朽ち果つ廃墟の片隅で 一巻
遮那
第1話 病室
全身を鈍く隈なく覆う痛みに目が覚めた。ただただ気怠く瞼が異様に重く感じ、開けることすら億劫に感じる程に気力を起こせない。試しに体を動かしてみようとすると、外からどうかはわからないが、耳の内側で節々がキシキシと音を鳴らして、一緒に鈍いままであった痛みが、一気に勢いを増して私自身に無理をするなと、原始的な信号を送ってくる。
しかしその頑張りも虚しく報われず、何か硬くて頑丈なもので固定されているのか、いくら力が入らないとはいえ、全く身動きが出来ない。そもそも私は一体最後何をしていたんだっけ?
動けないのならどうせ暇だしと、一つ考えをまとめてみようとしても、何か頭に強烈なショックを受けたか何かわからないが、うっすらと、しかし全く先を見通せる程ではないくらいの靄が一面に張り付いているようで、ただでさえ気力が湧いてこないのに、雲を掴むような虚しさしか残らなかった。
さて、もうまどろっこしいのは止めて、覚悟を決めて目を開けるか。
自分のものに違いないのに他人のを動かすかのように、非常に拙く恐る恐る瞼を開けると、まず目に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。近くに強い光源がないためか薄暗く、どこか陰鬱な印象を受けた。
気が付いた時から不思議に思っていた、口の周りの違和感。どうやら吸入器のようなものが設置されていて、生暖かい蒸気を口元に頻りに送り続けている。首も固定されてるので周囲を見渡せなかったが、眼球だけは自由がきいたので、ふと左に動かしてみると何本かのチューブが伸びていて、すぐ脇の点滴台の上部に繋がれているようだった。こちら側からは見えなかったが部屋が薄暗かったお陰で、頭のすぐ脇に置いてある装置には液晶画面があって、断続的に緑色のライトを点滅し続けてるのがわかった。
流石に頭の働かない私にも、今自分がおかれている状況がうっすらと把握できるようになってきた。
「そうか…ここは病院か…。で、今のこの状況…。」
と誰に言うでもなく、話せるのか確かめてみるのも含めて声に出してみた。ひどく掠れていて、聞き親しんだ自分の声とはとても思えなかったけれど、どうやら短い会話をするくらいは出来そうだ。
今更ながら病院にいること、そして身体中を固定されていること、さっき無理に動かそうとしたツケに払わされた激痛も、今はやんわり落ち着き鈍痛に戻ったこと、どうやら自分はしこたま全身を打つような事態に遭ったようだった。
と、こうして幼い子供のように順を追って考えを巡らせていると、ふと暗い部屋の中で精一杯私に向かって手を伸ばし、走り寄ってくる男の子の情景が真っ白な天井をスクリーン代わりにして浮かびだされた。彼は私のよく知る男の子だった。
その情景がまざまざとはっきり輪郭を持ち始めたその頃、誰かが部屋の外でスタスタと、乾いたスリッパの音を鳴らして歩いてくるのに気づいた。段々と音が大きくなるところを見ると、どうやらこの病室に近づいているようだった。やはり想像通りすぐそこのドアの前で足音は止まり、カラカラと滑らかにスライド式のドアを引いて人が入ってきた。
薄く目を開けて何者か見極めようと、まだ視界がボヤけているにも関わらず、静かにジッとその人物を見た。ハッキリと判別は出来なかったが、ぱっと見まだ二十代だろう、いかにも新米風な看護師が静かに私が横になっているベッドに近づき、業務に徹していた。
あらかた片付いたのか、フッと一息ついたと思えば私の頭の上あたりに顔を近づけて来た。目を瞑っていたのだが、気配のようなものを感じすぐに察せられた。そのまま取り敢えず理由もなかったが、まだ混乱してるし急ぐわけでもなかったので落ち着くまで狸寝入りを決め込むつもりだったが、それはすぐに無理になった。
新米看護師がおそらくそこにあるのであろう、頭に巻かれた包帯に手を伸ばし、おもむろに解こうとした時傷に触れたのか、条件反射で体がビクッと反応した。
「…え?」
私はまだ目を瞑ったままだったが、その声からあからさまに驚いているのが感じられた。
それから看護師は慌ただしく私の枕元にある、おそらくナースコールだろう、そのボタンを押し、興奮を抑えられない調子で応援を呼んでいた。
流石にこれ以上無視はできないと観念した私は、覚悟を決めて目を開けたが、それと同時に感じるくらいに、瞬く間に病室は十数人ほどの人々で埋め尽くされた。白衣を着た老若男女、彼等は医者だとすぐに察せられたが、その後ろ少し控えめにこちらを覗き込む、少しヨレヨレのクリーム色したビジネスコートを羽織り、半分心配してくれてるような、半分私に対して警戒、強めに言えば敵対心すら覚えさせるような表情でこちらを見ていた。四十もしくは五十を超えてるかもしれない、街中ですれ違えばすぐ忘れそうな中年のおじさんだったが、あまりにこの空間では異質で、却って悪目立ちをしていた。
そのおじさんと目が合っていたので、視線をそらすのも癪だったからジッと見ていると、人混みをかき分けてベッドの側まで近づいてくる男女がいた。先に出て来た女性は頭を後ろでまとめているが、所々髪の毛がはねていて、慌てて来たのがよくわかる様相だった。普段はしっかりしていて、人前でダラシない姿を見せるのを忌み嫌っていた人とは思えないほどの狼狽振りだった。私のよく知る人だ。母だった。
母は私の姿を認めると口元に手を当て、気丈でいようとしていたみたいだが堪えきれず大粒の涙をこぼし、途中までゆっくりと静かに近づいて来たが、急にベッドに駆け寄り私の胸あたりの布団に顔を埋めた。
「琴音…琴音!」
母は何か言うでもなく、ひたすら涙声で私の名前を呼びかけ続けた。こんな母を見るのは生まれて物心付いてからは初めて見る姿だった。遅れて近寄って来た男性は、表情に疲れが見えたが、ロマンスグレーの髪の毛はしっかりとセットされていた。が、いつもと違っていたのは男性も他の医者と同じ様に白衣姿であったことだ。そして、周りの医者が男性に向かって深々とお辞儀をしている。今更ながら初めて仕事姿を見て、本当に医者なんだと実感が湧いて来た。父だ。
父は母と打って変わって何も動じていないかのように微動だにせず立っていたが、顔には憐れみとも、すまなそうともなんとも言えない表情を浮かべて、私の方を口も開かず静かに見ているだけだった。そうか、ここはお父さんの…。
しばらくすると担当医師と思しき老齢の男性医者が両親に向かって、私の体のことだろう、何か色々と話しこみ始めた。皆の意識が両親と医者に向いたので、改めて独り考えに向かうことが出来た。先ほど思い出した情景はもうハッキリと今となっては思い出せた。どうしてそのようになったのかも。
ふと思いも寄らず、呆れともなんとも言えない苦笑が漏れた。そして誰も聞いていないのをいいことに、何もない天井に向かって、ため息交じりにボソッと声を発した。
「結局死ねなかったよ…義一さん」
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