【特別書き下ろし短編】魔法卿城の優しい嘘 銀の執事と緋の名前
和知杏佳/角川ビーンズ文庫
第1話 小さな庭で ジョンの場合
「少し、敷地内の見回りをしてきます」
ジョンがそう告げると、彼の主は少し首を傾げてから頷いた。
「よろしく頼むよ。特に君の手を借りる急ぎの仕事はないから、ゆっくり行っておいで」
子爵位を持つこの城の主、コーネリアス・エリオット・ブロワ。ジョンの主人である彼は、この街の外では「
「そう時間はかかりませんので、すぐ戻ります。御用があれば……」
その言葉はコーネリアスの呆れたような笑顔と声に
「大丈夫。僕のことは気にしなくていいから、ほら、行っておいで」
わずかに頭を下げて、コーネリアスの私室を出た。
短く降った雨の後は、草木が水滴をまとっている。
歩く度、背の低い草からは水滴が落ち、時にぱらぱらと音を立て、あるいは靴や裾を濡らした。
それを一向に気にかけない速度で、ジョンは歩いていく。急ぐわけでも、目的地があるわけでもない。本当はただ、体を動かしたい気分だった。
敷地内をひたすら歩き回る。コーネリアスに見回りをしてくると断って出てきた手前、一応異変がないかも気にかけてはいる。
コーネリアスの所有する土地は、城は小さいが城門の内側はそれなりに広く、動くうちに多少気分が晴れてきた。
――別に、気が
頭の中で、ゆっくりと言葉を切りながら考える。思考するときはどうしても口調が粗野になることがある。
幼いころは、あまり思い出したくない環境に数年いた。そこでよくない言葉遣いの基礎を
木のそばでふと立ち止まる。
城の同僚たち、特にその中の一人について考えていたら、また心がもやもやとしてきた。
――また、笑わねぇかな。
あぁ、また言葉が荒くなった、とジョンは軽く眉を寄せる。
この城で一番新参のメイド、ジェーンのことを考えていた。
黒くてさらさらした髪の、細身の少女だ。派手さはないがすっきりとした顔だちをしていた。
――それで、笑うと……、
ジェーンの笑顔を思い出すと、顔や目元が熱くなってきて、ジョンは憤然と歩き出した。
近頃、どうもジェーンとうまく接することが出来ない。今まで、笑いかけられれば笑顔を返し、そつのない言動をするくらいなんでもなかったのに、ジェーンの笑顔を見ると、なんだか恥ずかしくて表情さえ作れず、むっつりと押し黙って目を逸らしてしまうばかりだった。
それなのに、また笑わないかと気になって仕方がないのだ。
気づけば、敷地の奥の庭へと向かっていた。
古くからある庭は、時折庭師のブルーノが手入れに訪れるくらいで、いつも
静かな庭の中に立ち、しばし俯く。ここには、草木の他は、葉から滴が落ちるわずかな音と、花の匂いがあるだけだ。それだけを確かめるように耳を澄ませて呼吸をしていたら、少しずつ落ち着いてきた。
ふと上を見ると、青い空がのぞき始めている。
微かな物音に目を向けると、たくさんの荷物が入った籠を抱えた人影が立っていた。
「……ジェーン」
何故ここにいるのかと驚いた後で、ジェーンの頭の上に目が止まり、思わず笑ってしまった。
「お前……」
ジェーンに近づいて、頭の上に載っている大きな葉を取ってやる。
「気づかなかったのか?」
取り去った葉を指先で回すと、ジェーンは薄く頬を染めた。
「冷たいとは思ったけど、水滴かなって……」
この大きさで気づかなかったのかと思うと、堪えきれずに声を出して笑ってしまう。
すると、ジェーンもつられたように笑い出した。
――笑った。
束の間目を奪われて、またいつものように目を逸らしてしまう。ジョンが目を逸らしてしまったせいか、ジェーンは慌てたようにジョンに声をかける。
「あ、あのね……。これ、コーネリアス様から。あと、これはニコルからで、あと、こっちはパティさん。きっと、コーネリアス様が食べる前に、ジョンに味を見て欲しいってことじゃないかと思うんだけど」
そう言われて、差し出された籠には、パンや飲み物の瓶、ジャム、食器などが入っていた。敷物と紙片も受け取り、紙片を開く。
――ジョン、君に必要な時間を届けます。きっと増えてるだろう籠の中身が空になるまで、戻って来ちゃ駄目だよ。
無意識に表情が歪む。「必要な時間」というのは、これを食べて休憩することではないだろう。部屋に置いておけば済むものを、わざわざ届けさせたのは、これを持ってきた人物と、時間を過ごせということではないだろうか。
見回りに出ていると知っていながら、すぐにジェーンを寄越したことからも、コーネリアスの意図は察せられた。
ちらりとジェーンを盗み見て、ベンチに敷物と籠を置く。腰掛けて籠の中身を改めて見ると、パンも、カップも二つずつあった。ジャムも、ジェーンの好きなものが入っているし、敷物もジョン一人が使うには大きい。
コーネリアスだけでなく、ともに暮らす城の仲間たちにまでこういう気の回し方をされるのは、あまりに気恥ずかしく、ジョンは一人赤くなった。幸いと言っていいのは、ジェーンが皆の意図に気づいていなさそうな所だ。普段は聡いのに、不思議なほど鈍いところがある。
「じゃあ、私は戻るね」
「ジェーン」
「……俺一人だと、多すぎる。その、時間があるなら、ジェーンも」
ジェーンは頷いて、ベンチにそっと腰かけた。
先ほど、自分につられるように笑ったジェーンを思い出し、ちらりとジェーンを見る。目があったジェーンに、いつものように上手くできていたかはわからないが、ほほ笑みかけた。
それを見て、ジェーンもふわりと笑う。
――こんなに、簡単なのかよ。
また言葉が、と心の中で自分を叱責する。
ジェーンの笑顔が見たいような、しかしそれで自分がうまく振る舞えないことがもどかしいような、もやもやする気持ちは、消えていた。
自分が笑いかけたことで、当たり前のようにジェーンが笑顔を返してくれる。それがただ、
――嬉しい。
さっきまで静かだったはずの庭は、花は鮮やかに見えるし、濡れているせいかどこもかしこも光って見えた。あまりにきれいで落ち着かないのに、まだここにいたい。もう一人座っている、このベンチに。
落ち着かない気持ちはそのままにして、ジェーンに飲み物とパンを手渡す。
水滴で草花がきらきらと光る小さな庭では、二人のささやかな声と笑いがしばらく続いた。
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