薫る風、巡りきて

aoiaoi

第1話

 8月末の、すっと風が涼しくなった朝。

 静かに閉まった玄関を見つめ、二人はしばらく無言でその場に佇んだ。



 綺羅きらが、出て行った。

 たった今。


 今年の2月。

 彼女は、兼ねてから目標にしていた大きな新人賞を取った。

 華々しくデビューした彼女は、見る間に売れっ子漫画家への階段を駆け上った。


 そして、明るく慌ただしい夏がスタートした、7月のある夜。

 彼女は、突然切り出した。

 ——ひとりになりたい、と。



「どうして?

俺たち、何か綺羅ちゃんの邪魔しちゃった?」


 唐突なその言葉に、めぐるは大きく動揺しながら必死に綺羅にそう問いかける。


「ううん、巡くん、違うの。それは違う。

ここでの時間は……3人で過ごせたこの時間は、私の人生の中で間違いなく最高の宝物だわ。

巡くんと薫さんには、どんなに感謝してもし切れない。


けど……

これ以上は、二人に甘えられない。どうしても。

——ごめんなさい」


 彼女は、ただ淡く微笑んで、同じ言葉を繰り返すだけだった。




 すっかり夏が通り過ぎてしまったようなひんやりとした外気が、閉まったばかりの玄関からすっと流れ込んだ。

 その空気に微かに震えるように、巡は小さく俯く。


「綺羅ちゃん……

どうして急に、出て行くなんて……

結局理由も話してくれずに——」


 納得がいかないように沈む巡の声に、背後の薫が静かに呟いた。


「——お前と彼女は……結局、何の約束もできていなかったのか」


「は?

それは薫の方じゃないの?」

 その呟きに、巡はどこか鋭い視線で振り返った。


「……お前の彼女への想いをあれだけ目の当たりにしている俺が、綺羅と何の約束をすると言うんだ」

「薫は、いつもそう」

 苛立たしげに薫の言葉を断ち切り、巡は吐き捨てるように呟く。

「自分は一切無関係。あんたはいつも、平気でそんな言い方をする。

彼女の心が、あんたに向けて少しずつ傾いていたこと……気づかないはずがないのに」

「仮にそのことに気づいたら、どうなるというんだ?

気付こうが気付くまいが、俺は自分の態度を変えるつもりはない」

「いつもほんっとかっこいいよね、薫は。

それが結局どれだけたくさんの人を傷つけてるか、知ってんのかよ?

——ああ、そうか。例え知ってても自分の態度は変わらない、だよな」


 そう言いながら、巡は腹立たしげな足取りで自室へ向かう。


「おい、巡」

「今日、飯いらない」


 リュックを乱暴に肩にかけて薫にそう言い捨てると、巡は荒々しく玄関を出て行った。







「メグちゃん、綺羅ちゃん引っ越したんだって?」


 そんな風にして綺羅が出て行って、約2週間が経った。

 スタジオで撮影準備をする巡に、顔なじみのスタッフがそう声をかける。


「……ええ」

「そっかー、綺羅ちゃんも今や超売れっ子だもんなあ。これから仕事が増えれば自分のアシスタントも必要になったりするんだろうし。

自分自身の流れが変わったそういう時期に、新しい環境で新しい空気……っていうのも、作家さんには区切りとして大事なのかもねー」


「…………」


 そんなスタッフの言葉に何となく微笑みを返しながら、巡は思い返す。


 綺羅の口ぶりは、少なくとも、そんな感じじゃなかった。

『二人にはもう、甘えられない』と……そう言ったのだ。


 結局、俺とも薫とも、特別な約束を交わすことなく——ひとりのままで。



「まあ、メグちゃんと薫さんからしたらとんでもなく寂しいだろうけどな。彼女の巣立ちを祝ってやんなよ。もう金輪際会えない訳じゃないんだし。

あ、そろそろ時間だ。じゃスタンバイしてね、メグちゃん」

「——よろしくお願いします……」



 どうして。

 彼女は、一体何を考えて、突然あの部屋を出ると言ったのか。

 なぜ、『二人に甘えられない』なんていう言葉が出てくるのか。


 ——それまでの彼女からは、そんな気配など全く感じたことはなかったのに。



 巡は、そのことばかりをぐるぐると考えた。




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