彼女の瞳に映るもの

安路 海途

1(葵ちゃん)

 あおいちゃんはちょっと変わった女の子だ。

 いつもぼうっとしてるし、時々何もない宙空をじっと見つめていたりする。そして、

「――ハルちゃん、今あそこを何か通りすぎたよ」

 そんなことを言ってきたりする。

 わたしは葵ちゃんの指さす方向を見るだけど、そこには教室の何もない空間とか、声一つしない無人の公園だとか、そんなものしかありはしない。

 葵ちゃんに見えているというものが、わたしには少しも見えてこない。

「えっとね、光の輪っかみたいなのとか、線みたいなの。輪っかみたいなのは、煙草の煙みたいにほわんと広がってくの」

 でもわたしにはやっぱり何も見えなくて、そんな葵ちゃんに首を振ることしかできない。

「どうして見えないのかな? ハルちゃんは変わってるね」

 彼女はそんなふうに言って、何の屈託もなさそうに笑う。

 そんなとき、わたしはいつもドキッとしてしまう。何というか、その笑顔がひどく心に沁みるような――まるで、新しい眼鏡をかけたときみたいに(わたしは眼鏡をかけているのだ)、世界が隅々までクリアに、違ったふうに見えてくる気がしてしまう。物事の在り方そのものが、普段とはずいぶん異なってくる。

 どうしてそんなふうに感じるのかは、わたしにはよくわからない。葵ちゃんとは中学校に入ってはじめて知りあったけど、わたしは最初からそんなふうに感じていた。

 それは彼女の飾り気のなさとか、率直なまなざしとか(彼女はじっと人を見つめる癖があった)、そういうもののせいかもしれないけれど、それとは別の、もっと違った何かのような気もする。

 いずれにせよ、わたしは葵ちゃんのことが好きで、ちょっと変わっていることなんかも気にならず、むしろそれが魅力的に見えてしまうくらいだった。けど彼女がちょっと変わっていることには違いがなくて、まわりでは色々言われていたりする。

宮瀬みやせさんてさ、あれってわざとなわけ?」

 廊下を歩いていると、そんなセリフが耳に入ってくることもある。

 そんなとき、わたしは何か言い返したくて、彼女は本当は素敵な女の子なんだと伝えたくて、でも結局は口を噤んでしまう。ぎゅっと手を握って、心を頑なにしたまま、その場を早足に通りすぎてしまう。

 それはわたしもやっぱり彼女がちょっと変わっていると思うからで、そのこと自体は否定できない。普通の人は何もない場所を指して、何か見えるよ、とは言ったりしないのだ。

 わたしはもちろん、彼女のことが好きだ。

 その屈託のない笑顔も、幼いくらいにまっすぐな言葉も、相手の目の奥をのぞきこむような澄んだ瞳も、ちょっと変わっているところも――あるいは、ちょっと変わっているからこそ。

 でも――

 そう、わたしもやっぱり不思議に思っていたのだ。彼女がどんなに魅力的でも、彼女のことをどれだけ好きだったとしても、やっぱり。

 宮瀬葵という少女が時々視線を漂わせるその先にあるもの――

 彼女がどうしてそんなふうに、見えないものを見えると言うのか――

 わたしはやっぱり、不思議に思っていたのだ。


 宮瀬葵、身長一三四センチ、牡羊座、血液はB型、体重は……秘密だ。もっとも、葵ちゃん自身はそんなこと気にもしないだろうけど。

 彼女はとても小柄で、とても小さな手をしている。まるで誰かがそんなふうに作ったみたいに。瞳は夜の星空を写したみたいに澄んでいて、静かに輝いている。髪型はろくに鏡なんて見ていないんじゃないかというくらいでたらめだったけど、それは案外葵ちゃんの雰囲気とあったものだった。

 全体的に好奇心がいっぱいで、自分から動きだしてしまった人形、という感じだった。そのくせ葵ちゃんはめったに自分から発言したり、人に働きかけたりはしない。いつも、どこかぼんやりとしていて、心を別の場所に置き忘れてきたみたいな様子をしている。

 それは最初、わたしには奇妙な――扉が逆さまにでも取りつけられているような――そんな印象を与えていた。

 わたしと葵ちゃんが初めて会ったのは、中学校の入学式のことだ。

 四月のはじめ、高気圧の影響もあって、空は雲一つない青空だった。麗らかな春の陽気、というにはいささか風が冷たすぎたけど、中学校最初の一日としては、まずまずの上天気と言っていい。

 中学校の正門付近や玄関前は、新入生やその両親なんかでごった返して、ひどく混雑していた。誰も彼もが着慣れない制服を身にまとって、少し緊張して、そうして幸せそうだった。

 わたしは変に浮かれた気持ちと、抑えようのない不安感と、奇妙な恥ずかしさの混じった気持ちを抱えて、自分の体にうまく馴じめずにいた。目覚めたばかりのときに、頭の一部分だけがまだ眠っているみたいに。

「ねえ、どこかおかしくないかな?」

 と、わたしはいっしょについてきた母親に向かって、袖口やらスカーフやら、襟元を気にしながら訊いた。何度も訊ねられたせいだろう、母親はやれやれという感じで受け答えをした。もっとも、わたしにはそんなことに気づく余裕もなかったけど。

 次第に時間が迫ってくると、新入生たちは順次校舎の中へと入っていった。わたしもその流れに乗って、式場に向かう。校舎に入る手前で振り返って見ると、母親は苦笑するような表情を浮かべて小さく手を振っていた。

 式場になっている体育館は冷えびえとして、お世辞にも快適な場所とは言えなかった。わたしは寒さと緊張で体をかちこちにしていて、校長先生の話も、やけに長く続く祝辞や電報も、ほとんどまともには聞いていなかった。式がいつ始まって、いつ終わったのかすら、ろくに覚えていない。

 気づいたときには立ちあがって、列に従って退場をはじめていた。わたしは機械的に足を動かしながら、体育館いっぱいに鳴り響く拍手にさえ気づいていなかったと思う。というより、拍手が鳴っていたのかどうかさえ覚えていない。

 その後、新入生は各クラスごとに別れていって、わたしは一年二組の教室に向かった。そこで小学校からの友達であるふじかなみと会ったとき、ようやくほっと息をついた。慣れない場所で慣れた顔を見かけると、むやみに安心してしまうものだ。

 わたしたちは、同じクラスだね、とか、何か緊張したね、とか、およそ意味のないことをしゃべりあった。けれどそれでいて、はしゃいでいるような、浮かれているような、変に興奮したような感じでもあった。不安感やら期待感やらがわけのわからない混ざりかたをして、普通じゃない気持ちにさせていたのだと思う。

 そのうちに先生――杉本弥生すぎもとやよいというのが、その先生の名前だった。それなりに若くて、けどもうそんなには若くないという微妙な年齢で、ちょっと変わった形の眼鏡をかけている――がやって来て、わたしたちはそれぞれの席に座った。座席は当たり前だけど、名前順に並んでいる。

 わたしの名前は、真野春海まのはるみという。

 席は一番左の列、窓際の、後ろから二番目だった。窓からは眠気を誘うようなぽかぽかとした陽気が差しこんでいて、じっとしていると少し暑いくらいだった。

 その時にはなかなか気づかなかったけれど、葵ちゃんの席はわたしのすぐ隣だった。

 わたしがそのことに気づいたのは、しばらくして隣にいるその見知らぬ女の子が、何かを受けとめるみたいに手をちょっと前に出しているのを見たときだった。

 先生の話に耳を傾けながらも、わたしは彼女のその仕草が気になっていた。

 それはまるで、空から落ちてきた雨粒の一つを確かめようとしているみたいに、何か大切なものをその小さな手のひらに受けとめようとしているみたいに――そんなふうに見えるのだった。

 わたしは自分でも知らないうちに、よほど彼女のことを見つめていたのだろう。葵ちゃんは不意にその視線に気づいたみたいにこちらを向いて、それから、ちょっとだけ笑った。

 ――気づかれちゃったね。

 そう、言うみたいに。

 わたしは彼女の名前さえ知らなくて、声だって聞いたことがなくて、でもその瞬間、その笑顔にあっというまに心を奪われていた。まるで、波にさらわれた貝殻みたいに、風にさらわれた花びらみたいに。

 しばらくのあいだ、わたしは自分でもそのことに気づかなかった。何しろ、そんなことははじめてだったし、そんなふうになる理由なんてどこにもなかったのだ。彼女はただちょっと笑ってみせた、それだけのことでしかない。

 でも――

 もしかしたらその時、葵ちゃんのひどく落ち着いた態度だとか、その場所での違和感のないたたずまいとか、そんなものにわたしは惹かれたのかもしれない。その小柄な体つきとはうらはらの、大人びた雰囲気みたいなものに。

「――――」

 葵ちゃんは軽い会釈のようなものを送ってくると、また前を向いて手をちょっとだけ先にのばした。それはほんの短いあいだの出来事で、何だか夢でも見ていたようでもある。

 けれど、わたしの胸の動悸はなかなか消えることはなくて、わたしはわたしの胸の中のその奇妙な感情に、うまく名前をつけることさえできずにいた。

 ――それが、わたしと葵ちゃんが初めて出会ったときのことだった。

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