら、パパにそっくりなんだ。流石兄弟なんだな…。パパと同じで義一も目や鼻といったパーツが結構はっきりしていて、二人とも痩せ型だから余計に中性的な、下手すると女性に間違われそうな程だ。
さっきまではにかんだ遠慮がちな笑みしか見せなかったが、今の義一は心なしか、心の底から笑ってるように私には感じた。
「望月さん…」
と、ちょうどその時、部屋のドアがノックされて先程受付をしていたおばさんが静々と中に入って来た。
「ご歓談のところ申し訳ありません。支度が整いましたので、ご本堂までお願いいたします」
本堂に着くと、さっきパパが受付に渡していた位牌と写真がすでに飾られていて、私たち家族と今回来た親戚の分の椅子が、余裕を持って用意されていた。各々椅子に座り、住職が来るのを待つ間、義一の姿を探すと、少し離れた所に独りヒッソリと座っていた。
住職のお経や挨拶も済み、すぐ裏のお墓までお塔婆や花などを持って行くときも、墓の前で線香あげる時も、いつも一歩離れている感じだった。
一通り済ませて皆して控え室に戻ると、さっきと違うテーブルが用意されてその上には、たまにポストに来るチラシに書いてあるみたいな寿司が幾つか並べられていた。
「えぇー、今日は忙しい中…」
とパパが献杯の挨拶をしてる時、また義一の方を見ると、義一は義一で写真立て、私が見ることが叶わなかった、私にとってはお爺ちゃんの写真を静かにジッと見ていた。
「では、献杯」
一度食事が始まるとすぐに和気藹々とした雰囲気になった。さっきはママと話していて、喋れなかったおばさん達が、私が食べている周りを囲んであれやこれやと根掘り葉掘り質問攻めしてきた。正直、両親以外の大人とこんな一遍に会話したことがなかったせいか、すっかりくたびれてしまって、何か理由をつけて逃げ出した。
どこか落ち着けないかとフラフラしてたら、義一が独り寿司も食べず、ただ片手にビールを注いだコップを手に、相変わらずお爺ちゃんの写真を眺めていた。ふと私の視線に気付いたのか、私の姿を認めると優しく微笑みかけて呼びかけた。
「…やぁ琴音ちゃん。独りかい?」
「うん。まあね」
私は義一が座っている椅子から一つ離れた椅子に座りながら答えた。
「おじさんは何をしていたの?」
「僕かい?僕は…」
義一は私の方を見ていたが、視線を写真の方に向けながら
「父さん…お爺ちゃんを見ていたのさ」
「ふーん…」
私も一緒にお爺ちゃんの写真を眺めながら言った。足をパタパタさせながら
「ねぇ。お爺ちゃんってどんな人だったの?」
「ん?そうだな…」
とここで義一は顎を上げて視線を宙空に投げながら答えた。
「僕と琴音ちゃんのパパにとってのパパ、要はお爺ちゃんだね。名前は、望月誠三郎。琴音ちゃんのパパが勤めてる…仕事してるのは病院だって知ってるかい?」
「知ってるよ。お医者さんなんだもん」
「そう。君のパパは今そこで副院長をしてるんだけど、その病院は元々琴音ちゃんのお爺ちゃんが始めたんだよ」
「へぇー、そうなんだ。じゃあお爺ちゃんも偉かったんだ」
と私が言うと、こちらを少し見て何とも複雑そうな表情を浮かべながらまた続けた。
「『も』か…。まぁ偉かったのかどうかは分からなかったし、今も分からないけど粋人だったよ」
「す…スイジン?あの水の神様の…?」
「え?…あぁ!いや違うよ」
と最初は訝っていたが、ハッと気付いたようで、またすぐ聡と会話してたような笑みを見せた。
「粋人ていうのは、そうだね…なんて言えばいいのか。お洒落?な人かな…わかる?」
「うーん…わかんない」
「だよね…まぁとりあえず、普通の人よりも好きなものが多かったって事かな」
「あぁ、それならわかる!」
「よかった。でも琴音ちゃん、水の神様の水神なんて、よく知ってたね?」
「うん、お家に水の神様の絵が飾ってあったから。前にパパに教えてもらったの」
「あぁ、そっか…あの絵は琴音ちゃん家にあったんだ」
と義一はまた宙空、いやもっと遠くを見るかのように目を細めて呟いた。
その様子を見た私は急に張り切って
「そんなにもし見たいなら、琴音の家に来たらいいよ。おじさんならパパに言って来れるでしょ?」
と何も考えなしで言うと、またさっき私が粋人を間違えたときと同じようにキョトンとしたが、今度は寂しそうな顔をして
「そうだねぇ…アレは元々お爺ちゃんの絵だったんだ。僕も子供の頃よく見ていたから、たまに見たくなるんだけど…まぁ、兄さんの所にあるなら安心だな」
「ねぇおじさん」
と私は今日の一連の流れを見てて、どうしても聞きたいことを義一に投げかけることにした。
いくら幼いとはいえ、自分でいうのも何だけど両親の顔色をそれなりに伺って過ごしていて、それなりに人の線引きが出来てるつもりでいた。このおじさんは、まだ小学低学年の、本当に幼い私にも気負いなく同じ目線で語りかけてくれたこと、要はとても正直な人だと、私の中では当時印象だけだったけどそう認識した。だから敢えて聞きづらいことを聞くことにした。
「さっき琴音が近づいた時、独りかって聞いたよね?」
「え?…うん、聞いたね」
「でも今日おじさんはずっと独りでいるよね?聡おじさんは除いて」
「…」
「おじさんはみんなと仲良くないの?喧嘩してるの?パパとも?」
最後の方は畳み掛けるように矢継ぎ早に質問してしまった。実はこの頃からすでに私はいわゆる”何でちゃん”だった。
幼稚園の頃、先生の言動に何か疑問が見つかると、今みたいに困らせる気は無くても気になったら、すぐ口から疑問が飛び出してしまう。あまり怒られた記憶はないけれど、幼稚園から帰って何度かママに「あまり先生を困らせるんじゃありません。わかりましたね?」と有無も言わせない感じで、静かに怒られたことがあった。それからは何か疑問に思っても、これはしていい質問なのか?これを聞いたらまた怒られるのか?とこの時よりもっと幼い時から自分で自分を縛り続けて来た。
それがこんな拍子で発作のように”何でちゃん”が起きてしまうとは、自分でもビックリしていたし、また大人から文句言われて、呆れられちゃうんじゃないかと内心ビクビクだったけれど、とりあえず義一の返事を待つことにした。
義一はまたぽかんとしていたけれど、しばらくするとふふっと笑い、そして吹き出しそうになるのを堪えながら私に視線をまっすぐ向けて答えた。
「いやぁ、なるほどね!こりゃ一本取られた。確かに独りでいる僕には言われたくなかったよね?いやぁ、失礼失礼」
義一は涙を浮かべるほどに笑顔を浮かべたので、今度は私の方がポカンとする側だった。
そんな様子を気に留めることもなく、義一は続けた。
「仲は悪くないよ。まぁ良くもないけれどね。お互い無関心でいいんじゃないかなぁ。あ、無関心は難しいか…琴音ちゃんのパパも僕も今が一番良いってことさ」
「あ、そ、そうなんだね?」
と聞いたのは私の方なのに、未だ呆気にとられたまま気の抜けた返事しかできなかった。義一はそんな私の様子を見て、少しばかり考えると何か察したようで、今度は優しい笑みで語りかけた。
「何で普通の人なら、もしかしたら怒るかもしれないことを聞いたのに、僕がむしろ笑い出したのに驚いたんだね?」
「う、うん…だって」
と私はもっと幼い頃からの話を、かい摘みながら義一に説明した。最後まで黙って目を瞑りながら義一は聞いていたが、私が話し終わると何かを反芻するように黙りこくり、ゆっくり目を開けたかと思えば、さっきと変わらぬ優しい笑みで話し始めた。少し楽しそうに。
「なるほどねぇ…確かに普通の大人はね、琴音ちゃんみたいな子供が、次から次へと質問をぶつけて来たら参っちゃうんだよ」
「で、でもどうし…!」
と言いかけて私は、大袈裟に口を両手で塞ぎ、その先を言わないように口噤んだ。その様子を見た義一は優しく私の手を取って、口元から外しながら
「ん?途中でやめることはないよ?何を言いかけたんだい?遠慮しなくていいよ?」
「じゃ、じゃあ何で大人に色々質問しちゃいけないの?何でそれで大人は困っちゃうの?」
私は思わず椅子一つ分離れて座っていたのに、身を乗り出したため、義一の隣の椅子に座ったことも気付かず、言葉を投げつけるように言った。興奮している私とは真逆に、冷静ながら微笑み浮かべて、私の頭を撫でながら
「そう。それでいいんだ。むしろそれが大事なことなんだから。そうだな…」
義一は顎に手を当てて考えるポーズをしたと思うと私に視線を戻して答えた。
「それはね…本当は琴音ちゃんが聞いてるその大人も、実のところ良くわかってないからなんだよ」
「…え?どういうこと?」
「つまりまず君自身のことを考えてみればいいのさ。琴音ちゃんが聞くとき、ちゃんと答えをくれると思って聞くよね?」
「うん、それはそうだね」
「それは聞かれてる大人の方もわかっているのさ。だからちゃんと答えてあげないといけないと思う。でももしその大人の人が、正直であればあるほど困ることがある」
「え?何で?」
「それはね、質問に真面目に答えようと、大人は大人で改めて考えて見るんだけど、結局わからなかったらどう?質問に答えられないよね?どうすればいいかな?」
「うーん…琴音だったら素直にわからないっていうかな?」
と私が答えると、ますます義一の表情は優しい笑みになった。
「そうさ。それが本当は正解なんだよ。素直に『今改めて聞かれて私にもわからないんだ。じゃあ君と私とで、何でか一緒に考えよう』って言われたら、質問した琴音ちゃんはどう答える?」
「賛成ー!」
私はその場で両手を上げながら言った。
「そう。さっきも言ったけれどこれが僕も正解だと思うんだ。でも普通の大人は出来ない」
「それはまた何で?」
この頃にはすっかり義一に対して遠慮というものは無くなっていた。でもここで義一はこれまでの勢いを止めるかのように一つ息を吐いて、今度は苦笑いしながら言った。
「これ以上は流石に琴音ちゃんにはある意味難しいな。これは大人のことになってくるから、もう少し琴音ちゃんが大きくなって大人になっても今の疑問を覚えていれば、分かるかもしれないね」
「えぇー。せっかくここまで来たのに?」
と私はほっぺを膨らませて拗ねて見せた。でももちろん本気ではなかった。義一は苦笑から微笑みに表情を変えて、また優しく私の頭を撫でながら言った。
「でもこれだけは忘れないでいてね。どんなに小さな疑問、変だと感じたことはそのままにしちゃいけないよ?むしろ琴音ちゃんが今の歳でこんなにいろんな事に興味を持って、それだけじゃなく疑問に思えるというのが大事なんだ。さっきの水神の話だって、本当に驚いたんだからね。自分の家の何気無く掛かっている絵のことに興味を持って、しかも教えられたことを覚えているんだから。ただもしかしたら、今僕にしたように質問ばかりしたら、多分大人だけじゃなく同い年からも変に思われるかもしれない。これは琴音ちゃん次第だけれど、周りに変だと思われても気にしないで走られるかも大事だよ。…いやぁ」
と私がすぐそばで視線を逸らさずまっすぐ真剣に聞いてるのに恥ずかしくなったのか、はにかみ頭を掻きながら
「流石に小学生に話すような事じゃなかったかな?どうも自分が子供なせいか、相手の歳とか全部無視して喋る癖があるんだ僕は」
「でも何となくだけどおじさんの喋ることは、わかったような気がするよ」
「そうかい?それは良かった。琴音ちゃんは今のままが一番いい…っと」
「え?」
義一が視線を私の背後に流したので、私もその視線の先を見ると、パパが無表情で冷たい視線を投げ掛けながら私たちの方へゆっくり近づいて来た。そばまで来るとパパは静かに、でも重たい調子で
「琴音。いつまでお喋りをしている。そろそろ帰るよ」
「う、うん。でも…」
と私はパパに手を引かれつつ、義一の方へ視線を向けた。何かを察したのか、パパは私に投げかけたよりも、より重たい調子で言った。
「…義一。ウチの娘に何か余計な事を言ったか?」
「…いや、別に。父さんのことだよ。それだけさ」
「…ならいい。娘を見ててくれてありがとう。さぁ帰ろう」
「じゃあまたねおじさん!いつかウチにも遊びに来てね!」
私はパパに手を引かれながらも何とか後ろを振り向きながら挨拶をした。義一も優しく右手を振り返してくれたのは見えたが、正面に顔を向き変える間際、義一の表情笑顔に寂しさが差し、若干曇ったのを幼い私の心は、敏感にも受け取り察したのだった。
「どうだった琴音?久しぶりにおめかし出来て良かったでしょう?」
「う、うん…」
お家に帰る車中、ママは久しぶりに会った親戚との会話の内容などを助手席から、運転しているパパに向かって話しかけていた。一通り話し終えてから私に今度は話を振ったのだった。
「何?なんか元気がないわね?…あ、そうか」
と今度はママは後部座席に座っている私に上体ごと私に向き直り、顔いっぱいに申し訳なさを浮かべて言った。
「ごめんね。やっぱり琴音には法事は退屈だし、つまんなかったわよね?今度また別のおめかしして、琴音の行きたがってた遊園地に行きましょう?丁度春休みだしね」
「うん…とても嬉しいな」
「もう、一体どうしたのよ?そんなに元気なくして…貴方、何か知ってる?」
「え?…あぁ」
とパパはバックミラー越しに後部座席真ん中に座る私の方を、チラッと見ながら
「俺が迎えに行くまで義一とお喋りしてたみたいなんだ」
義一の名前を出すとママは急に辿々しくなった。
「へ、へぇ…義一さんと?琴音、そうなの?」
「…うん、そうだよ」
「ふーん、そっか…」
と言うと、さっきまで止めどなくしていたお喋りがパタンと止み、車内は暫く静寂に包まれた。
繰り返して言うようだけれど、私は私で線をはっきりと引いて、触れていいもの駄目なものくらいの分別はついてるつもりだった。でもこの時ばかりはリスクを承知で言わずには居れなかった。
「…ねぇ、パパ、ママ?」
「な、何かしら琴音?」
「もし琴音が来て欲しいって言ったら…さぁ」
「…」
「義一おじさん、ウチに遊びに来てくれるかな?…なんて」
「…うーん、どうかな?…ねぇ貴方?」
「…」
また暫く沈黙が続いた。気づくと外は真っ暗になって夜の帳が降りていた。時折通り過ぎる対向車のライト、街灯、前に止まる赤のランプが車内を照らしていた。パパは何かを決断するかのようにフゥッと息を一つ長く吹くと、静かに言った。
「…いや、やっぱりダメだ」
「え!?どうして!?」
私は思わずシートベルトを締めてるのも忘れて前方に乗り出そうとする勢いで、運転席に向かって前のめりになった。
「こら、琴音。危ないからちゃんと座ってなさい」
「ねぇ、どうして駄目なの?パパ!」
「…琴音」
パパは義一に対してしたのと同じ様に低い調子で、静かに諭す様に言った。
「パパがいつも琴音の事を第一に考えているのはわかるね?琴音が義一おじさんと仲良くなるのは、将来琴音の為にならないから反対するんだ。何も意地悪したくて言うんじゃない…わかるね?」
「で、でも…」
それでも幼い私は何とか食い下がろうとしたが、パパはまた一段かい調子を低くして、今度は最後通告を突きつけるかの様に言った。
「…琴音。お前はそんなに聞き分けのない子供だったかい?」
「…ううん。…わかったよパパ」
「は、はい!この話はもうおしまい。せっかく家族で外出したんだから、何か美味しいもの食べて行きましょう」
「そ、そうだね」
そこから先はよく覚えていない。何か美味しいものを食べたんだろうけど、何も記憶には残っていない。二つだけ鮮明に覚えているのは、家に着いて疲れたからと早々に自分の部屋のベッドに入った時のことだ。ベッドの中には入ったものの、車の中でのやり取りを思い出し、なぜあんなに今日会ったばかりのおじさんに、ここまで入れ込む程肩を持つ様な真似を、今まで大きな反発をしないでいたのに、何故あのおじさんのことで事を荒げる様な真似をしなくちゃいけなかったか、幼心にもあまりに不思議で混乱しっぱなしだった。その影響かどうか分からないけど、ベッドに入ってから涙だけは止まらなかった。
これも一つの思い出だけど、もう一つある意味決定的な、私自身の価値観を揺るがすキッカケ、キッカケにしてはあまりに強烈だったことが、深夜にたまたま目を覚ました時に起こった。
眠れないといいつつも少しウトウトしていたのか、自分の中では起き続けていたつもりだったけど、時計を見ると11時を回っていた。トイレに行こうとベッドから出て向かう途中、リビングの前を通った時、ドアの一部が擦りガラスになっていて、そこから光が漏れているのに気付いた。まだパパとママ起きているのか…。考えてみればこんな時間に起きていたことが無かったから知らなくて当然かと、そのまま素通りしようとすると、中からひそひそ声が聞こえた。
便意よりも興味の方が勝ってしまい、忍び足でドアに近づき耳を直に当てて聞いてみることにした。まず聞こえたのはママの声からだった。
「ねぇ、さっきの車の中でのことだけど…」
「うん…?」
パパもママに合わせてか同じ音量で返事した。
「あの子はまだ小学生、しかもまだ低学年なんだから、もう少し優しく説いてあげてもよかったんじゃない?」
「…」
パパは黙ったままでいる。
「それに前から言われていて、説明もしてもらって、私なりに納得していたつもりだったけれど、貴方は昔から義一さんが絡むといつもと打って変わってしまうんだから…ねぇ」
「うるせぇ…」
「え?」
「うるせぇって言ったんだこのアマ!」
「きゃあ!」
急に怒声が鳴り響いたので、ドア越しに聞いてた私も危うく悲鳴を上げそうになったが、何とかすんでのところで堪えた。
「あ、貴方!あの子が起きちゃう!」
「いいか!分かってないようだからもう一度言う…。アイツはこの家系の面汚しだ。死んだ親父に何故可愛がられたかしらんが、遺産も少し貰い、今アイツが住んでいるのは親父がコレクター保管用に借りた保管庫がわりのボロ小屋だ。アレコレ理屈をこねくり回し、理由をつけては定職につかずにあの歳になっている。アイツも俺の七個下だから今年二十九歳だ。あんなロクデナシと琴音を親しくさせたくない。お前からあの子が幼稚園の頃先生に言われたと、その話を聞いた時に真っ先に頭を過ぎったのはアイツだった。遺伝子なんてものは、俺は医者だが性格的なものまで遺伝するなんて信じていない。いや、馬鹿馬鹿しくて考えたこともない。あれから数年頭の片隅から離れることはなかった。それが何の因果か今日だ!」
とここでまたパパは声を荒げた。ママの声はしない。黙って聞いているようだった。
「アイツの数少ない長所は、分を弁えてるところだった。今日だって初めの方はアイツは自分から進んで一つ離れて過ごしていた。人畜無害のモノとして。それで油断した俺が馬鹿だった。気付けばアイツと琴音が二人で何やら楽しそうに喋ってるじゃないか。遠くからしか見えなかったが琴音のあんなに真剣で、また何かに身を乗り出すような姿を見たのは初めてだった。
それを見た時、新しい一面が見れて嬉しかった反面、身体中に悪寒が走った。すぐに事の重大さが分かった。…それで今日はもう少し寺にいるつもりが、早めに切り上げたんだ…」
ドア越しにまで聞こえるほど、パパは大きな溜め息を吐いた。すすり泣きが聞こえる。ママのようだ。パパはいつもママと私に話しかけるような、いつもの優しい囁きかけるようなトーンで落ち着きを払いながら言った。
「…さっきは怒鳴り声をあげて悪かった。あの子に聞こえてないといいんだが…。さぁ私達も今日は疲れた…今日はもう寝よう」
リビングにあるソファーから立ち上がる気配を感じ、私は足音をなるべく殺しながら自室へと足早に戻った。ベッドに上がり、頭から布団を被り、また思いがけず涙を流した。相変わらず理由は分からなかったが、最初のと理由が違うことだけは分かった。
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