悲しみや痛みを

たった一編の小説との出逢いが人生を大きく変えてしまうこともある。アオは自らそれを経験した。だから自分もいつかそんな小説が書ければと思ったというのもあった。


けれど、両親や兄はアオのそんな想いを踏みにじった。アオに大切なものを気付かせてくれた小説というもの自体を馬鹿にし、蔑んだ。だから許せないというのもある。


自分が大切に想うものを踏みにじられる痛みをそれによって知った。ゆえに<仮面ラ〇ダー>の一件でも、


『こんなものは<仮面ラ〇ダー>じゃない!!』


と言い張った同好の士の気持ちも想像できないわけじゃなかった。彼にとっては大切にしてきた<仮面ラ〇ダー>を穢された気がしたのだろう。


しかしだからといって他人が大切にしているものを、面白いと感じたものを蔑ろにしていいわけじゃない。自分がされて悲しかったこと辛かったことを他人にはしていいというわけじゃない。そんなことをしているから疎まれるのだ。


そうして他人から疎まれて、それで、


『自分は虐げられている! 人に認めてもらえてない!』


などと、ただのマッチポンプではないだろうか。


例のアニメの騒動にしてもアオにとっては苦々しい思いしかなかった。他人から疎まれるようなことを互いにして、そして双方とも被害者面をしているのだから。


そういういざこざを<他山の石>として教訓にできる姿勢というのも、あきらやこれから生まれてくるさくらの子供に示したいと思っていた。


洸もさくらの子も、ウェアウルフやダンピールといった、今の人間社会ではその存在を認められておらず、迫害される可能性が高い存在だ。さりとてそれを理由に人間に対して攻撃的になればそれこそ害虫や害獣のように排除の対象になってしまう。


『やられたらやり返す』


では、かえって自らを追い詰めることもあるのだと、教えてあげたい。


今ではアオも、自身の作品をアンチからいくらボロクソに叩かれようとも、


『やられたらやり返す』


とは思わない。


その一方で、他の創作者の作品が貶されるのは辛いし悲しかった。自分のそれより何が面白いのか理解できない作品が高く評価されることに対しては忸怩たる思いもあるものの、そういうのは自らを高めていくモチベーションにすればいいだけで、他人の作品を貶すことで相対的に自分の作品を持ち上げようとする必要も感じていない。


自分にとっては面白くないもの、不愉快なものも、それを面白いと感じる人間にとっては大切なものなのだ。


<響○>を『あんなものは仮面ラ○ダーじゃない!』と貶された時の悲しみや痛みを忘れたくなかったのだった。


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