5「犬×語」
朝日がまだ顔を出しきっていない早朝。カーテンから覗く空には雲ひとつなく、今日も冬晴れで洗濯物を外に干せそうなことに安堵する。
私、佐々木フェンリルの一日は早朝から始まります。
ご主人様である佐々木さんにお世話係を任された日から寝坊したことは一度もないが、目覚まし時計の類いを使ったことも一度もない。こんな朝早くに目覚ましを鳴らして、佐々木さんの貴重な睡眠時間を邪魔するわけにもいきませんからね。
着替えるため身につけていたものを脱ぐ。さすがにこの季節になってくると朝の冷え込みが厳しく、尻尾の先が寒さで震えた。
鏡に映る自分の姿。何の気なしにこの姿に変身しているが、佐々木さんが言うには私の見た目は現代における18歳のぐらいの少女らしい。
元々神々には年齢なんてものは存在しませんが、どうせだったら佐々木さんの好みの姿になるべきでしたね。
そんなことを考えながら、ようやく上下の下着をつけることができた。この下着というのにはまだ慣れない。身体を締めつけられる感覚というのはどうにも苦手で、こんなものをつけて生活できる人間や佐々木さんはすごいと思います。
下着姿のまま、今日着る服を吟味して鏡の前で合わせていく。でも、服を着ることは嫌いじゃない。可愛い服を着れば佐々木さんが褒めてくれるから。
ところで、どうしてこんなに私の朝は早いのか。それは、女の子は準備に時間をかけるものですからね。納得のいく組み合わせに、鏡の前の私は満足そうに頷いた。
◆
予め炒めておいたキャベツを鍋に入れ、水が沸騰してから味噌を溶かしていく。卵は目玉焼きと卵焼きにして、卵焼きは佐々木さんのお弁当のおかずに。あとは昨夜の残り物を詰めていけば立派なお弁当になる。
インターネットで色々と調べていくうちに、レパートリーも少しずつだが増え続けてきた。以前は朝から肉を焼いたりして随分と怒られてしまいましたからね。失敗したという経験を経て私も日々成長を遂げています。
ですが佐々木さんってあまり食事に関心がないのか、感想をくれることが少ないんですよね。文句がないのはいいことなんでしょうが、ちょっと寂しかったりします。
朝食の準備が終わる頃、佐々木さんを起こす時間もやってきた。
「佐々木さん、朝ですよ。目覚まし時計何回止めるつもりですか?」
「ん~……もうちょっとだけ。あと30分……」
「そんなちょっとがどこにあるんですか。今日は出社しないといけないんでしょ?」
ようやく起き上がってくれた佐々木さんは、いつもの気怠げな姿とは違ってものすごく無防備で、ていうかめちゃくちゃ可愛い。
「私が着替えのお手伝いしましょうか? さ、裸になりましょう!」
「うわっ、どこに手突っ込んでるの!? 自分でやるからいいよ!」
あぅっ……。佐々木さんってば強情なんですから。
佐々木さんを無事見送りバタバタとした朝が過ぎ去りましたが、お世話係としてのお仕事はむしろこれからが本番です。在宅業務の佐々木さんも出社していることですし、今日は家中を掃除しちゃいましょう。
「おっと、その前に洗濯機を回さないとですね」
無造作に積まれていた佐々木さんの服。ポケットからは小銭やレシート、色々なものが出るわ出るわ。ちゃんと全部取り出してから洗濯に出してくださいと言っているのに、相変わらずズボラなんですから。
その中の一枚、まだ脱ぎたてでほんのりと暖かい。佐々木さんがさっきまで着ていた服。それを抱きしめて私は床を転げ回る。
「ハァハァ……佐々木さんの匂い」
佐々木さんを抱きしめているかの如く多幸感に包まれ、しばらくゴロゴロとしてひとしきり満足したところで我に返った。これ以上やると止まらなくなりそうだ。手早く洗濯機を回し、いざ部屋の掃除にとりかかる。
「塵も埃もラグナロク~! 全部滅んでいなくなれ~!」
フローリング全面を掃除機にかけ、さらに雑巾で水拭きしていく。壁のシミもあらかじめ用意していた洗剤で落としていき、みるみる部屋が綺麗になっていっくのは気持ちが良い。あとは普段使いしいている家具を掃除すれば残るは一カ所だけ。
「お、お邪魔しまーす……」
普段はなかなか入ることのできない佐々木さんの部屋。一応ノックも忘れない。
掃除するためとはいえ、やっぱり緊張します。
最初に飛び込んできたのはやはりというか、床に散らばった私物。これは掃除の前に片付けでしょうか。佐々木さんがわからなくならないよう、勝手にしまわずとりあえず目につくところに平積みにしていく。
「ムムッ? こ、これは佐々木家の預金通帳……!」
私が見ていいはずがないのはわかっています。がしかし、私も買い出しなので佐々木さんからお金をいただいている身、少しくらいなら覗いても許されるんじゃないでしょうか。一応は財布を預かる身として、確認ぐらいはしてもいいはずです。
色々と連ねた理由を免罪符に、いざ開帳。
ごくり……。
私は預金通帳の残高を確認して、そっと元の場所に戻した。これはとんでもない物を見てしまったんじゃないでしょうか。
佐々木さん、いつも適当にお金を渡してくれていましたが、後先考えていないといいますか無頓着すぎといいますか。何も見なかったことにして、私は手早く掃除をしてから部屋をあとにした。
あらかたの掃除を終え、少し休憩をとることにした。午後になると気温もあがり部屋には暖かい日溜まりができていて、身を寄せていると次第に眠気がやってくる。
「そういえば、ベランダも掃除しなくちゃ、ですね……」
寝てはいけない気持ちが睡魔とせめぎ合っていたが、少しだけならと悪魔の囁きに負けてしまった。
◆
身動きができない。なにか頑丈な紐のようなもので身体が縛られている。
動けなくない私を見て誰かが嘲笑する。
悔しかった。憎かった。私を忌み嫌った者たちの姿に憎悪の火種がくすぶる。
誰も信用できない。みんな私の敵だ。
自分の中から聞こえた悍ましい私怨の声に寒気がして、気がつくと日溜まりはすっかり影になっていて暖かさは残っていなかった。嫌な夢を見てしまったのは、お昼寝のしすぎでバチが当たったんでしょう。
ここはもうあの場所じゃない。誰もが私を忌み嫌うことなく優しさをわけてくれて、だからこそ私はこうしてここに居ることができる。私を助けてくれた佐々木さんのためだけにここにいようと決めた。
暗くなっていた気分を強引に払拭する。佐々木さんが帰ってくるまでに、さっさと晩ご飯の支度をしちゃいましょう。お昼ご飯は食べそびれてしまいましたが、その分晩ご飯を多めに頂いちゃいましょうか。
「晩ご飯……? 晩ご飯かぁ……」
私はもう一つ、思い出したくないことを思い出してしまって後悔する。
「ただいまー」
佐々木さんは疲れた表情で帰宅すると、そのままソファーに寝転がっていた。
「お帰りなさい佐々木さん。寝るなら晩ご飯を食べてからにしてくださいね。その前にちゃんと手洗いとうがいも忘れないでくださいね」
「なんか母親みたい……」
この人のためならすべてを捧げてもいいと、あの日隣で眠っていた横顔にそう誓ったんです。
◆
「フェンリル、なんか今日の晩ご飯いつもより質素な気がするんだけど……」
「気のせいです」
「いやでも」
「気のせいです」
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