誰かのいる朝
*****
――――最後に爺ちゃんに会ったのは、正月のムードが抜け始めた下旬に近い中旬の一月だったと思う。
消毒液の匂いが立ちこめるあの空間は、いつになっても得意になれなかった。
去年の春から夏にかけて入退院を繰り返し、いよいよ秋から入院しっぱなしだったのを覚えてる。
だから俺は大晦日も、正月も、爺ちゃんと一緒には過ごせなかった。
近所にいた友達一家が訪ねてくれて、お手伝いの浮谷さんもいてくれたから孤独ではなかったが――――だからこそ、申し訳なかった。
俺がそうして年を越している間に、ここで爺ちゃんは一人で
意を決して扉を開くと、何本か管が増えた爺ちゃんが、ベッドの上で身を起こしてこちらをじろりと睨んだ。
「杏矢か。……きちんと食べておるのか?」
爺ちゃんは、見舞いに来るたびに自身の体調を分かっていないみたいに、そんな事ばかりを言ってくる。
勉強はしているか、運動はしているか、食べているか、人付き合いを保っているか、部屋の掃除は怠るな、誰がいつ訪ねてきても良いようにな。
口うるさい、いつもならうざったく思ってしまいそうな小言だからこそ、こうなってしまってからは刺さるのだ。
「食ってるよ。爺ちゃんこそどうなんだよ、自分は」
「心配されるほど
「……問題なかったら入院してねぇだろ、
「そうとも言うな」
やり取り自体は和やかでも、爺ちゃんの表情は全然変わらない。
それどころか
ともあれ怒っている訳でない事は、分かる。
近くにあった椅子を足で引き寄せ、ベッドサイド、左手側に腰かける。
行儀の悪さを咎められるかと思ったが、爺ちゃんの切り出し方は違った。
「……それで、今日は何の用だ? 杏矢。部屋の掃除はきちんとしておろうな」
「してるってば。……何の用、って事もないじゃん。普通に見舞いだよ。何か食べたいものとかないの? 土産に買ってくるよ」
「いらん。先ほども申した通り、食事は摂れている。間食など大人げなし」
「古いな、おい……」
「左様、私は古いのだ。今さら新しくなどなれるものかよ。さぁ、帰って勉強でもしなさい。期末の
――――万事が万事この調子の人で、取りつくしまが全くないのだ。
枕元には、見ているだけで気が滅入ってきそうな分厚い古典純文学のハードカバーが三冊積まれている。
入院中によくもまぁそんな重たいモノを平気で読めるな、と思い――――あらためて、この爺ちゃんの胆力を尊敬した。
「……それより、なぁ、爺ちゃんさ」
「ふむ」
俺は、とっくに主治医から説明は受けていた。
もう――――覚悟をするべきだと。
爺ちゃんは、もう回復できない。今こうしていられるのもほんの小康状態に過ぎず、崖っぷちに指を引っかけているだけの状態だと。
そこから上がる事はもうできず、後は……いつ力尽きて落ちるか、だけだと。
でも、俺は――――認めたくなかったな。
この時訊こうと思ったのは、こうだった。
――――“爺ちゃん。死ぬの……負からないかな”。
だけど、どうしてもそれは訊けなかった。
訊けば爺ちゃんはあっさり正直に、自分の余命を教えてくれるだろう。
だから、俺は……訊けなかった。
それなのに、爺ちゃんの答えはこうだ。
「負からん。精進せい」
それきり、沈黙が病室を押し包む。
腰を上げかけた俺に、爺ちゃんはたった一言だけ、“希望”を言った。
「杏矢、お前に持ってきてほしいものはない。が……もう一度だけ、吸いたいな」
「……?」
窓の外を見やる爺ちゃんは、その時どんな目をしていたのか分からない。
煙草も吸わない人だったから――――きっと、“外の空気”のことだと俺はその時思った。
「……窓、開けようか?」
「…………いや、いい。ここでは……ないのだ」
「爺ちゃん?」
「さぁ、帰りなさい。浮谷さんによろしく。こんな場所に来る時間があるなら、勉学せよ」
「……爺ちゃんこそ、テスト終わるまで死ぬなよ。次はその点滴のチューブ、何本か減らしとけよな」
「生意気をぬかしよるわ、こまっしゃくれた、くそ
ドアを開けながらそんな応酬をした時、ようやく――――爺ちゃんの声が、弾んだ。
――――そんなのが、最後の会話だった。
*****
「いづっ……!」
脳天まで走る衝撃で目が覚めた。
爺ちゃんにでも引っぱたかれて文字通り叩き起こされたのかと思ったが違う。
一気に覚めた目に映ったのは、どアップの寝室の柱だった。
「……そう、だ。そうだった……昨日は……」
身体を起こして隣を見ると、怜の姿は無い。
代わりに畳まれた布団があるだけで、今は、いつものように俺一人寝室にいた。
改めて布団の位置を見てるといくらなんでも、我ながら滑稽なほど壁に寄せ過ぎだ。
窓の外の空は透き通るように晴れて、鮮やかな秋色の
鳥の声がまるで、雨と風ですっかり洗い流された空気の中をいつもより高らかに唄われているようで。
しゃっきりと冷えた、しかし布団にそこまで未練も感じない――――そんなすっきりとした、秋の朝だった。
気を張って寝たせいで凝り固まった体をほぐしながら階段を降りていくと、いい匂いが漂ってきて……腹が、きゅう、と鳴った。
味噌汁の香ばしい匂いと、魚を焼く匂い、炊き立ての米のそれにつられて台所まで歩くと――――
「おはよ、キョーヤ君。お腹すいたかい? もう少し待っててよ」
「ういす。……何か、手伝えるか?」
「いいよ、もうできるとこだからさ」
いったい、いつ目覚めたのか……怜はもう台所に立っていた。
碧さんの荷物から借りた白襦袢から着替え、真っ白いシャツに薄青い下着が透けてしまっていて思わず視線を下げる。
制服のスカートの下は裸足で――――夏を終えて陽射しを浴びていなかったせいで、眩しいほど白くて細い脚が伸びていて、妙に気恥ずかしくなり……視線を更に横へ逸らしてしまった。
「……何時に起きた?」
「ん? 秘密。ほらほら、居間で待ってて。朝ごはんにしようよ」
もうすっかり、勝手知ったる様子で怜は手際よく準備を進める。
そうまで言われては仕方ないから、一足早く居間に行き……数分してから朝食が出てきた。
「お待たせ。……ボク、ちょっと作り過ぎちゃったかな」
「いや……何か今日は妙に腹減ってるんだ。ありがとう、いただきます」
昨晩に引き続き――――今日の朝食も随分と豪勢だ。
白米と
何度か怜の弁当に入っていたのを見かけただけの、きれいに整えられた、見ているだけでも飽きない卵焼きに目を奪われた。
「……うち、卵焼き用のフライパンなんかなかったよな」
「ボクの家にも無いよ? フツーのフライパンで作ってる」
「マジか……いったいどうやって」
「そんな事より、食べようよ」
黄色を通りこして金色、焼きムラも全くない四切れの卵焼きにまず手が伸びた。
箸から伝わる、ふわりとした感触はまるで豆腐に近い。
一切れをさらに半分に割り、ご飯茶碗で受けるように口へ運ぶと――――口の中で溶けてしまった。
歯も、舌も使わず。
口の中でとろけた卵焼きが出汁の風味と砂糖の甘さが絡み合う濃厚な味を残して、泡のように消えてしまったのだ。
――――美味しい、なんてもんじゃない。
「……すげ……」
すごい、の一言だ。
「良かった、ほら……卵焼きって、結構こだわりが分かれるからさ。醤油かける人も多いじゃない?」
「これ……素人が作っちまっていい出来じゃないだろ……。料亭の味だぞ、たぶん」
一皿何千円、とか……そういうレベルの代物だ。
忘れかけていた白米を何口か食べると、小皿に盛られた“それ”を見つけた。
昨日、話題に上った――――ブロッコリーが、ほぼそのままの姿で、かつお節を振りかけられて鎮座している。
「……ブロッコリーか」
「まぁさ、騙されたと思って食べてみてよ。美味しくなかったらボクが食べるからさ」
怜が作ってくれた、とはいえ……正直、少し勇気がいる。
ガリガリした茎の食感と青臭さ、葉……なのか分からないけど、あのプチプチした部分も不気味で苦手なのだ。
勇気を振り絞るように箸で取り、口に放り込む。すると――――。
「……っ!? ……美味い……」
ゴマ油の匂いが鼻まで抜けて広がり、醤油と出汁の味が続き、かつお節の香りが更に連なる。
俺が嫌っていたあの青臭さもなければ、ガリガリした歯ごたえもない。
歯ごたえが無くなる寸前まで火が通って……それでいてすっきりと冷やされている。
ブロッコリーって……こんな美味しくなるのか!?
「中華風おひたしにしてみたんだ。キミの嫌いなものひとつやっつけられたね、ボクの勝ちっ」
目を
俺は、気付かないうちにひとつ、ふたつ、と更に――――“ブロッコリーの中華風おひたし”を頬張っていた。
箸が止まらない――――なんて、何年ぶりの事だったか分からない。
焼き鮭の火加減も丁度よく、味海苔もサッと炙ってあって……食卓にある全てが一工夫を加えられていて、まるで飽きが来ない。
昨日に引き続き、朝から二杯もおかわりをしてしまった。
*****
朝食を終えて淹れてくれたお茶を啜っていると、家の向かいにある電柱から、村役場の声が届く。
台風が去ったのだから、その後始末をせねばならないとの事だった。
屋根が飛ばされた農家が数件、倒木四か所、その他もろもろ十数件。
普通に学校に行っていた方がまだ楽だったかもしれない。
しかも、今日の補填は恐らく次の土曜が登校日になるはずだ。
この村では土曜日が隔週で半ドンになる理由のひとつが、どうやらそれらしい。
自然災害は珍しくとも、色々な怪異が出没した時には下校が繰り上げられて集団下校になる事もある。
外出自体が禁止になる日もあったりするし、そもそも小中学校では暗くなってからの外出を防ぐため、長くても五限までしかないからだ。
もっとも、この村の子供は逞しいから――――平気で日が暮れるまで遊ぶし、夜な夜な徘徊する器物破損常習破壊天使もいるけれど。
「……キョーヤ君。ボク……あのさ」
ちゃぶ台を挟んでいた怜が、おもむろに俺を呼んだ。
「ん」
「……ありがとう。嬉しかった。……ボクを見つけてくれて」
今さら――――じっと見つめて言われると、照れ臭さが募っていくばかり。
昨日は必死だった。
ずいぶん
しかも、昨日は――――!
「怜、その……あの……」
「……もう一回?」
「は?」
「……え、と……キ……」
「そこまでにしろ、朝っぱらから何してんだテメーラ」
「え!?」
戸口を見ると、ツナギの男が一人。その後ろに隠れるように、
柳と、八塩さんだった。
「いつ来た!?」
「たった今。……普段鳴らさないベルまで鳴らしてやったし、声もかけた、ノックもした。謝らないからな。……出る準備しろ、掃除に行くぞ。それとも五分ぐらい出てようか?」
「……すみません、すみません……! 電話、しようかと思ったんですけど……柳くんが、“近いし直接行った方が早い”って……!」
「もっと必死で止めてよ、
――――ともかく、賑やかなのはいい事だ……という事にしたい。
そんな事を考えつつ、俺は血が昇る顔を必死に逸らしながら、出掛ける準備を進める。
――――ただ、少しだけ。
もう少しだけ二人でいたかったと思ったのは、秘密……にもどうやらできないみたいだ。
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