第3話 欲という名の狂気の沼・扉{後編}

 起きたのは大体250年後らしい。あの時は懸命に覚えている。

自分のしたことを思い出した、主様ぬしさまに喧嘩ふっかけて影に殺され食わされ正気を失い『欲』と言う名の沼に一時的に溺れたことを。

欲の沼の底は狂気だ。あの扉は2度と開けないと自分に誓う…が。懸命に覚えているあの扉の中には忘れたくない悲しい記憶と思いが詰まっていた。

扉をくぐってあたりが真っ白だった。大きく立派に立っていた鳥居の下には若い神主がいた、癖っ毛が目立ち背筋を伸ばしながら鳥居の向こうに微笑んでいた。その背中には幸せな記憶と最悪な結末を漂寄せていた。


「君の居場所はここじゃないだろう?」と彼は言った。


「では鳥居の向こうに私の居場所があるの?」と聞いた。彼は首を振って「あの扉からくぐったんだろう?帰り道はまたあの扉だよ。」と扉に指を指す、まるで道しるべだ。


「鳥居をくぐったら幸せな記憶と思いがあるの?あの扉は嫌だ。悲しいものは見たくない。」私があの扉を拒む姿勢に彼は少し苛立ちをみせた。「君は人のなり損ないより臆病なのかい?誇り高き鬼だろう、扉は人でも鬼でも妖でも限らずみんなが超えなければいけないものだよ。大丈夫。君ならできるさ、僕が付いている。」人のなり損ない。その言葉に聞き覚えがあった。

主様ぬしさまを知っているのですか?彼もこの扉をくぐったのですか?黒髪で、赤い目…巫廻麗刄ふみつばという鬼を刀にしている人のなり損ない…?」と質問をした。若い神主は私が何を言っているのかよく分からないような反応を見せ、


慎吾しんごのことかい?」と聞いた。


慎吾しんご』と聞いて、すぐにわかった。

人食い慎吾。


地上最悪の人食い。たしか『白豹鈴蘭びゃくほうすずらん』と言う若い神主に高度の封印で妖の扉から追い出され、人にもなれずなり損ないと化した。鈴蘭すずらんは死んだが、慎吾しんご天悪家てんあくけに使える『朝霧鶴之助あさきりつるのすけ』に拾われ朝霧家あさきりけの跡を継ぎ、今では名の知れた神式神だ。『朝霧夜見あさきりよみ』と言う名になったと聞いたがそれは巫廻兄ふみにいから聞いたおとぎ話。人と人ならぬものとの絆がどのような結末を迎えるかの鬼としての一線。最悪の結末を避けるために作られた法であり罪であり同時に禁忌でもある。

人食い慎吾しんごは一種の『蜘蛛の糸』のような訓としてみなに言われ続けられたおとぎ話だと聞いた。それが実話だと今こそ確信できた。どうして今まで気づかなかったのだろう。巫廻兄はちゃんと主様について散々語り尽くしていたのだ。自分がバカに思えてくる。


人食い慎吾しんごは主様、又は朝霧夜見あさきりよみ

そしてこの神主はきっと白豹鈴蘭びゃくほうすずらん。最高の友であったために呼び寄せた最悪の結末。全て繋がったこの時こそ涙目になった。

気づいたら私は何も言わず自分の足であの扉を潜り抜けた。

あそこは私の居場所じゃない。格が違う、自分が醜く、小さく見える。人を殺した罪を億もせよっている主様ただ一人を救うためにあのたったひとつの小さな命は消え失せた。不老不死の命を持った自分が小さく見える、あの神主の背中はひどく大きく見えた。


そして現在、思い出しながら私は泣いた。


そして殺した。無数の自分を。人を嘲笑う自分、人を怯える自分、人を嫌悪する自分、人に憤怒する自分、人を愛する自分、人に嫉妬をする自分、人を欲する自分、人を哀れむ自分。ただただ、そうしないと私自身が潰れてしまいそうで、苦しかった。

私の最悪なはじめましてと250年間をつないで知った主様の過去と残酷。私はずっと泣いて、月が綺麗に池の水面に現れた時には、泣き疲れて眠ってしまった。


私はその日、生まれ変わったのだ。


起きたことを兄者たちに伝えることを忘れ眠り落ちた次の朝、お腹が鳴って目を覚ました。

そこにはなんだか難しそうな本を読んでいた主様ぬしさま…いや、あの伝説の人食い慎吾が私の背中を速度よく綿でも触るように優しく叩いていた。そして、同時にあの神主のことを思い出した。人食い慎吾しんごと彼は親友だった。ただただ、食う側と食われる側の違い、それだけで全てが壊れたのだ。一緒に笑い、一緒に泣いて、一緒に苦しみを打ち明ける…そんな素晴らしい日々が天からもらったその身の違いのせいで関係は醜く崩れた。目が枯れるような感覚の中で、また涙が溢れる。


涙が流れてあふれていく、目はもう痛いのに。何度拭っても、流れて行く。起きていることをバレたくないのに。最後にはしゃっくりを上げる始末だった。だけど主様の手の優しいぬくもりは止むことなく、私を慰めている感覚がした。


ぽん ぽん

ぽん ぽん…


「ごめんね、怖かっただろう」と落ち着いた声で主様ぬしさまが言う。

顔を見上げても肩までしか見えない、そっぽを向いているのかな。

「主さー」とガラガラの声で喋ろうとした時、主様ぬしさまは私の口を手で塞いだ。そして水を渡して、喋る前に飲みなさい、と言われた。


その優しさが、あの神主を思い出させる。多分、主様ぬしさまがする事なす事全て彼を思い出させるだろう。そして、これは主様ぬしさまとしての恩返し、罪を償う行為だろう。

水を飲み干して、喉を鳴らす。

「私はどうやってあの扉に行けたのですか?」と主様ぬしさまに聞く。きっとこれは彼にとっての地雷だろう。そうわかっていながら私は知りたかった、これが私の欲だ。


主様ぬしさまは驚いた顔で赤い目で私を見つめる。心を読んでいたのだろう、私は生まれ変わった。主様ぬしさまやあの神主のようにはなれないだろう、けれどその背中を追いかけることは禁忌でも、法でもない。私は彼らの背中を追う。


主様ぬしさまは微笑まなかった。けれど、嬉しかった。

彼の真っ赤の目は非常に喜んでいた。そんな気がする。


続けて、主様ぬしさまはこう言った。

「あれは、きっと君を見込んだんだろうね。何百年経とうが変わらないやつは沢山いるが、まさか、たかが人間がこんなにもしつこいとは…驚きだよ。君もまた、死ぬほどしつこい。」

とうんざりした主様を見て、私は少し申し訳なくなった。


「アレは…鈴蘭すずらんは…元気にしていたか?」

と、ぼそり主様ぬしさまは言った。


私は他に言うまでもなく、「ええ、元気でした。」

と頷くと、主様ぬしさまは手で自分の顔を隠した。

すると、美しい涙が流れた。


それに対して、私は動じず、微笑んだ。


「そうか、よかった。」

主様ぬしさまは呟いた。嘘も偽りもない美しい涙だった。私にもいつか、こんなに美しい涙を流せる日が来るだろうか?私は唯、何もせず、静かに泣く主様ぬしさまを見つめていた。



樹珠じゅじゅ?!大丈夫か?!」と、巫廻兄ふみにいが部屋に飛び込んできた、その時に泣いている主様ぬしさまを見て驚き、そして安心をした顔を見せた。きっと、主様ぬしさまはあの神主のことを気にかけていたのだろう。人の親友ができ、『2度と人を口に入れたくない』と言い張った人食いは結末には最善で、最悪の結末を迎えた。彼は、人食いと言う名の者から外れ、人にもなれない、人に一番近い存在となった。人食いはやがて、人を食わなくてもよくなったのだ。その願いが叶った裏腹に、その願いを作った親友が死んだ。まるで、等価交換だ。


多分、主様ぬしさまはずっと『あの時、あいつと友にならなければ、あいつは生きていたのかもしれない。自分の子供の生き様を見届けることができたかもしれない。末永く、自分の赤い糸と寄り添い長生きして平穏に死ねたのかもしれない。きっと、あいつは俺のことを恨んでいる。』とでも思っていたのかもしれない。ただ、過去と彼らの真実を知った私ができることは、彼らの背中を追いかけることだけ。

巫廻兄ふみにいは静かに涙を流す主様ぬしさまの背中を撫でていた。主様と同じように、速度よく。

少し落ち着いたのか、主様ぬしさまは涙をぬぐい、充血したような真っ赤になった私の目を親指で拭った。あぁ、私も泣いていたのか。「ごめんね、樹珠じゅじゅちゃん。こんなところ見せちゃって、僕は帰るよ。仕事も山済みだしね。」とゆっくり主様ぬしさまが起き上がり私の頭を撫でた。「とにかく、君は普通の鬼並みに欲ができたね、おめでとう。君のそのまっすぐの目が素晴らしかったよ。君の目が、言葉がいつか未来の糧になるだろうと、僕は願ってるよ。」と手のひらをヒラヒラ揺らしながら帰っていった。まるで気まぐれの猫のようだ、とクスリと笑う。

その時、歴兄が走ってきた。「樹珠じゅじゅ…!よかった…!」と抱きしめてくれた。

「心配した、お前が影に飲み込まれたと思うと…!」と震えた声で強く抱きしめた。暖かい温もりが安心させてくれる。歴兄は大げさでも小さくもなく泣いていた。だけれど苦しくなるほど抱きしめてくれているということは、私のことを心配してくれているということなのかな。

そうだと、嬉しい。また明日、幸せな1日であって欲しい。


幸せになれなかった者の分まで幸せになろう。

たとえ幸せではなくとも、あの人のように笑顔でいて幸せな者を見守っていよう。

それが私の第一歩だ。まだ走らないさ、ゆっくり、確実に一歩一歩を大切に歩くのだ。

そうしたら、きっとだんだんなれて行くだろう。


たとえ鬼でも妖でも人でも、他人の生き様を全て真似できない。全て真似をしたとて、転んで大怪我をするだけ。だから、急がずのんびりでもなく確実に、自分が作り上げた完璧を成し遂げる。そうやって歩む者はきっと転んでもまた立ち上がり、歩き続ける、終わりまで。


それを『人生』だと私は思う。

そんなこんなで何百年も忘れない最悪の日と250年は、平和に幕を閉じた。

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