第三章 神居村の嵐

ガキ大将の策略、懐かしい顔


*****


ギラギラした陽射しの中、必死で自転車を漕いでいた。

それでも全然、進んでいかなくて――――前に見える背中が、少しも大きくならない。


「遅いよ、キョーヤ! ちゃんと漕いでんの!?」

「待、って……って!」


 もちろん、漕いでいる。漕いでいるが――――まるで追い付かないのだ。

 疲れの溜まった足が重くなり、容赦なく刺さる陽射しが帽子越しに頭を茹で上がらせる。

 道路脇の田んぼで働いている人達からエールを貰うも、まるで耳に入らない。

 その声すら歪んでいくような感覚は、あまりに危なっかしくて――――よもやこれは、“悪夢”なんじゃないかとすら思えるくらいだ。

 手汗でべたべたになったハンドルが肌に貼り付く。自分の喘鳴が自分で聴こえる。心臓も裂けてしまいそうなほど打っていた。


 ――――何度めかになる。

 これは、“この村にいた頃の俺”の記憶だ。

 夢と記憶の違いは、すぐに分かる。すなわち、動けるか……動けないか。

 これは、後者だ。


「……なさけないなー、キョーヤ」


 サドルにまたがったまま足をつけ、かなり遅れて追い付いた俺を呆れて睨むのは――――またしても、昔の“リョウねぇ”。

 短パンに薄汚れたTシャツ一枚の、色気どころか可愛げすらない、一目でやんちゃだと分かる悪ガキの風情だ。

 腕も首から上も真っ赤に日焼けして、髪もまるで山猿みたいにボサボサに絡み合っているし……肘にはできたばかりのカサブタが二つもあり、あげく膝には絆創膏、スネには青アザまである。

 いったいどこでどんな荒っぽい遊びをしたらそうなるのか問い詰めたくなるようなボロボロのガキ大将姿は――――いつ見ても、あの“咲耶怜さくやりょう”と同一人物とは到底思えないほど強烈だ。


 この“記憶の再生”のたび、いつもいつもトラウマが増える。

 木登りの支えになってやれば背中にムカデが入り込むわ、田んぼからすくったカエルやらヤゴやらを投げてくるわ、ザリガニを顔に乗っけられるわ鼻を挟ませようとするわ、ヒマワリの茎でケツにフルスイングされて目の前に星が散るわ……やりたい放題、野放図そのものの“リョウ姉”の犠牲者はいつも俺だ。

 すわ何をされるか――――と身構えるのも、止むを得ない。


 ところが、今回は何もされなかった。

 珍しく……少しスピードを落とした咲耶を追っていくと、馴染みの駄菓子屋が見えてくる。

 埃臭い木の戸は、俺の知ってる今とほとんど変わらないが……店先に、古びた良く分からないガチャガチャの機械が二台。

 中身は果たしていつから入っているのか、日差しを浴び過ぎたカプセルが薄く曇っているのが覗けた。

 店番の婆ちゃんは、十年前だけあって少しだけ皺が少ない。

 座っている婆ちゃんの隣では、動き回れるようになったばかりの子猫が二匹――――サバトラとミケが、もつれてじゃれあっていた。

 猫じゃらしみたいに毛の逆立った長い尻尾のサバトラと、つむじ曲がりなカギ尻尾のミケは客も婆ちゃんも気にせず、寝技を掛け合う。

 飽きないし、ほんわかとしてくるような光景はいつまででも見ていられそうだ。

 子猫のうちは毛もまるでヤマアラシみたいに尖っていて、猫特有のふてぶてしさもまだない。


「はい、お婆ちゃん。これ、ちょーだい」

「あい。六十円な」


 俺が猫を見ている隙に、“リョウ姉”はさっさと勘定を済ませていた。

 不機嫌に足をパタパタさせる音が聴こえ、“俺”は弾かれたように、婆ちゃんと猫への挨拶もそこそこに戸口の外へ出た。


「ん!」


 すると、いきなり。

 いきなり――――胸の前にアイスキャンディが一本、差し出されていた。

 その片面はささくれたように割れた、淡い黄緑色の棒付きアイス。

 確か、つい最近販売中止になったとか聞いた事のある――――二つに割れる、ソーダ味のあれだ。


「え、リョウちゃん……いいの?」

「いい。お手伝いしてお小遣いもらったの。さっさと食べれば?」

「あ、ありがと……」


 自分とは思いたくないほど弱々しく礼を言うと、どっかりとふんぞり返って座る咲耶の隣に腰かけ、アイスを齧る。

 子供の口にはやや大きくて、齧れたのはほんの先端だ。

 それでも、暑い中を自転車で飛ばして煮えたぎるような汗をかいた体には、天の恵みのように思えた。


「あの、リョウ……姉。ほんとにいくの?」

「あー?」


 不機嫌そうな声、銜えたままのアイスはぼたぼたと垂れ落ちてTシャツにソーダ色の染みを作る。

 ますます……ますます、コイツがはたしていったい誰の昔の姿なのか、分からなくなってきた。


「行くって言ってんでしょ。別にこわいとこ行くわけじゃないじゃん。覚悟しなよ」

「でも、なんで……そんなところに行くの」

「……ボク、ボール無くしちゃったんだよ」

「ボール?」

「ボール。ほら……あれ、失くしたの四個目だからもうしばらく買ってもらえないの。……そしたら、あそこ。神居……きた? しょうがっこう? あそこ、もうやってないんでしょ? なら、体育館に……使ってないボール、ないかな」

「だ、ダメだよダメ、リョウちゃん! それ、ドロ――――」

「しーーーー!」


 もちろん、言うまでも無く。

 昔の俺がツッコミかけた事を継ぎ足せば……それはもちろん、れっきとした犯罪だ。

 保存され管理が入っているような廃校に踏み入り、備品――――もっともまだあるとすればだが、それを勝手に持ちだす、なんてキツく叱られるしヘタすりゃ外出禁止令が出る。

 そんな事を一生懸命に“昔の俺”がたどたどしく説明するも、焼け石に水。

 食べ終わったアイス棒をがしがし噛み締め、ヘチマみたいになったのをゴミ箱にぶちこみ、咲耶は立ち上がった。


「……ボク、こーいう時どうすればいいかしってる。映画で見たの」

「?」


 まさか――――このパターンって。


「今、僕がおごったアイス。おいしかった? 食べたよね?」


 隣の婆ちゃんにやられたあれを――――コイツ、目撃までさせて俺を取り込みやがった!


「……おとなしく言う事きいたほうがいいと思うなー」

「違う! オレ、止めてるからな!?」

「そう? こーんな風になかよくアイス食べてるの見られてるんだよ? だいじょーぶ、ボクは何も言わないから。キョーヤも来てくれるよね?」

「……!」


 伝わってくる歯噛みする音、左右にぶれる泳ぐ視線。ひっどいな……毎回、毎回。

 まさかこんな手まで使うなんて……いったいどんなクソガキなんだ、昔の咲耶!


「一緒に来てくれるよね?」


 得意げに、しかし静かに笑うその顔は。

 それでもやっぱり“咲耶怜”だったのが、今の俺には悔しく思う。



*****


 神居北小学校は、柳と訪れた時とそう変わらない。

 時の刻みを止めた旧校は、保存管理されているのもあって十年や二十年では変わるものでもない。

 強いて言えば、いくつかモノの配置が違うのと……何より今は、日中だという事もあって明るいし、遠くからは耕運機のエンジン音が聴こえてきていた。

 あの山奥の――――おそらく、少し先に訪れる廃校舎と違って生活の匂いもするし、恐らく危険はないのだろう。

 とはいえ、電気も灯っていない木造校舎はやはり暗く、物音もせず、子供二人で歩くには広すぎ、深すぎ、今の俺なら跳べば手をつけられそうな天井も教会のように高く見えた。


「ねぇ、リョウねぇ。ボール、なくしたって……何したの?」


 薄暗い廊下を歩く不安を誤魔化すように、“俺”は幼い咲耶に訊ねた。


「この間、人面犬出たでしょ? すばしっこくて中々倒せなかったって。西地区のお爺ちゃんが鉄砲持ちだそうとした」

「う、うん……まさか、投げつけたの!?」

「違うよ。蹴った。蹴ってぶつけて、やっつけた。そしたら暗くなっちゃってて、見つからなかったんだ。お父さんに怒られた」


 西地区の……と聞いて、やりかねない人の顔もいくつか浮かんだ。

 浮かんだ顔が一人じゃないあたり――――この村は、やはり一味違うと噛み締めた。

 そして咲耶のかつてのやんちゃぶりを示すエピソードも、また増える。


「……体育館、こっちだって」

「お、何何キョーヤ。すっかりやる気になっちゃったワケ?」

「早く済ませて帰りたいんだってば!」

「いいじゃーん。折角だし色々見てこーよ。ね?」


 体育館の方向を指し示しているのに、逆方向に歩いて……あまつ、階段まで口笛を吹いて登っていく始末。

 ぎしり、ぎしり、と床板の奏でる音も気にせず、小さな足が二階へ向けて進む。


「キョーヤ、知ってるー? またヤナギが三年生と喧嘩したんだって」

「え……? 前の水曜日の事?」

「違う違う。その後。昨日だってさ……ま、ボクも混ざったんだけどさ」

「な、何で!?」

「何でって、あいつら……またサワコの事からかったんだよ。もう泣かすしかないじゃん、そんなの」


 そんな、女の子らしからぬ事をさらっと言いながら歩いて行く咲耶は、通りすぎる教室ひとつひとつを覗き込みながら、大股で歩いて行く。

 どこかの教室にボールでも展示していないか、探しているのだろう。

 見つかったらどうなるのか――――なんて、考えない。

 そもそもカバンも無しで、どうやってボールなんか持って帰る?

 ――――いや多分、俺が持たされるんだろう。間違いなく、俺が持たされて帰るんだろう。


 そんな事を考えてついていくと、後ろから――――足音がかすかに聴こえた。


「……キョーヤ?」

「うん。……聴こえた」

「ビビってないよね?」


 振り向いても、何も見えない。

 反響だ、と断じるにはその靴音は硬い。俺も咲耶も履いているのはスニーカーだ。

 ゴトリ、ゴトリ、と音を立てるはずもない。


 どちらともなく、すぐ近くにあった職員室を目指してゆっくり戸を開ける。

 丸っきり取ってあった職員室にはコーヒーの匂いも、乱雑な書類の山も、キャビネットいっぱいのファイルもなかったものの――――しみ付いただろうタバコの匂いは、少し残る。

 喫煙所の設置、分煙も進んでなかった時代だ。自分の机で平気でタバコを吸う教員だらけで、問題視もされなかった時代、タバコの匂いが木の机にしみ付いているのだろう。


 ゆっくりと、しかし確実に靴音は近づいてくる。

 硬く、重く、整然と――――悠然と、真っ直ぐに。

 俺と咲耶がひとつの机の下に身を押し込める。

 すぐ間近にある咲耶の顔は少し怯え――――というよりは、興奮しているようにも見えた。

 まるで、隠れるスリルを楽しんでいるみたいに。

 足音の主が何であれ、あまり面白い事にはならない。

 おなじみの怪異であっても、見回りに来た大人であっても。

 咲耶はニヤつきながら、漏れる笑いを隠さず――――俺は、必死でそれをたしなめる。


「……ク、ククッ……!」

「だめ、だよ……リョウちゃん……! 静かに、静かにして!」

「だ、だ……って……フフッ……!」


 やがて、足音の主が職員室の戸を開き、侵入してくる。

 より近づいてようやく、足音の種類が分かる。間違いなく、履いているのは厚く硬いブーツだ。


 入り口で立ち止まったそれは、しばし逡巡するように深く息をつき、缶のペン立てから何かを抜き出したようだ。


 ――――じゃきん。じゃきん。じゃきん。じゃきん。


 それは、身を隠す前にちらりと見た――――机の上の、長く厚いハサミの音だ。

 留め金が軋んでいるのか、澄んでいない耳障りな音。

 それを聴くと、俺は身を強張らせ――――直後に前に目をやれば、先ほどまでの気丈さはウソのように、咲耶は青ざめていた。


 もう、声は出せない。

 ひそひそ声でさえ、出せば見つかる。


 足音は、一度反対側へ遠ざかり――――そして、引き返して左右に広がる職員室のこちら側へ向かってくる。

 机の中を縫うようにくまなく、ハサミの音を高らかに響かせながら。

 ブーツの足音は更に大きく、床を踏み抜かんとばかりに。


 目の前には、段々、青ざめ――――震えていく、咲耶の姿がある。

 “俺”に出来るのは、その手をぎゅっと握り締めて息を殺す事だけだった。

 汗ばんでにちゃにちゃと触れ合い、来る前に食べたアイスが溶け残ってべたべたしていた。

 それでも、――――“この時の俺”は、その手を決して離してはいけないのだと分かっていたようで。

 間近に足音とハサミの音が迫っても、決して離さなかった。


 身を隠している机の前で、足音は止まる。

 ゆっくり、首を回す事さえためらって目だけを動かしそちらを見る。

 そこには――――編み上げのブーツと、“袴”の裾が見える。

 “今の俺”は、それを知っていた。


「……悪いわらべは……口を裂いて、しまおうか……」


 もう――――俺も、目の前の咲耶も、分かった。


「見つけじゃ。とっとと出てこんか、悪たれどもめ。お見通しじゃよ」


 覗き込んできたのは――――丸メガネに黒髪、着物にブーツのハイカラ姿の馴染んだ顔。

 “碧さん”が、俺の知っている姿とまるきり変わらず。



*****


「別に立ち入り禁止じゃないがの……ここは童の遊び場ではないぞ、お前達。何ぞ目当てでもあったのかや」

「え、いや……入ってみたく、なったんです。な、リョウ姉」


 タチの悪すぎる演技を終えて、碧さんはペン立てにハサミをしまって俺達二人に説教をしているところだった。

 見れば、見るほど――――今と、変わらない。

 風貌は二十代前半のまま、口調も、着こなしも、立ち振る舞いも、何一つ変わってない――――いつもの碧さんだ。


「あの、碧おねーちゃんは何でいるんですか!?」

「おう、何……少し懐かしくなっての。見に来たいものがあったのじゃ。折角だから、主らも見るかえ。特にほれ、杏矢よ。……見た方が良いぞ、お主は」


 何が何だか分からぬまま、廊下へ連れて行かれる。

 少し歩いた廊下には、壁に恐らく歴代の卒業生の写真が数十枚に渡り飾られていた。


「ほれ、見えるか? 杏矢よ。……どれかが…………じゃ。分かるか?」


 促され、その一枚に目を向ける。



*****


 目が覚めたのは、そこで……だった。

 肝心の部分が何一つ見られ無いまま、俺は残酷に引っ張られ、生殺しのまま朝を迎えた。

 いつものように準備を整え、今日は……いつものようにではなく、自分から家を出て、学校から反対の方角へ歩いた。


 碧さんに顛末を聞いて、ひとつ約束を咲耶と交わした。

 今までは咲耶が俺の家まで迎えに来てくれていたが、しばらくは、俺が咲耶を送り迎えする事に決めた。

 咲耶にあの力が取り上げられた以上は、一人で出歩かせる訳には決していかない。

 言葉にすると陳腐だが……俺は、咲耶を、守りたい。


 いつもより早い時間、いつもより寒い時間に出て、咲耶の家のある神居神宮敷地を目指し、未だ朝ぼらけの空を眺めながら、歩く。


 やがて――――石段の上、鳥居に背を預けるように立っている咲耶が見えた。

 咲耶も俺が見えたのか、軽く手を上げ、笑いかけながら下りてくる。


「おはよう、キョーヤ君。ごめんね……朝早くに」

「いいよ。俺が勝手にやってる事だから。……それとな」

「?」


 ――――落とし前だ。


「え、っ……痛い! ちょ……何!? なんでチョップするの、キョーヤ君!?」

「少し気が晴れたな。心配するなよ、あの時のアイスの分、ちゃんと加減したからな」

「……え? え?」


 ハメられた分は、十年越しで今、やり返した。

 何が何だか分からないままの咲耶を隣に歩かせ、今度は学校へ向けて歩く。

 それにしても……本当にこいつ、別人じゃないだろうな?


 そして、疑問と、解決するべきものがまた一つ増えた。

 あの十年前。

 慌ただしくて見られなかった神居北小で、俺は――――いったい、何を見た?


 疑問を解消したいなら、手はただ一つ。

 ――――もう一度、行くしかない。


 神居北小学校、その残滓へ。








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