武装金融リクシーナ

祀木あかね

第一章 盗賊からの奪還

序幕

 さて、痛みを感じない人間はいるだろうか? と問われたら、何と答えるだろうか?

 言葉遊びをしない前提ならば「いる」と答えるのが正解だ。

 戦争の最前線で戦って興奮している兵士などは、痛みを感じなくなるという。

 致死の攻撃を受けてさえ、動けなくなるまで戦い続けるのだ。

 また、やがて死に至る病を持つ患者から痛覚を取り去る、という処方もある。

 それは、穏やかに死に至る者のために、生き続けていく者からの餞だ。

 つまり、痛みを感じない人間は存在するのだ。


 では、感情のない人間はいるだろうか?

 長く考えた末に、こう答えるだろう「いない」。

 また、ある者はこう答えるだろう「いや、いる」。

 そして、これには明確な正解はない。

 前者後者どちらもまた、不正解とは言えないのだ。

 なぜそのようなことになるのか?

 それはその問いを、主観として捉えるか、客観として捉えるかの差と言えるだろう。

 主観的に捉えれば、感情というものは理性のある動物なら必ず持ちうるものであり、それは生まれながらに授かったものであるから、決別することは不可能だ、と考える。

 だが、客観的に捉えるなら、感情のない他人は存在しるように思える。

 それはただ、他人から見れば感情がないと評されるだけの事だろう。


 例えば、とある金融業に勤める男がいたとしよう。

 彼はある者に金を貸した。

 担保はその者が親から受け継いだ大切な宝物だった。

 もし、期限までに返済されなかったとしたら、彼はそれを売り払うだろう。

 泣いて乞われて、それは親の形見でもあると告げられても、それが自分にとってどれだけ大切かを説明されても関係ない。

 それを見たままの価値で判断する取引先に売り払い、貸した金を回収することだろう。

 その担保にどんなに思い入れがあろうと、彼はこう言うだろう「いや、これはただの担保だ」と。

 そして彼はこう評される。

「お前には感情がないのか」と。

 それに対して、彼はこう答えるだろう。

「これが私の仕事だ」と。

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