屍送り
悠は制服に身を包み、一階に降りてリビングへと続くドアを開けた。
台所には洗い物をしている亜紀。付けっぱなしになっているテレビの音量は水仕事に合わせて少々大きい。
「おはようございます、兄さん。いま用意しますのでもう少々お待ちください」
「おはよ。いいよ、後は自分でやるからさ。お前まだ身支度してないだろ?」
「大丈夫です。大した手間でもないですから。だいたい、兄さんはまだ病み上がりなんですからおとなしくしておきなさい」
洗い物を中断し、亜紀は悠の朝食の準備に取り掛かった。
味噌汁の入っている鍋を再び火にかけながら、亜紀は鼻歌交じりに台所で無駄なく動き始める。
魚焼きグリルから取り出したるは鮭の切り身。見事な焼き具合で、魚皿には大根おろしも添えられていた。追加で冷蔵庫から卵を取り出すと、慣れた手つきで卵焼きを作り始める。
まるで熟練された料理人のような手際の良さに、悠ができそうなことは何も見当たらない。大人しく彼女の言葉に甘えテーブルへと向かうことにした。
「亜紀。いつも朝飯作ってもらっている身でこんなこと言うのは大変烏滸がましいんだけどさ、朝飯なんてもっと簡単なものでいいんだぞ? 別に菓子パンとかシリアルでも構わないし」
毎朝毎朝、亜紀が日の出よりも早く起きているのを悠は知っている。学生でありながら、まるで主婦のような生活だ。
それというのも、母親が海外で仕事をしているので自分達のことは2人でどうにかしてきた。料理が趣味の亜紀は食事を。万年帰宅部で家にいることが多い悠は掃除洗濯と雑務を担当、という具合である。
「趣味でやっているみたいなものですから、どうぞお気になさらず」
織笠亜紀。彼女は本当に良く出来過ぎた妹だった。悠には勿体無い、そう周囲から散々言われているが彼自身もそう思っている。
炊事洗濯掃除の家事全般。勉強にスポーツ。あらゆることを人並み以上にこなす容姿端麗パーフェクト超人。それが織笠亜紀という人間。運動神経抜群で、中学時代は料理部所属にも関わらず体育では誰よりも目立っていたほどだ。性格は少々男勝りなところがあるのだが、兄である悠からすれば可愛い妹である。
「そういえば、お母さんから定期チャットがきていますよ」
小皿にほうれん草のお浸しを盛りつけていた亜紀は、リビングに置きっぱなしになっている共有のノートパソコンを指さした。
「……ああ、たしか今はアメリカだったか?」
「それは先週までです。今はドイツにいるみたいですよ」
「――、そういえば、そうだったな」
「お母さん、兄さんの身体のことを相変わらず心配していましたよ? それと、『お見舞いにくるような彼女の一人もいないの?』だそうです」
「余計なお世話だ、クソババア、っと」
亜紀のナレーション付きでメールに目を通していた悠は、乱暴にキーボードを叩き返事を書き込んだ。
女手一つでここまで兄妹を育ててくれた唯一の肉親。仕事で海外にいることが多い二人の母親だが、こうして頻繁にチャットやビデオ通話をしてくる。常に二人のことを、家族を気にかけているからこそだろう。
「次の帰国は……来週にはできそうなのか」
「ええ、お父さんの命日ですからね」
水音に消えてしまいそうな小さな声で亜紀は呟いた。
ちょうどニュースではとある“厄災”と呼ばれているものの特集が流れていた。
『屍送り』
いつ誰がそう呼びだしたのか、全世界でほぼ同時に発生した大規模な消失事件。場所によっては大地が抉れ、街まるごと消失した事例もあったという。
自然現象、テロ、某国の核攻撃、地球外からの攻撃、天変地異。さまざまな説や陰謀論が巻き起こった。だが、今もってその事件は全てが未解決とされ明確な解明には至っていない。わかっているのは、地球上から大量の人々が一斉にいなくなったことだけだ。
この厄災による行方不明者は三万人以上とも言われ、戦後最悪の怪事件として人々の心に決して消えることのない傷を残した。
二人の父親も、この厄災により行方不明。搭乗していた旅客機が太平洋上で姿を消し、現在も見つかっていない。
――それから10年。
消えた人々は一人として見つからないまま世界規模な大捜索は次々打ち切られていき、悠たちの父親も3年前に死亡者扱いとなった。
暗い表情をしていた亜紀は、兄と目が合い即座に表情を正した。いつものキリっとした顔に戻ると、リビングのテーブルに朝食を運んでくる。
「洗い物はお願いしますね。私は支度をしてきますから」
エプロンを脱いで冷蔵庫のフックにかけると、亜紀は小走りでリビングを後にした。
悠の視界の隅、リビングの隣にある和室の仏壇が目に留まる。
「亜紀のやつ、親父にべったりだったもんな……」
10年。いくら月日が経とうと、前触れもなく奪われた大切な存在を何かで埋めることなど永遠にできないのだ。
『屍送り』の特集が終わり、テレビでは今話題の芸能ニュースなどが流れていく。絶品の朝食に舌鼓を打ちながら、悠は横目に画面を見やる。だが生憎と世間を騒がせている芸能人のスキャンダルやら流行り物など、彼が知っているものは一つもなかった。他の時事的なニュースも見知らないものばかり。
悠は興味なさそうにテレビから視線を外し、朝食の残り一口を呑みこんで両手を合わせた。
「ご馳走さまっと」
食器を重ねて流しに運ぶ。台所のデジタル時計を見ると、まだ一息入れるだけの余裕はあった。
食器を洗い終え、食後のお茶を入れてからリビングのテーブルに着く。
テレビでは『巷で話題のフルーツタルト!』として悠の住む奏風町のとある喫茶店が特集されていた。
奏風町。
都心から少し離れてはいるものの、人口は市内でも多い。これといった名所は無いが、駅前は高層ビルが立ち並び商業施設も充実している。町の大部分は盆地にあり、交通の便が多少不便なこと以外は何不自由ない生活を送れる。毎日が穏やかな時間をゆっくりと刻む町だ。
喫茶店のマスターらしき男性のインタビューが流れるテレビをぼーっと見ながら食後の緑茶を楽しんだ。
しばらく無感情のままいると、制服に着替えた亜紀がリビングに戻ってきた。悠と同じ紺色のブレザーを着こなしている。
大勢の人間が新たな生活をスタートさせる四月。もちろん彼ら兄妹も例外では無く、悠は奏風高校の二年生に。亜紀も同じ奏風高校の一年生に進学するのだ。
「ご馳走さん、今朝も美味かった」
「お粗末様です」
お世辞抜きの朝食を出してくれた妹に感謝を伝えると、亜紀は嬉しそうにはにかんで小さく会釈を返した。
「では、私は友人と待ち合わせをしているので先に出ますね。いいですか、兄さん。何度も言いますが久しぶりの学校だからって面倒がらずにちゃんと登校してくださいよ。四ヶ月も入院していたのにちゃんと進級させてもらったんですから」
「はいはい、わかってるって。制服着ちまったんだ。ちゃんと行く」
「……本当ですね?」
結局、亜紀は家から出て行くまで何度も何度も悠に小言を並べ続けた。これではどちらが年長者かわからない。
亜紀をようやく見送り、リビングに戻ると悠の頭に微かな違和感が浮かんだ。
「――てか、俺はなんで入院していたんだっけ?」
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