望郷…ナーガと呼ばれた男の物語
静葉
序
宿屋を兼ねたその酒場には、カウンターに腰掛けたその男の他にも多くの客が見受けられる。
この宿は、仕入れている酒もさることながら飯もすこぶる評判がいい。そのため、旅人や商人のみならず、訓練を終えた若い兵士、幼い子供を連れた家族、若い男女など、実に多彩な顔ぶれが、それぞれの卓で、思い思いの料理と酒を楽んでいる。
まだ日が落ちて間もないにもかかわらず、すでに卓の半分ほどが埋められている。あとしばらくすると、店の中の喧噪もさらに大きくなるだろう。
そんな店の中にあって、男は、カウンターの隅にただ一人座り、ちびりとエールに口をつけ、…そもそもエールというものは、一気に飲み干してこそうまく感じるものだというのに…とうに炭酸の抜けたエールを再び口に少しだけ含み、静かにジョッキを降ろしては、再びため息をつく。
徐々に騒がしくなっていくその酒場の中にあって、その男の周りにのみ、静寂が支配していた。
男がこの宿に身を寄せるようになってから半年が過ぎていた。
酒場のなじみでもあった小隊長からの紹介により、ここに身を寄せるようになったその男。
身なりも、雰囲気も、この国のみならず周辺諸国の者達からしても異質であった。昔なじみでさえなければ、身元は保証するからとのその小隊長という身分の者からの嘆願であったとしても、この宿に男を受け入れることは無かっただろう。
はじめてこの宿を訪れた時のその男。歳の頃は、おそらく三十路は過ぎている。細い切れ長の黒い瞳。すらりとした体躯。黒い髪を頭頂のみ剃り上げて奇妙な形でひもで結び整え、見たこともないゆったりとした衣服に身を包み、腰には二本の、剣、というには細長くわずかに湾曲した形状の、それぞれ長さの異なる、見慣れない剣を腰帯に差していた。
今でこそ、この町でも一般的な衣服を身にまとい、また頭髪も短く整えてはいるが、腰帯に帯剣という出で立ちも、そして男から感じる独特の雰囲気も以前と何ら変わらない。
宿というものは、大部屋で、見ず知らずの者同士が同じ部屋で寝泊まりするのが一般的である。たまたま同室となった者同士で和気藹々と酒を酌み交わすことも珍しくはない。
その上で、この宿には珍しく小部屋が用意されていることが、この国の言葉にまだ不慣れなこの男が身を寄せるに相応しい。
他の客と揉め事を起こさず、金の払いも問題なく。ごくたまに仕事として数日、長くて十日ほど空けることもあるが、たとえ不在であったとしても、宿代は前金で、それもあらかじめ多めに落とし、男はその部屋を常に抑えている。
客としては、何の問題もない。
そう、何の問題もないのだ。
そればかりか、おそらく異国の作法もあるのだろう、些細な物事でも、言葉そのものはたどたどしくはあるが感謝の意を述べるその男の立ち居振る舞い。主人が男を警戒しなくなるのに、そう時間はかからなかった。
だが、それでも。
男には、近寄りがたい雰囲気が常に漂っていた。
宿で働く誰もが、軽い挨拶程度以外に会話を交わすことなく、男が何者なのか、それを知ろうともしなかった。それは、再び訪れることのない客を多く相手にしてきた宿としての、当然の流儀でもあるのだが。
「やはり、苦い。」
ぽつりと小さく、誰が聞くでもなく、男が発した言葉。
この国で使われているものでも、また周辺諸国のものとも違う、その男しか理解できない言葉。
ことりと置かれたジョッキには、泡の消えたエールが残り半分ほど。そして焼いた肉や付け合わせの野菜が盛られた皿が一皿だけ、その皿も男の元に届けられてからずいぶん時間が過ぎ、手つかずのまま冷めている。
いつもなら、出された料理は丁寧に綺麗に平らげ、何かの宗教儀式なのだろう両掌をあわせて目を閉じて何かをつぶやき、宿主に感謝の言葉をかけて部屋に引きあげているのだが。
そもそも、男が酒を飲むことは、これまで無かったのだ。
だからこそ、その男の、いつもと違うその態度が気になる。
決して出された料理にいまだ手をつけていないことに腹を立てているわけではない。今日に限って、明らかに様子が違う。
そう。今日に限って、どことなく、弱々しく思う。
だが。
まあ、そんな日もあるわな。
主人は、そんな男の様子をちらりと見ると、一度に大量に入った注文を片付けにかかるのであった。
ナーガ。
ある伝承では、上半身は人間、下半身は蛇という姿であるとされるという。
ある伝承では、平たな頭の大蛇そのものであるとされるという。
ある伝承では、人に化け、人の言葉を理解し、人の血と精気を糧とするという。
ある伝承では、女しか生まれず、人間の男から受けた精にのみ子を為すという。
そうした異形の者の伝承は、当然ながら吟遊詩人や民間伝承により生み出されたものである。ドラゴンやゴブリンといった魔物もまた然り。
物語の上でのみ存在する物の怪。
この国の言葉では、彼の名は伝わりづらい。
そこで彼の名と、蛇のような立ち居振る舞いと鋭い眼光から、いつしかナーガと呼ばれるようになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます