記人──青年
目が覚めると、見知らぬ机に向かって座っていた。やけに傾斜がついた飴色の古ぼけた机である。机の上には細いペンとインク壷、黒檀に
カリカリとペンが紙を擦る音が周りから聞こえてくる。見回すと、十余人の男が古金の遠眼鏡を覗き込んで一心不乱に何かを書いていた。
「皆さん、何をしていらっしゃるのでしょう」
私は隣の男に話しかけた。男は深いワインレッドのインクで
──彼女は南の海で父と出逢った母のことを思ひ出していた
こう書くと、遠眼鏡を覗いたまま言った。
「新しい詩抄少女が来るんです、貴方は彼女を記さなければいけない」
望んでいた言葉ではない。しかし、記すという言葉が彼らの、そして私の本質であるような気がした。
「詩抄少女を、記す?」
男は
──彼女は思う
と書くと言った。
「この遠眼鏡に映る、一人の少女の全てを書くんです」
──彼女の思索を破る音がした
男は躊躇うことなく書いていく。
「少女が
──彼女の妹が玄関扉を
「全て記し終わったら……いえ、言うのは止めておきましょう」
──姉サン、
「眼鏡を覗きたくなるまで、そこらを歩いてなさい。暫くは立つこともできないから」
──埃に塗れた少女が息を弾ませ云つた──姉サン!
「そうですか」
私は彼の紙から目を逸らしギギと椅子を引いて立ち上がった。乳白色の床に僕の影が落ちる。上を見ると、柔らかな薄曇りの空であった。柱の一本も伸びていない。端はどうなっているのかと、机の間を縫って歩き出した。
──少女は大変に急いでおりました。
みかん色のインクで書いてある。
──「チエさんはどう思わっしゃる?」
くすんだ緑色で書いてある。
──コレコソガサウ! 彼女、イヤ彼ノ言葉デアツタ!
角の強い鮮やかな赤。
──
紙面に引っかかる宝貝の紫。
どことなく哀愁を帯びた色で、古めかしい言葉で物語が綴られていく。
「君、新しい記人かい?」
紫のインクの男がにっこり笑って言った。一等古ぼけて見える遠眼鏡は、象牙の筒に古金の金。神経質そうな線の細い手が別の生き物のように紙面を走る。
──病に怯えたる
「私、ですか」
「君以外に誰がいるというんだ」
男は少しムッとした様子で言った。
「ごめんなさい、シルシビトが私だとは思わなかったもので」
──処女
「そうか」
男は短く息を吐き、薄い唇を舐めた。
「記人とは、我々のことだ。誰かの命を記す、記人。もう君の仕事も始まる頃だから、ここの果てを見に行くなら急いだほうが良いだろう」
「はい、ありがとうございます」
「引き止めて悪かったね。じゃあ」
──錦の面影はや薄きになれたる。冬來
冬来たり。まさにその言葉がふさわしい天気だ。この天気は、あの鬱陶しい秋の長雨の頃に似ている。
ぼんやり歩いていると、突然地面が消えた。背中の側に白い壁がある。どうやら私は落ちたらしいぞと思っても後の祭り。浮遊感がざわりと這い登ってくる。絨毯のように広がる雲がどんどん近づいてくる。足が濡れる。体が濡れる。一面の霧。どこまでも続く霧。深い。深い。
夢から覚めたように霧が晴れた。私は白い地面の上にしっかりと立っていた。どうやらこの地面は、雲の中からにゅっと突き出た円柱らしい。眼下には素晴らしい雲海が広がっている。ずっと遠くの方に、何本も白い棒が見える。あちらの方から見たらこちらもああ見えるのだろう。
強い風が吹いた。ひゅうひゅうと鳴りながら吹き抜ける風に頭上の雲が流されていく。私の足はいつの間にか円の中心、自分の机の方に進んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます