フーディ・ホーリィ

メラー

 井戸の底での暮らしを、君は想像できるかい?


 もちろん知らない、私は彼の方を見ずそう言い、代わりに睨んでいた灰皿に、灰のひとかけらもないのを勿体無く思って一本咥え火をつけた。彼は構わずに話した。


 ジメジメはしてないんだよ、僕の住んでる井戸はね、カラッとしてて、涼しくってね、だいたい四畳半くらいの広さがあるし、快適かな、もし、気になったら遊びにおいでよ、構わないから。


 ほとんど夏も暮れかけの、コーヒー屋のカウンター席でアイスミルクティーをゆっくり飲みながら、私はノートに日記を書いていた。気づかぬ間に、その男は隣に腰をおろしており、すっかり身体を私の方へ向けて話しかけるのだ、井戸について。


 二、三泊してみたらいいよ。世界を今までより広く感じられるようになるから。多分、君が思うよりかは寂しくないよ。太陽がどんなに素敵か、よくわかるようになるって、あと、小さい空気の匂いにも気がつけるよ。本当に良いところなんだよね?


 私に何かを確認するよう、尋ねるようにそう言って、彼はコーヒーのカップを唇につけ、考え直したかのようにまた皿の上に戻した。ウィンドウの向こうを行き交う人々の傘の影で、細かい雨が降っていることに、私は気がつく。雨をいくら眺めていても、彼の言葉の染み込む方が早く、頭の中には静かな井戸の底の景色が結ばれる。彼の羽織っているよもぎ色のレインコートにも、薄っすらと霧のような小さな水滴が並んでいる。


 夜眠る前にはね、星が向こうに見えるんだ。今日みたいに雨が降ってると、そりゃ見えないけどね、でも、ずぶ濡れになるってこともないんだよ。細長い穴だから雨は風に押されて、ほとんど壁に当たってから、ゆっくりつたってくるし、ひどい時でも蚊帳と傘を一緒にしたみたいなのがあるんだけど、それを張ったらヘッチャラなんだよ。


 音を立てないで降る雨を眺め続けていると、まさに七つ下がりの雨だと感じ、また、彼の話も長くなるのだろうかと、ふとした予感が脳裏をよぎった。意外にも、芽生えている予感にあるのは、不愉快な感情ではなく好奇心のようである。果たして、井戸の底に色彩はあるのだろうか? 彼の話し方はとても、鮮やかだったから、ふとそう思ってしまう。私は試しに、というより思わず、井戸の底で寝起きするのに不便はないのか、と尋ねていた。


 床には寝らんないよ、湿っててやってられないね。ていうか、一晩中耳元でピッタンピッタン雫の音がしてたら偏執狂か何かになっちゃうんじゃないかな?


 雫の垂れる音などが聞こえなくとも人は、井戸に住めばパラノイアなるのだろう、病的に話し続ける男を見て、つい思う。


 井戸の底がカラッとしてるって言ったのは、空気だけよ? 何たって、ぽこんぽこんと音を立てながら水が湧いてるんだから。僕はね、壁からハンモックを吊るしてそこで寝てる、いやぁ、本当に気持ちが良いんだよ? 君も絶対に試してみるべきだって。今の時期なんかは、一番良いよ? お昼の二時なんかはオススメね、草原をかける風の音が、地面の上を方々ほうぼうから来るのが分かるんだ。


 改めて眺めてみれば彼の風采は、地の底という陰鬱な場所の印象とも、日暮れ前に降り始めた雨の中を店に逃げ込んできた人間の印象とも異なる。明るくて、清潔感のある男で、見栄えは良い。前を開けたレインコートの下に見える服装は、そのまま高級なフランス料理のレストランにでも行けるくらい、していた。ただ、彼は浅く腰掛け半分こちらに身を乗り出して、落ち着かないように、聞かないことまで話すものだから、結局風貌のまともさが、井戸の話の奇怪さを邪魔するまでではなかった。前のめりではあるが、まだ、猫背ではないだけ、幾分私よりマシなんだろう。


 そうだよ、僕の井戸は草原にあるんだ。腰くらいまで丈のある草がびっしり生えてる草原なんだけど、出かけるたびに服が引っ付き虫だらけになるから、堪り兼ねてさ、先週、朝から地面に登って、草むしりして小径を作ったんだ。だから君が来るときは、前までよりは来易いと思うけどね。


 私がノートの隅に、小さく「井戸」という漢字の二文字をぼんやりと書き留めるのを見て、彼はまた話し始めた。


 井戸に住むようになるまではね、穴っていうと底のことを思い浮かべていたんだけど。暗い洞穴だと思っていたんだ。でもやっぱりね、中に住んでみると井戸の底は穴って感じがしないんだよね、普通の空間って思っちゃうんだよなぁ。穴は、底にいる僕から見て遠く上にあるもんね。


 ひどく神妙な顔をして彼は相変わらず一人で話し続けていたが、用心深く喫煙室のガラスの引き戸が静かに開け閉めされる音、あるいは戸の開いた時に入って来た澄んだ空気の塊に気がついたか、そっと口を閉じ一瞥した。誰かを待っているのかもしれない。また向き直り、何もなかったかのように続ける。


 ぽっかり空いた井戸の口が、穴になるんだ。かと言って、その穴の向こうには暗闇もなければ、底もない、穴からは空だけが見える。太陽の光なんてのは、直接届くことがないんだよ、もちろん。熱帯なんかの井戸に住んだら、きっと正午に多少は底まで光が当たる時があるんだろうけどね、ここじゃ多少角度があるから、真夏でも、壁とかに当たってゆっくり一部分光はこちらに来るだけなんだよ。


 あなたは何をしに街へ来たのか、あなたの井戸のある原っぱはここから近いのか、それだけはどうにか尋ねた。他にも数え切れないほどの疑問が浮かんだが、ほとんどはそのまま消えていった。気になることは多すぎるものの、聞くほどのことなのか自分に問う、口を挟む隙を見つけようと構える、そう少し戸惑っただけで、何を尋ねようとしたかも、尋ねようとした理由も、すっかり見えなくなってしまう。


 とにかく、彼は、ここから井戸までの距離については、はっきりと言わず、ただ、原っぱに入ってから井戸に着くまでの道にまた草が生えても、服につく引っ付き虫はチクチクしない種類のイネ科のススキみたいなものだからあまり心配しないで良い、だんだん秋になっている証拠だから、と。

 また、来月の中頃、しっかり秋らしくなったら原いっぱいに濃い紅色の花が咲き始める、ということも話していた。彼はセリフのように沢山の言葉を一回に話す。それは私が相槌程度にしか話さないからなのか、それとも誰と話す時もそうなのか。

 最後に、僕がわざわざ街に出て来てるのは、時々は甘いお菓子が食べたくなるからなんだ、あとたまにとてつもなく誰かと話したくなる、こうなったらもう井戸では何も手につかないんだ、と彼は言い、安心したように息をしてからコーヒーを飲んだ。


 井戸の底で手につけなくてはいけない何があるというのだ、おかしな人は確かに世の中にはいるのだと私は、一つの流れのように降り続ける雨を見つめながら、黙っていた。また、ガラスの引き戸の開く静かな音がして、その方へ彼は今回も振り向いた。今度入って来たのは、焦げ茶のキャップを被った店員だった。モンブランを載せたトレーを持ってここまで歩いて来て、音を立てないでテーブルに置いて戻っていった。彼は、モンブランがテーブルに置かれる時、わざとらしく喜んだ。


 お菓子、そう言えば、ここのケーキは有名でしたっけ。


 チェーンの喫茶店みたいな装いだが、ケーキだけは値段も味も上品で有名だったと思い出した。この店には何度も来ていたが、アイスティー以外を注文したことはなかった。彼は、モンブランを口に入れ、口の横についたカケラを指で拭い、動物のようにその指を舐めた。美味そうに彼がものを食うのを見れば、ケーキを食べるために井戸から這い上がり街に出ることが正しいことのようにも思えた。


 わざわざ、街まで出てきてさ、まずいケーキを、食べるのは、だってバカじゃないか? 食ったこと、ないの? ふぅ、ひとつ買ってあげようか?


 結局、私は、井戸に住んでいるという知らない男にケーキをご馳走になり、雨の止むまで彼の話をずっと聞いていた。やっと、日の暮れた街を歩いて帰り始めて、公園のそばでツクツクボウシの鳴くのを聴いて、通り過ぎていく、あと何日かすれば涼しくなりそうな風に当たりながら、井戸のことを考えた。


 きっと井戸では、蝉の音は外でだけ響いているように聴こえるだろうし、風は大事な荷物を降ろすように、ゆっくり底まで来るのだろう。


 もし井戸の底に住むことになったら、虫除けであったり、大きめのバックパック、長靴、そういったアウトドア用の品をいくつか、準備しないといけないのだろうか。


 いくら考えてみても分からず、もう一度、井戸の底の光や音、香りを頭に浮かべて、今の空気と頭の中の井戸を比べたりしてみながら、一人歩いて家へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フーディ・ホーリィ メラー @borarasmerah

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る