俺にキスをしたのはだれ?
ユキチ
第1話 誰だ?
朝、久しぶりに自宅であるアパート――三日月荘で目が覚める。
予定のある日は目覚ましよりも早く起きるのは学生の時からしていたためさほど苦ではない。
ただ、身体の怠さは抜け切ってはおらず身体をグッと伸ばし固まった身体をほぐした。
「あ~なまってんな」
1人暮らしのため、そんなぼやきに答える人は誰もいない。
シリアル食品で簡単な朝食を済ませると、壁に立てかけてあるスーツに袖を通す。まだ買ったばかりのグレースーツには皺一つない。就活の時にはネクタイ1つ結ぶのにも苦労していたというのに、今ではだいぶ慣れた。
玄関に置いてあるスタンドミラーで、身だしなみを最終チェックすると、部屋の扉のに鍵をかけ職場へ向かうため車に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。
職場に近づくにつれて、途中にある桜並木が静蘭学園までの道を美しく彩る。
通学路には真新しい
今日は入学式――今日から高校生となる1年生からすれば、これから始まる高校生活に期待に胸を膨らませているだろう。元々女子校であったからか比率は女子の方が多めだ。
静蘭学園は自宅から徒歩で15分も離れていない所にある高校だ。
俺はその高校に教師として勤めている。
教師生活2年目ということでまだまだ新米だが、それなりに上手くやれている方だと思う。
校門をくぐる生徒を横目に、学園の裏口から教員専用の駐車場に駐車し、車から降りると校舎へと進んでいく。
職員室の扉を開けると、「おおっ」というざわめきが俺を迎えた。すれ違う先生方に挨拶をしながら自分のデスクに着く。
「高城先生、もうお身体は大丈夫ですか?」
初老の男性教師――江上先生が心配そうに声をかけてくれる。
俺がこの高校に勤めるようになってからまだ2年目だ。1年目は良くこの先生にお世話になった……いや現在も世話になっている。俺が休みの間に仕事を引き受けてくれたらしく、足を向けて眠れない存在だ。
「ええ、ご心配をおかけしました。ここしばらくお休みをいただいてすいません」
「いえいえ、あれ程の事故で御無事でなによりです」
そう俺は2ヶ月前に起きた事故で入院していたのだ。
3月中は大事を取り休暇を貰い弟の世話になっていた。何かと多忙な3月を休んでしまったのは申し訳なく思っている。
事故が起きたのは高校近くで居眠り運転をしていたトラックが人通り目掛けて突っ込んできた……らしい。
幸いにも死者はいなかったが、事故現場にはまだその痕が痛々しく残っている。
その事故で外傷こそはなかったが、巻き込まれた俺は2週間ほど意識が戻らなかったのだ。意識は完全に無かったというわけでなく、何度も浅い覚醒を繰り返しまた眠るそんな感覚だった。
――だからあれも夢なのかもしれない。
「高城先生? 大丈夫ですかね?」
「あ、はい!」
ほかの教諭に声をかけられ思考を中断する。顔に出ていないだろうか。
教諭の中でも何人か見舞いに来てくれた先生たちにもあとで挨拶に行かなくてはならない。
入学式が始まる前に今日のミーティングがあった。
その時に本日から復帰することを伝え、業務が滞ってしまったこと迷惑をかけてしまったことを謝罪すると、温かい拍手で迎えてくれた。
「えー…高城先生には、今日から2年1組の担任を持ってもらいます。何か困ったことがあれば誰でも構わないので確認をとってください。体調が悪い時にはすぐに伝えるように、しばらくは副担任である水沢先生がサポートしてくれますので」
教頭から辞令を伝えられる。
今日から俺は担任を持つ、緊張しないわけがない。
「高城先生よろしくお願いしますね!」
元気よく一歩前へ出たのは
ぎゅっと柔らかい手で俺の手を握りしめる。
俺より1歳上の教員であり本来彼女が担任となるはずだったのだが、なぜかそれを辞退し俺にお役目が回ってきたという形になる。
水沢先生はこの静蘭学園の卒業生でその頃からいる教師陣には未だ在学時の頃のように可愛がられている。タレ目がちで柔和な顔立ちで一部は異性として狙っているのだろうが。
「こちらこそお願いします」
ギンッ―――
お願いですので、ご年配の先生方そんな一人娘を持つ父親のような目で睨まないでください。俺が決めた人事ではないんです。
手も水沢先生から握ってきたんですよ!
僅かに頭痛を覚え手を額に当てるがそれがまずかった。
「高城先生! 頭が痛むんですか!?」
「あ、いえ! 大丈夫です!」
「本当ですか?」
本気でこちらの身を案じてくれている水沢先生には悪いが、心配そうにこちらを見上げる仕草は正直かなり可愛らしい。
一瞬、見惚れたが男性教諭たちの殺気で目を強制的に現実に引き戻される。
「ではこれが高城先生が担当する2年1組の生徒名簿です」
一冊の黒い生徒名簿を受け取った際に外観より重みを感じたのは、不安があるからだろうか。両手でしっかりと受け止める。
「これが俺の担当する子達か」
写真と名前が記された簡易的な生徒名簿だ。
「高城先生。生徒たちの前で“俺”なんて口調が悪いですよめっ、です」
幼い子どもを嗜めるような口調に思わず頬が緩みそうになるが先ほどの二の舞は避けたい。
口の周りの筋肉をキュッと引き締める。水沢先生からすれば後輩でもあるし似たような感覚なのだろうか。
「ではこれから入学式が始まります。新一年生を担当する先生方は準備をしてください。他の先生方は午後から各教室へ……では今日もよろしくお願いします」
「「「「よろしくお願いします」」」」
◆
自分の受け持つ生徒たちの名簿と改めて向き合う。
生徒たちのプロフィールに目を通していく。
生徒たちの数は40名――女子30名 男子10名と男女比較すると随分と開きがある。まぁ数年前まで女子高だとこんなものか。
「……先生……高城先生!」
「うわ!」
別に声に驚いたわけではない。
驚いたのは水沢先生と自分の距離の近さに驚いたのだ。
なんというか水沢先生、随分と話す距離が近いです30cmも離れていませんよ!
「ご、ごめんなさい。驚かせてしまいましたか?」
「大丈夫です。何かご用でしょうか?」
「今日、お昼はどうされるんですか?」
水沢先生の手には可愛らしいサイズの弁当があった。自分で作ったのかそれともお母さんが作ったのかはわからないが、手作りの弁当というのは羨ましい。
「いつも通り学食で……あ……」
そうだった。
今日は入学式で学食が休みなのだ。同じように学園の売店もやっていない。
長期の休みの弊害かそんなことを完全に失念していた。俺がいつも学食で済ませていることを知っている先生は気にかけてくれたのだろう。
「ちょっとコンビニに行ってきます」
無論、生徒は昼休みに抜け出しコンビニに向かうことは許されない。教師だから許される特権を使わせてもらおう。
「気を付けてくださいね」
車を走らせれば10分もしない内に着くのだが心の準備をしておきたいため急いでコンビニへと向かった。
コンビニへの道程にはあの事故現場がある。
ものすごい力でへし曲げられたであろうガードレール、曲がったままの標識、倒された樹木が事故の衝撃の強さを印象づける。
車に乗っている時に横目に視線を送る。
事故の起きたその日の記憶はない。
事故の瞬間ではなくその日の記憶がまるでないのだ。
医者には衝撃的な事故であったため、記憶の混濁だろうと言われている。
俺が目を覚ましたのは2月末だった。
そこから警察の事情聴取の際に自身の記憶の欠落に気が付いたのだ。
五体満足で生きているだけでもうけものだ。
事故にあったこと以外は特に何も変わり映えの無い1日だったはずだと、あまり気にしていない。
それよりも気になっているのは入院している時の事だ。
意識不明の間は全ての期間意識がなかったわけではない、何度も覚醒と眠りを繰り返していた。
そして、それは意識がわずかに戻るタイミングの時だった。
『先生………』
声とともに唇に当てられた軟らかな感触、バニラの香り、頬をくすぐる細い髪。
うっすらと瞳を開けた時に相手の顔までは見えなかった。
一瞬、見えたのは静蘭学園の制服だった。
もしかしたら俺は生徒とキスをしてしまったのかもしれない。
いったいあれは誰だったんだ?
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