第25話 雨上がり
夕葵
「はっ、はっ、はっ……」
私はジョギングをしていた。
弓を引くには体力はあまり必要ない。
けれども、弓を引く際に安定した下半身を創るために、弓道部ではマラソンをよく行っている。
しかし、今回は弓道は関係ない。
増えていた……増えていたのだ! 体重が!
こんなことになるなら、甘味を控えたのに……けれど、先生と甘味を食べに行ける機会なんてそうそうない。それに、あの時は身体測定の事なんて頭になかった。
知人にこんな姿を見られたくなかったので、普段は通らない道を走ってきた。
大体、30分くらい走っているだろうか。
公園で少し休憩することにした。
昔、涼香とよく遊んだ公園だ。
私の家からは距離があったが、ここで涼香と初めて出会った。
少し懐かしくなって、公園の中を見て回ることにした。
それなりに広い公園には、家族で遊びに来ている子どもたちが、ちらほら見える。
「ふぅ……」
息つくと同時に日差しが隠れる、空を見上げれば若干曇り、ポツポツと雨が降り出してきた。雨は公園の遊具や地面にシミを作っていく。
最初は、小雨程度かと思っていたけれど油断した。
雨は、あっという間に公園を地面を染めていった。ゲリラ豪雨というものだろうか。
私は、慌てて雨宿りをするべく、屋根のあるベンチを探したが他の人に既に入っており見つけた時には、全身がずぶ濡れだった。
「……濡れた」
今日は、すこし温かかったのでウェアとショートパンツだけでここまで来た。
濡れた服が体に張り付き、身体のラインが浮き出てくる。
「……知り合いがいなくてよかった」
「あれ? 夏野さん?」
名前を呼ばれぎくりと身体が強張る。
――いやいや、あの人がここにいるわけがない。
いつもあの人のことを考えているから、とうとう幻聴を聞くまでになったのだろうか。
けれども、私の耳に入ってきた声は間違えようが無い、低く耳ざわりのいい声で私の耳を幸せにしてくれるものだった。
「あ、歩先生……」
「やっぱり、夏野さんか」
なんでよりによって、こんなときに。
血の気が引けてくるのは自分でも分かる。休日に会えたのは嬉しいけれど、こんなダイエット中の場面に……。
「あ、い、いやこれは……」
「弓道部の自主練?」
「あ、あ…はい! そうなんです」
私は先生の言葉を理解するや否やすぐに肯定した。
よかった、自主練と思ってくれた。
雨はまだ降りやまなさそうだ。
――うう、汗かいてるし…こんな格好。
私は自分の身体を見降ろせば、僅かに下着が透けている。
しかも、下着は色気も女気もないスポーツブラだ。
いや、普通の下着でも恥ずかしいけれど、あまり見せられたものではない。幸い歩先生も気が付いていないみたいだし。
「夏野さん」
「ひゃい!」
急に声をかけられてたので、変な返事が出てしまった。
何かと思い、先生の方を振り向く。
「よかったら。これ……大丈夫、まだ使ってないから」
そう言うと歩先生はランニングポーチから、きれいに畳まれたタオルを私の前に差し出す。
「よろしいんですか?」
「ちょっと、その格好は……」
そう言って歩先生は、私から視線を逸らす。
思わず私は自分の身体を抱えてしまう。やっぱり気が付かれていた。
「あ、歩先生~」
「すまん、デリカシーなかったと思うけど、頼むからそれ使ってくれ、目のやり場に困る」
歩先生は後ろを向き、私を見ないようにする。
言葉に従い、私は身体を拭きはじめる。
顔を拭くと洗剤の匂いと、どことなく先生の匂いを感じられる気がした。
すぐにタオルを広げて、自分の首にかけて透けている部分を隠す。
「歩先生、もう大丈夫です」
「おう」
そこからは会話が続かない。
先生は先生で見てしまったという負い目があるのか何も言わない、私も何も言えない。
けれど、2人での雨宿り……寒いと言うほどでもなく、辛いということはない。
――もう少し雨が降り続けてくれないだろうか。
そう思ったら空が光り輝いた。
どうやら雷らしい、その後に続く雷鳴の音に私は思わずびくりと反応する。
「ん……?」
歩先生が、訝しげに何かをみている。
何を見ているのかと思い、先生の視線を追う。
その先には人が入れるほどのドーム状の遊具があった。
私はそこを見た時には、歩先生は濡れるのも構わずに、見ていた方向に真直ぐに駆け出した。
「あ、歩先生!」
私も先生のただよらない様子に後を追いかける。
先生は思っていた以上に足が速く、置いていかれるかと思った。
「陽太!」
「あ、あゆむにいちゃ~ん」
遊具の中には泣いている一人の男の子がいた。
――あれ? この子、何処かで見たことあるような。
男の子に既視感を覚えたけれど、男の子の泥にまみれた様子を見て、そんな思考はすぐに振り払った。
「何をしてるんだ、こんなところで……」
「か、かみなり~」
どうやら雷が怖くて遊具の中に逃げ込んだみたいだ。
雷鳴が轟くと耳を塞いで、小さくうずくまる。
「雨もすぐ止むから」
「ほんとう?」
「ホント、ホント」
歩先生は男の子の頭を励ますように撫でている。
男の子は気持ちよさそうに目を細めて安心しきった顔になる。
「だれー?」
男の子が私を指さし尋ねる。
「俺の生徒。ほら、雨も止んだぞ」
先生の言った通りに雨は上がった。
「あの先生、このタオルをその子に……」
「ああ、ゴメン」
私からタオルを受け取ると、男の子の濡れた頭をごしごしと拭いてやる。乱暴な拭き方だが拭かれている男の子は嬉しそうだ。
「帰るぞ、陽太」
「お姉ちゃんは~?」
そう言って男の子は私の事を尋ねる。
晴れてきたけれど服はまだ濡れている。
もう少し公園で乾くのを待ってから帰ろうかと思っていた。
「確かに家まで遠いな……服も濡れてるし、ちょっと一緒に来てくれ」
◆
濡れている陽太を背負い、夏野さんと一緒に帰路を歩く。
さすがに濡れたままの夏野さんをこのまま家に帰すわけにもいかないと思い、付いてきてもらった。
陽太は、とりあえず俺の家で風呂に入ってもらって、夏野さんには大家さんの家の風呂をかしてもらおう。
さすがに俺の家でシャワーを浴びさせるわけにはいかない。
公園からは、俺のアパートまでそれほど距離はない。
陽太でも一人で遊びにこれる距離だ。数分も歩けばすぐにアパートまでたどり着いた。
「ここが先生のお家ですか」
生徒に自宅を知られてしまったが、夏野さんは言いふらしたりはしないだろう。
「ああ、とりあえず陽太の家族に事を伝えてくるよ」
陽太と観月の家である一階のインターフォンを鳴らすが、中から誰かが出てくる気配はない。
「あれ? 今日は大家さんはいるんじゃないのか?」
あの人は仕事柄、カレンダー通りの休日というわけにはいかない。
今日は休みだと聞いている、もしかしたら買い物にでも出ている可能性だってある。
「へくちっ」と夏野さんが、可愛らしいくしゃみをする。
このままでは風邪を引いてしまう。
「……俺の部屋へ行こうか」
「は、はい」
ここだけ切り取ったらとんでもない発言だが、このまま放置はできない。
それに陽太もいるし大丈夫なはずだ。そもそも、変なことをする気なんてさらさらないし。
そのまま二階へ続く階段を上がり俺の部屋の前へとたどり着く、ポケットから鍵を取り出し部屋の鍵を開ける。
「じゃあ夏野さん、ちょっとタオルとか用意するからここで待っててくれ」
「……はい」
とりあえず、俺の使っているタオルを渡すのは夏野さんも嫌だろう。
以前、何かの景品でもらったタオルを箱から取り出し、夏野さんと陽太に手渡した。
「あの、別に新しいのでなくても」
「いや、さすがに普段、俺の使っているのは気持ち悪いだろ。もらいものだから気にしなくてもいい。とりあえず上がってくれ」
「おじゃましまーす」
「お、お邪魔します……」
慣れている陽太は勝手しったる我が家のように、リビングに向かう。まあ実際、借りている部屋なんだけれど。
幼いころから出入りしている陽太になら別にかまわない。
部屋は2LDKの間取りであり寝室、食事スペース、仕事部屋などわけられるので、1人暮らしでも部屋数が増えても全然広すぎるとは思わない。しかもトイレ、風呂は別、日当たりも悪くない。
「とりあえず、風呂を貸すから。ああ、もちろん昨日のうちに洗ってある」
「え、えっと、いいのでしょうか?」
「確かに倫理的にいいのかと悩む場面だけれど、夏野さんに風邪をひかれるよりはいい。……あと、できればこのことは秘密で頼む」
いや、ほんとマジで。
誰かに見られたり、聞かれたりしたら絶対によからぬ事を考えられる。
「わかりました……」
そのまま浴室へ案内するけれど。
正直、教え子に俺の部屋でシャワーを浴びさせるとか背徳感が半端ない。いや、よからぬことは考えてないけれど。
心なしか、夏野さんの顔もどこか赤い気がするし。
「と、とりあえず、中にある物は好きに使ってくれ。あと服は……俺のジャージでもいいか?」
「ありがとうございます」
そう言って俺は、ジャージとシャツを手渡して浴室の扉を閉める。
とりあえず、シャワー音とかそんな音が聞こえないようにするために、急いで陽太の元へと向かった。
「にいちゃん、ゲームしよ、ゲーム!」
「ああ、いいぞ。でもその前に、陽太を預かっていることを報告しておくか」
だが、あの人はスマホをあまり見ない人だ。
過去に連絡して3日後に返信が来たことがある。どうやらプライベートと仕事用に2台持ちらしい。
とりあえず手紙だけを書いて部屋の前に張っておこう。
一筆したため、玄関へ向かうとシャワー音が俺の耳に入ってくる。
……ほんの一瞬、若干、僅かに! シャワーを浴びている夏野さんを想像したのは認めよう。
すぐさま部屋を脱し、大家さんの家に伝言を張り付け、陽太のいるリビングに戻りテレビの音量をいつもより大きくした。これでシャワー音は聞こえまい!
「よぉうし! 陽太ゲームしようぜ! なにがいい!?」
「いえーい!」
俺は陽太とテレビゲームに没頭した。
◆
観月
「雨、すごいね」
ファミレスの外を見れば雨が斜めに降っている。
早前に昼食に来たつもりだけど、雨にアタシ達は足止めを喰らっていた。
「陽太、大丈夫かな、雷嫌いだし」
雷が鳴る度に、泣きついてくるのはかわいいけれど、今家には誰もいない。
友達と遊んでいるって聞いてるけど、家の中で遊んでるのかな。ママに連絡を入れても返事はない、もう車に乗って出ているみたいだった。
時間を見ればもうすぐ12時になる。
ほんとなら、この時間には家に帰っていたはずだったのに。
一応、家の鍵の隠し場所は陽太も知っているけれど家に一人置いておくのは不安すぎる。仔猫のような好奇心の強さで部屋の物を散らかさないか心配で。
「通り雨みたいだしすぐに止むわよ」
「そうですよ」
傘は持ってきているけれど、こんな雨の中で差しても無駄だろうな。
「観月って結構、ブラコンだよね」
「そんなことは……あるかも」
「弟くんに会いたかったですけど、留守なんですよね」
「もうすぐ帰ってくると思うけど……」
こんな雨だから、もしかしたら迎えに行く必要だってあるかもしれない。
雨が早く止んでくれないかと窓の外をずっと見ている。涼香たちもアタシと同じように窓の外を見る。
「ねえねえ君ら~、よかったら俺たちと遊びに行かな~い」
「いやいやいや、誤解しないで。ナンパじゃないし、誰にでもかまわず声をかけてるわけじゃないよ」
「君たちがかわいいからさ~」
うわ……めんどくさい男らに囲まれた。
町とかを歩いていると声をかけられるけれど、さすがにここまで露骨なナンパは久しぶりだった。
「せっかくのゴールデンウィーク、女の子だけじゃつまんないっしょ?」
じゃあ、男だけで行動しているアンタたちは一体なんなの?
「ごめんなさい、私たちこれから遊びに行く予定があるので」
涼香がはっきりと笑顔で断る。
けれど涼香の笑顔はやめておいた方がいいんじゃないかな~。それに断り方もちょっと危ない。
ほら、男の人らデレデレし出したよ。
「じゃあ、みんなで一緒に行こうか?」
「はい?」
やっぱりこれくらいの事は簡単に返してくる。
あんまりこういうときの対処方法はよく知らないみたい。こういう空気の読めない連中に「空気呼んでください」なんて伝わるわけがない。涼香が真っ先に返してしまったのでアタシの断りも通用しない。
基本こういった連中は、基本無視でいいんだけれど。
涼香が律儀に返すものだから、男たちは会話をしてくれる涼香にターゲットを絞ったみたいで、しきりに話しかけている。
ナンパっていうのは、要は相手とコミュニケーションが取れればいい。後は自分たちのペースに持っていくだけ。
「ほらほら、そこの遊んでそうな君も」
ああん? 遊んでそうなってアタシの事かふざけんな。
そこまで頭のねじが緩い気はない。
「君もね、妖精さん」
うっわ、歯の浮くようなセリフでカレンを口説きだした。
学園でそう言われているカレンだけど、ナンパの口説きで使われるとちょっとクサすぎる。
カレンはじっと相手の眼を見てる。
――あれ? 思ってたより動揺してない? 昔、学園で男子に声をかけられていたときにめちゃくちゃ動揺してたのに。
「あれ? もしかして日本語通じない? ユー、アー、ジャパニーズ? なんつって」
「「ぎゃはははは!」」
何が面白いのかカレンに話しかけ笑い声を上げる。
まるでカレンが笑いものにされているようで腹が立つ。
何か言ってやろうかと思ったけれどその前にカレンが動き出した。
「Hey! Hur mår du?」
「え?」
カレンがアタシの知らない言葉でいきなりまくしたてるようにして話し始めた。少なくとも英語ではないことは確か。
「×××? ××××××××! ××××××、×××××。××××××」
「え、あ、ちょ、パ、パーデュン?」
「×××? ××××××××?」
完全に相手は萎縮してしまい、相手は言葉を続けることができない。
それでも、カレンの口撃は続いていく。
「あ、えっと、あ、やっぱり、俺ら行くわ!」
「じゃ、じゃあ。またの機会にね!」
男たちはすぐさま踵を返して逃げ出してしまった。
「行っちゃいましたね」
そうは言うが小さく舌を出し笑うので、あの行動は間違いなく確信犯だろう。
「その方法ってカレンが考えたの?」
「いえ、シルビアさんです。私たちにしかできない撃退方法だって言ってました」
なるほど、たしかにこの撃退方法は、日本人離れした容姿でないとできない撃退方法だ。
受験の時アタシが英語で躓いていた時に、日本人は外国語となると途端に自信が持てなくなると。前に歩ちゃんが言っていたのを思いだす。
「学園でもそうすればよかったのに」
「あの方法は二度と話しかけてほしくない人にしか使いません」
学園では3年間、嫌でも顔を合わせないといけない。
そうだ。カレンは自分から1人になりたいわけじゃなかったんだ。
1年の時、アタシに初めて声をかけてくれときは結構、勇気を振り絞ってくれたんだろう。
「ちなみにさっきのあれなんていったの?」
「それは秘密です。友達なくしたくないですから」
一体、何言ったの!?
「でもさすが涼香だよね~、真っ先にターゲットにされて」
「ああいうのって、ホント迷惑……」
「でも意外だな~もっとナンパ慣れしているのかと思ってたけど」
「……う~ん、私、プライベートで外出る時は夕葵と一緒にいることが多いし、1人で出かける時は、もっとラフな格好してるから」
「確かに、夕葵がいれば余裕で撃退できそう」
「本人には言わないで上げて。夕葵、目付きがコンプレックスみたいだから」
私からすれば、あのボディラインがはっきりしているのは羨ましい限りなのだけれど。夕葵にもコンプレックスなんてものがあるんだ。
「でも、夕葵さんがここにいないとなんだか仲間外れにしているみたいです」
確かに、今ここに集まっているメンバーは合宿で同班だった子だ。まるで、夕葵をハブっているみたいで、あまりいい気分がしない。。
「仕方がないと思うけれど。あんまり人に言える事情じゃないし」
「こればっかりわね……あ、雨あがったみたい」
涼香の声に窓を見れば雨は上がっていた。
「そろそろ帰ろっか」
「ええ」「ハイ」
会計を終えるとアタシ達は家に戻る。
陽太も待ってるかもしれないし、急がないと。
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