何かの間違いで

そんな会話を交わしながら、アオとミハエルはいかにも、


『引っ越ししたばかりで食事の用意もできないので弁当を買いに来ました』


的な感じで近くのコンビニで弁当とミネラルウォーターを買い、部屋へと戻った。


マンションの前で呆然と立ち尽くす女性を残して。


「アゼルバイジャン……? 彼が……? 帰っちゃうってこと……」


女性が震える声でそう呟いたのが、ミハエルには聞こえていた。


完全に狙い通りであった。


しかしもちろん、これだけではない。これで諦めるとは思っていない。


事実、女性は、気を取り直したかのようにまた部屋の前に来て、部屋の中の音を聞こうとでもいうのか、聞き耳を立てるような仕草をしていたのだ。


『何かの間違いであってほしい。いや、きっと間違いだ……!』


と自らに言い聞かせているのだろう。その確証を得る為にそのようなことをしていると思われる。


そんな気配ももちろんミハエルには察知されていた。


だから、さすがに聞こえないとは思いつつも念の為に、


「荷物の用意はできた? 忘れ物はない? パスポートは? トラベラーズチェックは?」


とアオに訊いてもらった。


「うん。大丈夫。明日は八時には出発だから、今日は早めに休もう」


そうして二人は実際に早々に休むことにした。


けれど、女性は帰ることなく非常階段近くに身を隠すようにして監視を続ける。はっきりしたことを確認するまでは帰れないのだろう。


だから待った。早春の夜の寒さすら彼女の執念を折ることはできなかった。


待って、待って、待ち続けて、ついに夜が明けてしまった。


そして朝、まるで監視カメラのように一点を凝視していた女性の視線の前で、ドアが開いた。


その陰から出てきたのは、フードを目深にかぶり、大きなスーツケースを押すミハエルと、アオだった。


「じゃ、行こうか」


アオに促され、ミハエルが頷いてエレベーターへと歩いて行く。


ストーカーの女性は、夜の冷気に固まった体を強引に動かして、何食わぬ顔で一緒にエレベーターに乗った。しかしその顔は、明らかに尋常なそれではなかった。真っ黒なクマが浮かび、頬はこけ、さながら幽鬼のようでさえあった。


そんな女性の様子をちらりと見て、ミハエルはやはり悲しそうな顔になる。


『どうしてそこまでするの……?』


問うても無駄なのは分かっていても、心の中で問わずにはいられない。


それでもタクシーと電車を乗り継いで、国際空港へと向かう。


女性も二人の後をつけてくる。


本当に何という執念か。


だが、女性としても引っ込みがつかないのだろう。自らの中ではっきりとさせなければ、収まらないのだと思われる。


そのために、アオとミハエルは行動しているのだった。


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