小瓶の月
気付けばいつもひとりだった。ぽっかり空いた野原の真ん中で、森の木漏れ日の中で、うたの中で。記憶を辿ると静かな場所に出る。無音。鳥は囀り草木がざわめく、ひとが語る。音は遠く、水に沈み、満たされて、静かな場所に落ちていく。丸くなって、月を想う。
「朝だよ」
朝も夜も無い日々の中で声がする。それで私は目を覚ます。日が昇ったよと起こしてくれる。ならば起きようか。朝とはそういったもの。
「おはよう」
「おはよう、兄さん」
繰り返す。繰り返すことは当たり前で、失うまで気付かない。私は朝を一度失って、朝も夜もさまよって、そんな記憶には丁寧に蓋をして、ぼんやりと日々を過ごし、繰り返しの中で漂うことにした。
「挨拶をしてから布団に潜りこまないで」
光が眩しいから今日は晴れだ。気持ちがいいからもう一眠りしたい。布団をかぶると兄さんがベッドに座り朝ごはんの予定を並べる。お腹が空いていることに気付く。
「では特別に、果物の砂糖漬けも出してみよう」
目が覚めたのでベッドから抜け出し、支度を始める。兄さんがゆっくりと階下へ降りていく。朝食は二人で作る。顔を洗って、庭の畑からハーブと少しの野菜を摘んで、野菜を洗って、台所へ。やっぱり今日は晴れ。
兄さんは火を起こすのが上手い。私よりもずっと早く大きな火を作る。「火を扱うのは得意じゃないんだけれどね」とは言うものの、風を指揮する姿は魔法使い。
「風の歌が聞こえるわ」
「ならば良い魔法使いになれるよ」
私たちは魔法を失くしてしまったけれど、兄さんがそう言うならば、なれそうな気がする。
「昼過ぎになると天気が崩れそうだよ」
そうなんだ。早めに森に入って薬草を集めて来よう。
籠を抱え、森に入って風を呼ぶ。返事はない。兄さんはたまに風と話をして、森の様子を聞いているみたい。風は歌う。風の言葉で歌う。私は風の言葉を知らないけれど、彼らの歌がすき。
雨の前に現れる虫が飛んでいる。空気が温い。水の中を泳ぐようにして進む。森での薬草と食材取りは日課で、昨日は西の森、今日は北の森に入る。街は東側にあって、兄さんは薬草や薬を持っていき、食材と交換して来る。たまにもっと遠い街に行くみたいで、何日も戻らないこともある。遠くから戻って来た兄さんはとても疲れていて、ひらひらとどこかに飛んでいってしまいそうな気がする。そんな兄さんを、繋ぎ止めてはいけないのだけれど、たっぷり花を使ったお茶をポットに入れて、暖炉の前で夜遅くまでお喋りする。私もたまにどこかに行きたくなる。ひらひらと、木の葉のように。風に乗って、地面に落ちて、じっとしていたくなる。私はあまり街に行かない。本はすき。干した果物もすき。お腹が空いたので木の実を探してつまむ。木の実を探す間に足りないと言っていた薬草を見つけたから摘んでいく。ずいぶんたくさん生えていた。動いたから体が火照る。革手袋を外した。川に出て、瓶に水を汲む。半分ほど一息に飲んで、継ぎ足す。ぽつり、水滴が垂れたと思って手元を見る。ぽつり。頭の上に落ちる。雨が降ってきた。あっという間に森が煙る。雨が駆け回っている。
「参ったわ」
大きな葉を傘にするけれど、雨粒が跳ね、木の葉から飛び散り、泥を叩くので、すぐにずぶ濡れになった。家まで距離があって、雨の中を帰るにはあまりに遠くて、木の葉みたいに地面にくっついてみた。雨が背中を叩く。自分の輪郭がわかる。雨粒は冷たくて、体は熱を持っていることがわかる。地面や草に落ちた雫は跳ねて分裂し、もっと小さくなって星に染み込んでいく。私の体も冷たくなってきて、雨に叩かれて、きっと幾つにも分割されて星に染み込むんだ。とても寒い。
お昼までに戻るつもりが、道草を食ってしまった。兄さんは放っておくとご飯を食べないから、一緒に準備することにしているのだ。ご飯を食べなくて平気なのだろうか。お腹の虫の声を聞いたことがない。虫を飼っていないから、お腹が空かないのかもしれない。でも、ご飯は美味しいと言って食べるから、鳴かない虫を飼っているんだな。蝶々だとか。私がこのまま寝転んでいると、兄さんはいつまでもご飯を食べない。それはいけない。日々は繰り返すのだ。明日を迎えるために、今日のご飯を食べなくては。起き上がり、籠を抱えて家に戻る。川を辿れば家の近くに出るから迷わない。ごうごうと雨が鳴る。体が寒いから雨音に耳を傾ける気にはなれない。降ってくる雨粒は数えきれなくて重いから、座り込んでしまいたくなる。進むしかないから、前に進む。とても寒い。雨の中にくっきりと白い影が浮かぶ。手を振っている。
「兄さん」
きっと兄さんも私を呼んでくれているけれど、雨音にかき消されて、互いの声は届かない。走ってきた兄さんは、籠を受け取り、私に合羽を被せた。抱え上げてくるくると回り、また家へと走った。
家の中は暖まっていた。暖炉に薪を足して空気を送り込み、私を火の前に座らせると家の中を馳け廻る。
タオルと着替え、手桶と薬缶とパン、かき集めた毛布を次々と置いていった。本人もだいぶ濡れていて、肩にかけたタオルで雫を拭い、拭き損ねた分を家の中に落としている。私は着替えて毛布にくるまり、兄さんを呼ぶ。肩のタオルを取り兄さんの髪も拭く。
「ごめんなさい」
「いいのさ。雨に打たれたい日もある。木々のように腕を広げて雨を受け止めたかい」
「蛙のように雨が跳ねるのを見ていたわ」
「雨は冷たかっただろう」
「冷たいわ。無慈悲なほどに」
「高い空から落ちて来るからね。空の温度なんだね。枝を広げて雨粒を受けていれば、それはそれは重いんだ」
「そのまま雨になってしまおうかと思ったわ」
「雨は星になる」
「星は凍てついているわ」
暖炉の前で二人、ときどきくしゃみをしながら縮こまる。寒いならばと懐に招かれる。私たちは今、凍えて闇を漂うさみしい星。温もりを持つから溶けてしまうことも出来なくて、体というものは儚い。凍りついた星の上で、足の裏が冷たくなって、暖炉の前から動けない。
「こうしていよう」
パンをかじり、お茶を淹れて、薬草を仕分ける。雨が降り、今日のお仕事はここまで。
早めに寝所へ上げられて、ゆっくりお眠りと夜を手渡される。また夜。夜という名前を貰った獣が一跳ねする。空が暗くなり、風が吹き下ろす。通り過ぎるまで待つしかない。川から汲んだ水を持って来た。瓶に閉じ込めた、浮きも沈みもしない水泡。水泡は月。幾つもの夜を閉じ込めた小瓶。月の下に森がある。月光に晒される木々は砂塵となり、梢から崩れていった。家々や、暖炉や私もきっと、粒になる。時の波打ち際は砂の山を侵食する。含まれ撹拌された砂は一つひとつが星となり、小瓶の中を宇宙に変えた。瓶の中で、沈まず、瞬かない月たち。
水泡の中で眠る。月の光を放ち、砂塵がゆらめく海に埋もれて、どこへ行く。浮かぶも沈むも選ばない。夜をひたすら小瓶に溜め込む。夜を返さないから、朝は来ない。こうしていよう。この一日が続くように。時間が過ぎる。夜は終わらない。本当に夜が終わらなくなってしまったら、繰り返しが終わってしまう。今日を終わらせたくはないけれど、明日を迎えなくてはならない。
「兄さん、お腹が空いた」
階上から走り降り、まだ火を見ていた兄さんの背中に飛びつき顔をうずめる。私をぶら下げたまま兄さんは台所で果物を切ってくれた。立ったまま肩ごしに、切った果物を差し出して、食べるまで見届けてからもう一つ。切りながら兄さんも一口、二口と食べて、平らげる。雨が降っている。雨音に耳を傾けると、今は心地良く聞こえる。兄さんの呼吸と、暖炉の火が爆ぜた音も聞こえる。暗くてなんにも見えなくて、これはきっと全て夢。
「こうしていたい」
ぶら下がったまま二階へ運ばれて、私のベッドでは小さいから兄さんの部屋で二人で眠る。置いて来た小瓶の中に今夜の月も捕らえられ、終わらぬ夜がまた一つ。それは扉の向こうの出来事で、私は今日は知らないふりをして眠る。今日の私は小瓶の中の砂粒ではないし、兄さんの朝と夜も正しく巡り続けますように。
昨日よりもずっと早くに目が覚めた。太陽よりも早かった。夜は終わらなくなってしまったのかしら。兄さんが起きるまで目をこらして待っていた。腕を回して私が落ちないようにして眠っている兄さんに、私も精一杯腕を回してみた。夢の淵から落ちないように。夢から鳥がこぼれ落ち、声を響かせ羽音が寄せては引いて、森を揺らすと兄さんも目を開けた。呼吸する。空が白んで、波が寄せる。
「おはよう、兄さん」
「おはよう」
体が温くて、布団をかぶる。こら、挨拶をしてから潜り込まないで。兄さんが笑っているけれど、起き出す気配もなく、鳥が窓を叩くまでそうしていた。
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