新しい夢

O・太郎

新しい夢

「秋葉原って、オタクの街ですよね」と、僕の仕事場を聞いた人は大体、ばつが悪そうに尋ねてくる。僕は「あぁ、そうですね」と笑って受け流すけど、こうしたステレオタイプの質問にはほとほとうんざりしている。実際に電気街を歩いてみればいい。もちろん、パソコンの部品や美少女フィギュアに群がる、おあつらえ向きのさえない男たちに出くわすかもしれない。でも、彼らの周りでは、おしゃれな装いの外国人観光客がカメラをかまえて、かわいいフリルのついたメイド服に身を包んだフランス人形のような少女がポーズをとる。日曜になれば、歩行者天国になった中央通りにカップルや家族連れが繰り出して、三キロ以上南の銀座通りに負けないくらいのにぎわいを見せる。オタクだけの街ではないし、そもそも僕はオタクという言葉のニュアンスに引っ掛かりを感じている。僕が十年近く接してきた熱苦しい男たちのイメージに全然当てはまらないからだ。

 僕の仕事場は、中央通りと並行して走る路地裏にある。再開発が進んで小ぎれいになった駅前とは対照的に、電気街の四十年の歴史を刻んだ背の低いビルが建て込んでいる。その一角に「劇場」はある。五十人入ればいっぱいのこぢんまりとしたライブハウスを、僕らはそう呼んでいる。仕事帰りにふらっと立ち寄った初心者は、目と鼻の先にあるステージに向かってスタンバイしている寡黙な男たちに気圧されるかもしれない。舞台袖からステージに進み出たあどけない少女の華やかなドレスに目が釘付けになるかもしれない。

 でも、ここからが真骨頂だ。かつてフォークソングの合唱で満たされたという空間には、今や大音量のアニメソングが流される。あんなに静かだった男たちが、前奏に合わせて手を蛇のようにくねらせる。少女が歌い始めると、思い思いに体を揺らし、手拍子も入れる。間奏に入れば、「タイガー、ファイヤー、サイバー……」と、息の合った声援を送る男たちに面食らうだろう。そのうち、自然と足でリズムをとり、周りに合わせて合いの手を入れることになる。そうなれば、アイドルの成長を温かく見守るファンも同然だ。僕は客席後方の暗がりから、情熱を発散させる背中に心で呼びかける。「ようこそ、秋葉原へ」と。


 僕は劇場の草創時代を知る数少ないスタッフの一人となってしまった。四十歳を目の前にして副支配人を拝命し、ライブに出演するアイドルのスケジュール管理を取り仕切っている。その中には、駆け出しの十代の頃から伴走してきた子も少なくない。二週間後に二十五歳の誕生日を迎える河井あやもその一人だ。抜群の歌唱力と人懐っこい笑顔でファンを魅了してきた看板アイドルで、劇場への貢献は筆舌に尽くせない。僕は今、彼女のことで頭を悩ませている。

 二階廊下のどん詰まりにある支配人室に呼び出されたのは、三日前のことだ。建て付けの悪いドアをノックして部屋に滑り込むと、アコースティックギターを弾きながら歌う鼻の高い乙女を大写しにした、セピア色のポスターが目に飛び込んでくる。その下のソファーで口を開けながら、うたた寝している恰幅のいい老婆と同一人物とは、毎度のことながら納得行かない。僕は眉をひそめて、半開きのドアを内側から今度は手荒くたたいた。老婆は鷲鼻をひくつかせて、両目を見開いた。

「ママ、来ましたよ」

 僕らは、御年七十歳になんなんとするライブハウスの女主人を、親しみを込めてそう呼ぶ。とある事情でマネジャーとして勤務していた芸能事務所を追われた僕を拾ってくれたのが、ほかならぬママで、本当は頭が上がらない。もちろん、劇場を拠点に活動するアイドルたちとスタッフ一同の敬愛も集めている。

「何だい、佐々木かい」

 ママは、どら猫のように大きなあくびをして、ねぼけまなこを僕に向けた。

「何だい、じゃないですよ。僕をお呼び出ししたのはママですよ」

 僕は、おとなげなくほおを膨らませて、背後のドアを閉めた。

「あぁ、そうだったね。ごめんよ」

 ママは舌を出して照れ笑いし、手招きして僕を向かいの一人掛けソファーに座らせた。

「ご用は何ですか。河井の生誕祭の準備がありまして、できれば手短にお願いしたいのですが……」

 僕は浮き腰で、腕時計をちらりと見た。

「その河井あやのことだよ」

 ママはそう言うと、ローテーブルに置いていたマルボロの箱から一本取り出し、意表を突かれて固まった僕に「火、あるかい」と尋ねた。

「河井のことで何か……」

 僕は、ズボンのポケットから取り出した使い捨てライターで、ママのくわえタバコに火を付けながらつぶやいた。ママはうまそうにタバコを吸うと、僕を横目に紫煙を吐き出して、「そう、あやのこと」と繰り返した。

「あんたは、最近のあやのこと、どう思う?」

 ママは、灰皿にタバコの灰を落とすと、僕に向き直った。

「どうって」と、僕はたわいない質問に拍子抜けして苦笑した。「ママも河井の人気ぶりはご存じでしょう。押しも押されもせぬ我が劇場の看板アイドルですよ」

「もちろん知っているよ。あやが出演するライブはいつも満席だ。支配人としてこれほど嬉しいことはないよ」

 ママは言葉を切って、またタバコをくわえた。僕はママの意図を計りかねて、ソファーにもたれ掛かった。

「あやは、次の生誕祭で何歳になるんだい?」

「二十五歳ですよ」

「二十五歳か。そろそろ潮時かもしれないね」

 僕は耳を疑い、「潮時?」とおうむ返しに尋ねた。

「卒業を考える時期ってことだよ」ママは伏し目がちに灰を落とした。

「卒業ってどういうことですか。こんなに人気が出ているのに。本人の口から出たこともありませんよ」

 僕は突然のことに慌てて、まくしたてた。非難めいた口調だったのだろう。ママは手で僕を制して、落ち着かせようとした。

「あんたは、デビューの時からあやを見守ってきただろう。彼女の夢も聞いているはずだ」

「夢……。メジャーデビューのことですか」

 ママは二度うなずいて、タバコの火をもみ消した。「そう、メジャーデビューさ。あやは十代の頃から、テレビやラジオで自分の歌が流れて、全国のファンを元気づける日が来るのを夢見ていたよ。でも、同じ志を持つ若者は五万といて、栄達するのはほんの一握りだ。芸能界は気持ち一つで成功するほど甘くはない。あんたが肌で感じてきたことだろう。違うかい?」

 ママの眼光は鋭く、僕はうつむいて「その通りですが……」とつぶやいた。

「卒業を考える時期が来ているんだよ」ママは、寂しそうに繰り返した。

「でも、アイドルに定年なんてないですよ。おばさんになっても第一線で活躍している芸能人はたくさんいるし、うちの劇場にだって三十歳を超えてなお人気が衰えない子がいますよね。卒業するかどうかは、本人の気持ち次第ではないですか」

 あきらめきれずに食い下がる僕を、ママは哀れむような目で見つめて、悲しそうにほほ笑んだ。

「もちろん、私も四十年近く、細々と音楽活動を続けたから、あんたが言うこともわかるさ。でも、アイドルには、その人に合った引き際があるんだ」

「引き際ですか」

「夜空高く打ち上げられた大輪の花火は、散り際まで美しく設計されて、大勢の観衆が余韻に浸るだろう。でも、手持ち花火の命は短い。人知れず暗闇に沈む時間の方が長いんだ。あんたは、あやにいつまでもそんな人生を歩ませてもいいと思うかい?」

 僕は言葉が出なかった。ママは真剣だ。本当の母親のように、河井の身の振り方を案じている。翻って、僕はどうだろう。河井の一途な気持ちに甘えて、知らず知らず劇場の繁盛ばかり追い求めていなかったか。河井の人生を犠牲にしていなかったか。

「確かに、後進の育成に喜びを見つけて、劇場にとどまる道もある。何を隠そう、私がそうだったからさ」うなだれる僕に、ママは優しく語り掛けた。「でも、あやは自己プロデュースに余念のない生粋のアイドルさ。ボイストレーニングやダンスのレッスンを欠かさなかったし、そうだ、デモテープも名だたるレーベルに送り続けていただろう? もちろん悪いことじゃないさ。持って生まれた個性なんだ。このままアイドルを続けたら、引き際なんて考えも及ばず、燃え尽きるところまで行ってしまうだろう。私にはわかるんだ。失意のどん底で退場していった子を何人も見てきたからね……」

 ママは眉を寄せて、目を閉じた。過去のことを思い出して、後悔しているようだった。

「アイドルの夢から覚めて、すぐ別の道が開けるんでしょうか」

 ママに根負けして、河井の卒業に傾いた僕は、正直に不安を口にした。

「あやは、頭の切り替えが早い子だ。アイドル活動と学業を両立させて大学も出ているからね。最近は学生の売り手市場なんだそうで、引く手あまたで働き口に困ることはないだろうよ。なんてったって、器量よしの元アイドルだからね」

「気持ちの問題です」僕は、おどけるママをたしなめるように言った。

「わかっているさ」ママは居住まいを正して二本目のマルボロに火を付け、煙を吐いた。

「あやは大丈夫だ。自分で気持ちに区切りをつけるさ。心残りは、長年応援してくれたファンの受け止め方だろうね。星君とか……」

 僕は、タバコの灰を落とすママを見つめながら、汗にまみれたTシャツを着た大きな背中を、染み染み思い出した。河井あやファンクラブ会員ナンバー〇〇〇一、星秀雄。河井の公演ではいつも最前列に陣取り、激しく腕を振る「ヲタ芸」を打ったかと思えば、「いくぞー」と叫んで間奏時の掛け声を先導し、終演後には進んで周りのファンから使い捨てのケミカルライトをごみ袋に回収してくれる、有り体に言えば四十過ぎのおっちゃんだ。普段どんな仕事をしているのか知らないが、公演前後はおとなしい紳士で、河井本人のみならず、劇場スタッフの信頼は厚く、ほかのファンからも一目おかれている。ファン有志で構成する生誕祭実行委員会では、もちろん委員長の重責を担っている。

「星さん、承知してくれるでしょうか」

 僕が不安そうに口を開くと、ママはかぶりを振って「私だって、わからないよ」とつぶやいた。

「毎年、生誕祭の準備を買って出てくれるんだ。まず、星君と話をつけるのが筋だよ。何、心配することないさ。長い付き合いだ。あやの卒業を持ち出されて取り乱すような玉じゃないことは、私が一番よくわかっている」

 ママは自信ありげに、やにで黄ばんだ歯を見せた。僕から話を通せ、ということらしい。

「ご用件は承りました。ちょうど、星さんも三日後の生誕祭打ち合わせに見えるので、それとなく掛け合ってみます」

「万事よろしく頼むよ」

 僕が一礼して席を立つと、ママが何か思い出したように「佐々木」と呼び止めた。

「何です?」僕は不満げに振り返った。

「あんた、大丈夫だと思うけど、同じ轍は踏まないようにね」

 ママが冗談のつもりで言ったのか、判断しかねたけど、僕は苦笑いして「いつの時代のことですか」と返して支配人室を後にした。アイドルの肩たたき、当世風に言うなら「IKT」は初めてのことじゃないけど、骨の折れる仕事だ。僕は昔、痛い目を見ている。


「河井のことで場所を変えて話したい」と言って、星さんを劇場から連れ出した僕は先に立って路地裏を歩いた。時折、後ろを振り向いて、白い物が交じった短髪の星さんが付いてくるのを確かめた。僕と二、三歳しか年が違わないはずなのに、獅子鼻に眼鏡をかけた面長の顔は老け込んで見える。前日に開かれた河井の地方公演への遠征の疲れが残っているのかもしれない。それでも、生誕祭の打ち合わせでは、ファンの間でもんだケーキのデコレーションや余興のアイデアについてよどみなく話し、実行委員長の面目を施していた。

「メイドカフェですか」

 僕が足を止めたビルの二階の看板を見上げて、星さんはつぶやいた。

「そうです。初めてですか」

「えぇ、まぁ……」

 星さんは一重まぶたをしばたたかせ、はにかんだ。これまで、劇場には足繁く通っても、ほかの店に目をくれなかったのだろう。律儀な性格がかい間見えて、今更ながら相談相手が星さんでよかったと思う。

 僕がカフェのドアを開けると、メイド服姿の顔なじみの店員が「お帰りなさいませ、ご主人様」とにこやかに迎えてくれたけど、星さんの表情は硬いままだった。僕らは窓際の席に通され、向かい合う形で座った。店員と談笑する一人客が目立つのを除けば、普通のダイニングバーと変わらないしつらえに、星さんはようやく安心したようだった。

「カフェラテにします? メイドさんがお絵かきしてくれますよ」

 僕が薦めると、星さんは「折角だから」と応じて、先ほどの店員にチョコソースで猫を描いてもらった。

「あの子も、この前インディーズデビューを果たしたアイドルの卵なんですよ」

「そうなんですか」星さんは感心したようにうなずいて、店員を目で追った。

「秋葉原は、夢を追いかける子が集まる街なんです。河井のようにね……」

 僕は言葉に詰まり、ハートが描かれたカフェラテを一口飲んだ。星さんは窓の外の路地裏を眺めていた。チラシを配るメイドや制服姿の少女たちが辻に立っていた。僕は逸る心を静めて、切り出した。

「河井も劇場デビューし立ての頃は、右も左もわからない状態でした。そんな時、星さんが最前列に立って盛り上げてくださいましたね。おかげさまで、河井もアイドルの勘所を押さえ、見る見るうちに頭角を現して、劇場のトップアイドルに登り詰めました。副支配人として感謝申し上げます」

 星さんはまごついて僕に向き直り、「そんな大層なことはしていません。過分のお言葉を頂戴して恐縮です」と恭しく頭を下げた。

「河井は、星さんのようなファンに恵まれて幸せだと思います。でも、申し上げにくいことですが、この幸せな時間がいつまでも続くとは限りません」

「と言いますと?」星さんは、けげんな顔を上げて尋ねた。

「ご存じだと思いますが、河井の夢はメジャーデビューです。劇場公演の傍ら、レーベル主催のボーカルオーディションを受けたり、会心のデモテープを送ったりしてきましたけど、残念ながらことごとくはね返されてきました」

 星さんは、僕の話を聴きながら腕組みしてうつむいた。ママの言う通りの冷静な素振りに安心して、僕は語気を強めた。

「それでも、河井はあきらめないで、どこまでも挑戦を続けるでしょう。あと何年で日の目を見るかわからない努力を精一杯続けて。河井は次の生誕祭で二十五歳になります。正直、メジャーデビューの門は年々狭くなるばかりです。長く寄り添ってきた者として、河井の今後について真剣に考えなくてはいけない時期に差し掛かっていると思うんです」

 僕は思いの丈をぶちまけた勢いで、ハートの崩れたカフェラテを一気に飲み干した。カップをソーサーに戻した時、思いがけず大きな音を立ててしまったので、星さんの気に障らなかったか顔色を窺ったが、うつむいたままでわからなかった。

「あややに引退勧告をされるおつもりですか」

 星さんが気まずい沈黙を破って口を開いた。あややの愛称が、僕の胸に重く響いた。デビュー当時から見守ってきたファンの悲痛な思いが込められていると感じて気後れした。

「その通りです。まだ決まっていませんが」

「そうですか、つまり肩たたきということですね」

 星さんは淡々と話すと、猫が崩れないように静かにカフェラテをすすった。

「ご苦労はわかります。私も同じようなことをしてきましたから」

 星さんはそう言うと、脇に置いた革製のショルダーバッグから名刺入れを探り当て、一枚取り出して、僕に差し出した。僕は畏まって両手で受け取り、飾り気のないサラリーマンの名刺をしげしげと見た。大手家電メーカーの人事部長代理という肩書と、おなじみの星秀雄という名前が、えらく不釣り合いに見えた。

「メーカーの方だったんですね」と、僕はつぶやいて、名刺と星さんの決まり悪そうな顔を交互に見た。

「えぇ、実は。隠すことでもないので。会社の人事をしています」

 居住まいを正した星さんにつられて、僕も名刺を丁寧にテーブルに置き、背筋を伸ばした。

「ずいぶん大きなところにお勤めなんですね」僕が水を向けると、星さんは大きくかぶりを振って苦笑した。

「斜陽産業です。昔はパソコンの生産台数で世界のトップシェアの座を争ったこともありましたが、人件費の安い中国や韓国のメーカーにあっという間に追い落とされてしまいました。今では、収益構造改革という美名の下、バブル期に大量採用した社員のリストラが進められていて、私もその一翼を担わされているんですよ」

 星さんは、日が傾いた窓の外の路地裏に再び目を移した。横顔には一抹の哀愁が漂っていた。

「同じ釜の飯を食った社員を、ほかに誰もいない会議室に呼び出して転職を勧める毎日です。皆、自分ではまだ会社に貢献できると自負しています。家族の生活もかかっていますから必死です。泣き落とされたり、口汚くののしられたりして、自分が無慈悲な獄卒になったような錯覚にとらわれることもありました。社内では『人斬り』と陰口をたたかれている始末です」

 星さんが間を置くようにカフェラテを飲み終わると、顔なじみの店員が近づいてきて、「ご主人様、おかわりはいかがですか」と尋ねた。僕は星さんに目で確かめてから「結構です。ありがとう」と答えた。店員はお辞儀してきびすを返した。普段なら進んで話題を振ってくれるところだけど、星さんの沈痛な面持ちに気づいて、引き下がったのだろう。気が利く子だ。星さんは、ほかの男性客と話し始めた店員を見て、ほほ笑みを浮かべた。

「心の支えは、あややです。十年くらい前でしょうか。私がまだ外回りの営業部隊にいた頃、電気街の取引先を訪れた帰りに、公演のビラ配りをしていたあややに行き逢いまして。いつもなら無言で通り過ぎるところでしたが、熱心に頭を下げる姿に好感が持てて、ビラだけならと受け取りました。その時に初めて目が合って、あややは満面の笑みで『ありがとうございます』と言ったんです。何てまぶしい笑顔だろうって、私は年甲斐もなくときめいてしまい、赤くなる顔を見られまいと足早にその場を立ち去りました。家路についても、あの笑顔がまぶたに浮かび、電車の中で周りの目を気にしつつ鞄からビラを取り出しました。あややの劇場デビュー公演の日時が書いてありました。また、あの笑顔が見たいと強く思いました。その公演が、今日に至る私のファン歴の始まりです」

 河井について話す星さんは、さっきまでと打って変わって生き生きとしている。僕は、アイドルの役割、というか底知れぬ力をまざまざと見せつけられ、これから取りかかる罪な仕事を前に足のすくむような思いがした。

「夢に向かって突き進むあややには、どんなにつらい境遇でも前向きに生きていく気力をもらいました。私は恩返しのつもりで劇場に通っているのかもしれません。慣れない『ヲタ芸』や掛け声を必死に覚えたのも、生誕祭の準備に駆けずり回るのも、ひとえにあややに笑顔でいてもらいたいからなんです。本当はいつまでも……」星さんは、顔を曇らせた。「でも、佐々木さんのおっしゃることも、わかります。笑顔の裏で、ファンには窺い知ることができない挫折感を味わっているのかもしれない。ファンの期待に応えようとするあまり、自分を見失ってしまうアイドルの方もいらっしゃるのかもしれない。ファンの善意が必ずしも、アイドルの幸福につながるとは限らないのでしょうね」

 外はすっかり日が暮れていた。まもなくこの店でもバー営業が始まって、にぎやかになるだろう。僕は腹をくくった。

「河井の卒業にご賛成いただけますか」

 星さんは心苦しそうな顔で僕を見返した。

「佐々木さん、申し訳ありませんが、私に少し時間をいただけますか。頭では理解できても、あややと過ごした時間が長すぎて、すぐには気持ちの整理がつかないんです」

「もちろんです」僕は迷わず即答した。「今日お話したばかりですし、お気持ちはお察しいたします」

 星さんは「ありがとうございます」と言ってうなだれ、しばし微動だにしなかった。僕にも、大切な人との別れを受け入れるまで、気持ちの整理がつかない時期があった。星さんの心境は痛いほどよくわかる。

「そろそろ、行きましょうか。会計は僕が支払いますので」僕は頃合を見計らって、声を掛けた。

「あぁ、すいません」星さんは我に返ったように言って、ショルダーバッグから財布を取り出そうとした。やはり律儀な人だ。

「いいんですよ、星さんにはいつも、河井が物心両面でお世話になっていますから。ほんの気持ちです」

「そうですか、それではお言葉に甘えて……」

 星さんは、本当にすまなさそうに頭を下げた。僕ら二人は、新顔のメイドに「行ってらっしゃいませ、ご主人様」と見送られ、店の前の路上で別れた。僕は、肩を落として歩く大きな背中が人込みに紛れるのを見届けてから劇場に足を向けた。


 星さんから電話があったのは、それから三日後だった。返答まで時間がかかったことについて丁重な詫びから始まり、河井への感謝を述べる言葉の端々に未練が窺われた。一時間に及んだ長電話は、詰まる所、断腸の思いで卒業に賛成するけど、生誕祭が終わるまで本人に引退勧告をするのは待ってほしいということだった。僕がママに取り次ぐと、「もちろん大丈夫さ」と快諾してくれたので、この案件は、僕ら三人のトップシークレットになった。

 星さんは、生誕祭前最後の河井の劇場公演にも顔を出し、いつもと変わらぬ全力投球のヲタ芸を打って、ライブを盛り上げていた。終演後の物販の時間では、河井と記念撮影した後、生誕祭に向けた意気込みを語ったようで、二人でがっちり握手していた。帰りしなに劇場の出入り口近くで僕と短くあいさつを交わしたが、お互い、河井の卒業のことはおくびにも出さなかった。星さんの吹っ切れた顔を見て、僕は胸をなで下ろしたけど、IKTの重圧がいや増すのを感じた。そのように落ち着かない日々が続く中、やっと一息つける日が巡ってきた。

「パパ」と叫んで、五歳になったばかりの美奈が僕の腕の中に飛び込んできた。上等な子供服がよく似合う可憐な少女に育った長女をしっかり抱き締めて、僕は「会いたかったよ。また大きくなったなぁ」と声を掛けた。

 広尾のオープンテラスカフェを面会場所に指定した元妻が、花柄のワンピースと豊かな黒い長髪を風になびかせながら美奈の後に続いた。周囲の視線を遮るようなつばの広い帽子とサングラスで表情は窺えない。僕は「さゆり」と言いかけて口ごもり、「さゆりさん」と言い直した。

「この子の前では、別に昔のままでいいわよ」さゆりは笑って、帽子とサングラスを取り、つぶらな瞳を僕に向けた。「行きましょう。育ち盛りでお腹を空かせているの」

 僕は美奈と手を握って、颯爽と歩くさゆりの後に付いて歩き、目抜き通りに面した丸いテーブル席に座った。周りの女性客も、通りを行き交う人々も、モデルのように洗練された身なりで、二人が遠い異国に暮らしているような気がして、独り身の寂しさが募った。

「美奈は何にする?」

「えーとねー。パンケーキ」

 額を集めてメニューをのぞき込む僕と美奈を、さゆりは静かにほほ笑んで見つめていた。

「ねぇ、ママは何か食べるー?」

「そうねぇ。ここのパンケーキ、美奈にはちょっと多いかもしれないから、ママと一緒に食べようか」

「うん、わかった」美奈は笑顔でうなずいた。

 僕は注文を済ませた後、リュックサックから新品のクレヨンの箱とアニメの塗り絵を取り出し、「これ、なーんだ」と美奈に語り掛けた。美奈は嬉しそうに大好きなアニメキャラクターの名前を答えて、脇目もふらず塗り絵を始めた。

「お心遣い、ありがとう」さゆりが代わりにお礼を言った。

「こんなに楽しそうにしてくれて、こっちが嬉しくなるよ」

「塗り絵が好きなこと、覚えていてくれたのね」

「二年間、一緒に暮らしていたからね。小さい頃から好きだっただろ。あの頃は毎日が楽しかったなぁ……」

「そう」さゆりは、グラスの水を飲んで、通りに視線をそらした。「私は苦しい日が多かったけど」

「えっ?」僕は耳を疑った。

「劇場のアイドル路線が軌道に乗って、あなたは楽しかったでしょうけど、私は苦しかった」

 さゆりの口調は穏やかで、美奈はただならぬ気配に感付いていないようだ。僕は努めて明るく「僕が言ったのは、子育てのことだったんだけどな」と、さゆりに弁解した。

「子育てのこともよ。あなたが忙しくなって、美奈の面倒はほとんど私が見た。大変だったけど、美奈の笑顔に癒やされて、何とか持ちこたえることができたわ。でも、私を苦しめたのはそれだけじゃないの」

「ママ、どうしたの?」美奈がさゆりの顔を見上げていた。

「あら、ごめんね。パパとむかぁし、むかしの話をしていたの」さゆりは笑顔でごまかして、美奈は「そう」と納得して塗り絵に戻った。僕とさゆりはしばらく無言で美奈の奇抜な色使いに目を落としていた。そのうち、パンケーキが運ばれてきて、僕は「助かった」と思った。

「美奈、食事にしましょう」と、さゆりが呼び掛けると、美奈は「わぁ、パンケーキ」と目を輝かせた。さゆりが小さく切り分けてやると、本当に美味しそうに頬張った。

「ねぇ、さっきのどういうこと」

 僕は、パンケーキに夢中の美奈を横目にささやいた。さゆりは、今度は僕を見据えて口を開いた。

「私が道半ばであきらめた夢を、劇場の後輩たちが追っている。それなのに私は、孤独な子育てに追われている。二重の苦しみを味わっていたのよ。あなたは覚えているかしら。私が夢をあきらめた時に言ったこと」

「あぁ、もちろんさ」僕はうつむいて、つぶやいた。「僕が君を幸せにするから」


 あれは、若気の至りだったのかもしれない。僕が芸能事務所に勤めていた十年以上前のことだ。さゆりは劇場の一期生で、草の根の人気に目を付けた事務所が、新しく結成するアイドルグループにスカウトした。その際、マネジャーに就いたのが僕だった。さゆりは、劇場とは勝手が違う芸能活動に戸惑っていた。もちろん、メディアへの露出が増えて知名度が上がり、それなりの数のファンが付いた。でも、ファン一人一人の温かい眼差しと声援を間近に感じられるわけではなく、CDの売上枚数とか人気投票の獲得数とかに置き換えられた匿名の励ましが定期的に知らされるだけだった。数字に一喜一憂する仲間の傍らで一人塞ぎ込むさゆりの姿を何度見かけたことだろう。グループ念願のドームコンサートも、ステージと観客席が柵と警備員でわけ隔てられ、頼みのファンの表情も目ばゆいばかりのライトにかすんで、劇場ではきめ細かに送り返していた「レス」を実践する余裕なんてなかったそうだ。

「かごの中の小鳥のよう……」コンサート終演後に、さゆりがぽつりとつぶやいた言葉が、今でも僕の耳に残っている。休みもほとんどない多忙な毎日に心をすり減らしているのは、誰の目にも明らかだったけど、仕事の見直しを掛け合う僕に上司が首肯することはなかった。事務所の売り込み方針は揺るがなかった。

 さゆりが過労で倒れたのは、グループ結成一周年公演から間もない頃だった。僕は出先から、さゆりが運び込まれた病院に駆けつけた。さゆりは個室のベッドに寝かされ、点滴を受けていた。僕は、付き添っていたお母様に平謝りに謝り、眠りについても顔色の優れないさゆりを不憫に思って、涙を流した。さゆりは経過観察のため、そのまま入院した。見舞いのため日参した僕の胸中は穏やかではなかった。早期復帰の方針を曲げない事務所に怒りを募らせていたし、デビューから寄り添ってきたさゆりに対し、マネジャーとしての思いやりを超える感情が芽生えたことに戸惑いを覚えていた。

 退院を翌日に控えたさゆりをいつものように見舞うと、ベッドから上半身を起こして、窓の外の夕日を眺めていた。

「もう、アイドルに戻りたくないな」さゆりは不意にそうつぶやいた。「私が思い描いていた世界とは全然違う。苦しくてつらいことばっかり。社長は夢を叶えるためには、犠牲が必要だって言うけど、本当にそうなのかな。誰も信じられなくなるよ」

 さゆりは、両手で上掛けを握り締めて、さめざめと泣き始めた。傍らに立っていた僕は、さゆりの肩に掛けようとした手を、思い直してか細い手に重ねた。さゆりは驚いて、涙に濡れた瞳を僕に向けた。

「夢が思い描いたままの形で実現することなんてまれなんだ。みんな、現実を知って折り合いをつけている。でも、それが全部不幸だってことにはならない。自分を見つめ直して次の夢を育むきっかけになるんだから」

「次の夢……」さゆりは、つぶやいた。

「僕の夢はもちろん、君を国民的アイドルにすることだったさ。でも、もう無理だ。君が苦しむのをそばで見続けることはできない。事務所が許せないよ」僕は、さゆりの両手を持ち上げた。「君は、僕が守る。僕が君を幸せにするから。それが今、僕の夢になった」

 さゆりは噴き出し、「もぉ、佐々木さん、何を言い出すの」と僕をたしなめて泣き笑いしたけど、つないだ手は離さなかった。僕は急に恥ずかしくなって、その後すぐ病室を後にしたが、さゆりが退院した後、僕らは人目を忍んで付き合い始めた。結局、事務所の知るところとなり、社長に疎まれた僕は、さゆりの伝手で逃げるように、劇場のママの許に転がり込んだ。さゆりも後を追うように卒業を発表し、一般男性との結婚を理由としたことに、全国のファンはショックを受けていた。薄給だった僕をさゆりが献身的に支え、慎ましいながらお互いを思い合う幸せな生活を送った。五年後には、劇場がさゆり以来のアイドルブームに沸き、暮らし向きが豊かになった僕らは、美奈という子宝にも恵まれた。

 でも、その陰ですれ違いが生まれ、僕らの間の溝が徐々に深まったのは、さゆりが言った通りだ。僕らの結婚生活は七年で終わった。僕はまた、夢を失ったのだ。


 美奈はパンケーキを食べ終わって眠くなったのか、さゆりの腕に寄り掛かって愛らしい寝顔を見せていた。月一回の面会は、我が子の成長を手に取るように感じられる至福の時間だ。僕とさゆりは、食後のコーヒーを言葉少なに飲んでいた。

「交際は順調のようだね」と、僕が切り出し、さゆりは「えぇ」と短く答えた。さゆりが結婚相談所を通じて出会った年上の会社役員の男性と付き合っていることは以前聞いていた。さゆりはコーヒーをすすって、言葉を継いだ。

「今の私の夢は、何不自由ない環境で美奈を健やかに育てること。ずいぶん現実的になったと思うでしょ」さゆりは自嘲するようにほほ笑んだ。「でも、美奈は彼にかわいがってもらって懐いているわ。私たち、今とても幸せよ」

「そうか。よかった」僕はそれ以上の言葉が思い浮かばなくて、はにかんだ。

「美奈にはお稽古事とか好きなことは何でもやらせるつもり。将来の夢の可能性を広げてあげたいの。あっ」さゆりは思い出し笑いを浮かべた。「それでも、アイドルはさせたくないわ。ごめんなさいね。あなたは今でも劇場で後輩たちの夢を後押ししてくれているのに……。私って、薄情ね」さゆりは声を落として、ため息をついた。

「いいんだ、気にしないで」僕は首を横に振って言った。「それより、その後輩のことだけど、近々、河井に卒業を打診しないといけなくなったんだ」

「えっ、あやが? 何で?」

 さゆりは目を丸くした。無理もない。河井は壁にぶつかる度、メジャーデビューを果たしたさゆりに相談していた。さゆりも劇場の将来を託した自慢の後輩に目をかけていた。

「ママが決めたんだ。メジャーデビューの望みは薄くて、河井の人生を考えたら、今が引き際だって。僕も迷ったけど、河井を劇場のトップアイドルに育て上げたママの言うことを信じることにした」

「そう」さゆりは、頬杖をついて考え込んだ。

「正直に言うと自信がないんだ。人一倍の努力をしてきた河井に掛ける言葉が見つからない。アイドルの夢を断念させた君を約束通り幸せにできなかったからなおさら……」

「そんなことないわ」さゆりは真剣な眼差しで、僕の言葉を遮った。「離婚はしたけど、私はあなたに感謝している。これ、本当よ。あのままアイドルを続けていたら、今の満ち足りた人生はなかったんだから」

 さゆりは、安らかに寝ている美奈の前髪を整えて、ほほ笑んだ。

「今度は、あやの力になってあげて。私もできる限りのことはするから」

 僕は一人で悩みすぎていたのかもしれない。そう思って、少し気が楽になった。僕もさゆりにほほ笑んで、心から「ありがとう」と言った。


 劇場スタッフがステージにスタンド花を飾り付け、星さんたちファンクラブの面々が特注のホールケーキを運び込むそばで、僕は一人焦っていた。朝から河井の姿が見当たらない。いつもなら、ライブ前に早出して、リハーサルと衣装合わせに時間をかけているのだけど。スマートフォンの電源も入っていないようだ。僕はそわそわしながら腕時計に目を落とした。生誕祭の開始まであと三十分しかない。客席後方の暗がりで手をこまぬいていると、出入り口が開いて、仕立てのいいスーツが今にもはちきれそうな図体を揺らして、三つ編みの淑女が入ってきた。

「ママ、探しましたよ。どこに行っていたんですか」僕は二階に上がるママの後に付いて呼び掛けた。

「あぁ、佐々木かい。ちょっと用事があってね。どうしたんだい、そんなに慌てて」ママは背中越しに僕を一瞥して返した。

「河井がいないんです。電話もつながりません。こんなこと初めてです……」

「まぁ、お入り」ママはずいぶん悠長に、僕を支配人室に招じ入れ、ドアを閉めた。

「開演を遅らせた方がいいでしょうか。このまま連絡がつかなかったら、最悪、中止にせざるを得ません」僕は肩を落とした。

「いや、大丈夫だ。予定通りに開演するよ。これは劇場の支配人としての判断さ」ママは唖然とする僕に、毅然たる態度で言い放った。

「さぁ、持ち場に着きな。大切なお客様が待っているんだ」

 ママにせかされ、僕は「そこまでおっしゃるなら」と、渋々支配人室を後にした。一階に戻ると、開場されたばかりの客席に立錐の余地もないほどファンが詰め掛けていた。星さんも定位置の最前列で河井の登場を待っている。いつもは河井の絶大な人気が感じられて嬉しくなる光景だけど、今日は本人の不在を知った時のファンの落胆の大きさにばかり意識が向く。そんな僕の不安をよそに、生誕祭の幕開けを告げるチャイムが劇場に鳴り響き、星さんの音頭で手拍子が広がった。ファンの視線が集中するスポットライトの光の中に舞台袖から進み出たのは、ママだった。手拍子が静まる代わりに客席からどよめきが起こった。前座と勘違いしたらしい一部のファンが申し訳ばかりの拍手を送ったが、段取りを知る星さんが後ろを顧みて両腕を振り上げ、「静粛に、静粛に」と呼び掛けた。

「皆様、本日は河井あやの生誕祭にお集まりくださり、本当にありがとうございます」ママは、静まりかえった客席に向かって丁寧にお辞儀した。「当劇場の支配人を務めている柊香苗と申します。初対面の方は、以後お見知り置きください。さて、お呼びがかかったわけでもない私めが参りましたのは、皆様にお詫びをさせていただくためです。河井は本日、一身上の都合で卒業いたしました」

 ママが神妙な面持ちで語ると、客席から悲鳴が漏れ、ざわめきが広がった。星さんも突然のことに驚いたようで、暗がりの中こちらを振り返ったが、僕はかぶりを振った。予想外の展開に、僕もめまいがするようだった。

「皆様、どうかご静粛になさってください。折角、河井の生誕祭に足をお運びいただいたのに、私めから卒業をご報告する仕儀になりまして、誠に申し訳ございません」ママは深々と頭を下げ、三つ編みの髪がだらりと垂れ下がった。その後頭部を目掛けて、客席から「裏切り者」とか「金返せ」とか辛辣な野次が飛び、ざわめきも一段とかまびすしくなった。ママは頭を下げたまま動かず、じっと耐えているようだった。

「お前ら、うるさい。どの面下げて、あややのファンを気取っているんだ」

 一喝したのは、星さんだった。客席はまた、水を打ったように静まりかえった。星さんは荒い息を整え、ステージに向き直って、びっくりして顔を上げたママと目を合わせた。

「どういうことなんです? 柊さん。みんなにわかるように説明してもらえませんか」

 星さんに穏やかに語り掛けられ、ママも気力を取り戻したようだ。礼を言うようにうっすらとほほ笑みを浮かべて、ゆっくり上半身を起こすと、スーツの胸ポケットから白い封筒を取り出した。

「河井から、この度の件につきまして、皆様に宛てて書いた手紙をお預かりしています。僭越ながら、私めが代読させていただきます」

 ママは封筒から花柄に縁取られた便箋を取り出して広げると、一息置いて読み始めた。

「親愛なるファンの皆様へ。この度は私の生誕祭にご来場いただき、ありがとうございます。そして、失望させてしまって、ごめんなさい。私、河井あやは今日、アイドルを卒業します。劇場で過ごした十年は、私にとってかけがえのない時間でした。今だから書けますが、アイドルを目指して上京するまでの私は、引っ込み思案で友達も少ない、どちらかというと地味な女の子でした(想像できますか?)。勉強ができたわけでもないし、スポーツも得意ではなかったです。だんだん、学校に通う意味がわからなくなってきて、体調を理由にして休みがちになりました。そんな時、家のテレビで見ていたのがアイドルの番組でした。年の近い十代、二十代の女の子たちが歌とダンスを頑張っているのを見て、元気が出ました。さゆり先輩のグループがお気に入りでした。そのグループのことばかりネットで調べていたら、たまたま、さゆり先輩がグループに入る前に活動していた劇場が、アイドルオーディションを開いていることを知りました。私もさゆり先輩のようになれるかなって思って、親に頼み込んで、半ば不登校だった私の気分転換になるならと許してもらって、オーディションを受けました。まだ歌もダンスも下手くそで、自信がなかったから、合格した時は、素の自分を認めてもらったのかなって思って、生まれて一番くらい嬉しかったです。デビュー直後はライブで尻込みしたり、歌詞を間違えたりしましたが、その度に皆様から温かい声援をもらって立ち直ることができました。アイドル活動が、消極的だった私を変え、自然と勉強にも身が入りました。皆様と歩んだ十年間で、私はアイドルとして、人として大きく成長できました。ただただ感謝しています」

 ママは、そこで手紙を読むのをやめて、ファンの表情を確かめるように客席を見回した。それから、「卒業の理由はここからです」と述べ、再び手紙に目を落とした。

「でも、そんな親友のような皆様に、お別れを言わないといけません。私はどうやら、さゆり先輩のようにメジャーデビューすることはできないようです。私は元々、歌とダンスの才能があったわけではありません。皆様の声援のおかげでどん底から引き上げられ、何とかアイドル活動を続けることができました。自分の限界に薄々気付いていましたが、メジャーデビューの夢を皆様に公言していたので、期待を裏切っちゃいけないって気持ちを奮い立たせて、ボイストレーニングに励みました。それでも、さゆり先輩のように声がかかることはなかったし、私なんかより才能のある新人が次々と劇場に入ってきます。最近ようやく、実現の困難な私の夢に、皆様を巻き込んでしまっていることに気付きました。私は二十五歳の節目に、けじめをつけることにしました。でも、夢がついえた今、全力でパフォーマンスする自信がありませんでした。本当は生誕祭に出て、皆様に直接お別れを言いたいのですが、始めから終わりまで泣いてしまいそうで、それもできませんでした。手紙でお伝えすることをどうかお許しください。最後になりましたが、長い間、河井あやを愛してくれてありがとうございました。そして、さようなら。この別れが皆様の新たな夢の始まりとなることを心から願っています」

 ママは便箋を閉じて封筒にしまうと、ため息をついて、また話し始めた。

「河井からの手紙は以上です。皆様、ご清聴ありがとうございました。心待ちにされていた生誕祭が、卒業をご報告する機会となってしまったこと、改めてお詫び申し上げます。チケットは全額払い戻させていただきますので、受付の方にお申し付け……」

 ママは言葉を詰まらせた。視線の先で星さんが挙手していた。

「星君、どうしたんだい?」ママは驚いたからなのか、普段の口調に戻っていた。

「やりましょう、生誕祭」星さんが出し抜けに言うと、周りがざわめき始めた。

「やるって言ったって、本人不在でいったい何を祝うんだい?」ママは星さんの前に歩み寄って尋ねた。

「あややの新たな人生の門出です」星さんはそう答えると、目を丸くしたママに一礼して、後ろを振り返った。「どうだろう、みんな。私は不本意な会社生活を送っているけど、仕事帰りや休日にここに来て、あややのライブから元気をもらったよ。こちらこそ、ありがとうって言いたい。そのあややが、新しい道に進むことを決めたんだ。一緒に歩んだ親友として、盛大に門出を祝ってやらないか」

「賛成」という声が上がり、劇場に拍手の輪が広がった。星さんは、ママに向き直った。

「いかがでしょう、柊さん。このまま劇場をお借りしてもよろしいでしょうか」

「もちろん、いいに決まっているさ。あやは、本当にいいファンに恵まれたね。こんなことなら引きずってでも連れて帰るべきだったね」ママの目に涙が浮かんでいた。

 生誕祭実行委員会のメンバーがステージに運んだホールケーキには、「あやや 二十五歳の誕生日おめでとう」というメッセージとともに、笑顔の似顔絵があしらわれていた。星さんのリクエストで、河井が得意としたアニメソングのBGMが流れる中、ファンの男たちが本番さながらのヲタ芸を打ったり、河井との思い出話に花を咲かせたりしていた。宴は、元々の生誕祭の終演時間まで続いた。

 後片付けが済んだ後、星さんは僕のところにあいさつに来た。

「星さんの剣幕には驚かされました。でも、そのおかげで、ファンの皆さんに落ち着いて河井の手紙に耳を傾けていただくことができましたし、本人不在の生誕祭も喜んでいただけました」

 頭を下げた僕に、星さんは「お恥ずかしい限りです」と返し、「そういえば、あややに卒業を決断させたのは、どなただったんでしょうか」と疑問を口にした。

「僕ら三人しか関わっていないから、ママかもしれませんね」

 僕は、星さんを出入り口で見送ると、二階の支配人室に向かった。ドアをノックして入ると、ママが三つ編みをほどいているところだった。

「何だ、佐々木かい。今日はご苦労様でした」ママは眠そうにあくびした。

 僕は「どうも」と苦笑いして一人掛けのソファーに座り、「ところで、河井のことですが」と切り出した。

「今日、ママが出かけた先で、卒業を打診されたんですか。生誕祭が終わった後という約束でしたが」

「あぁ、私はあの子に呼び出されたんだ。あやはすでに腹を決めていて、手紙も書いてきていたよ。本当に頭の切り替えの早い子だ」ママはほほ笑んだ。

「それじゃあ、誰が」

 考え込む僕に、ママは「心当たりはないのかい」と語り掛けた。

「私は、あやの心を動かせるのは、一人しかいないと思うけど」

「あ」と、僕は閃いて、「ありがとうございます」と一礼して、手を振るママを背に支配人室を後にした。スタッフが帰って、誰もいなくなった一階のステージに腰を下ろして、夜分に申し訳ないと思いつつ、スマートフォンで電話を掛けた。コール音が五回鳴った後、さゆりが「はい」と不機嫌そうな声で出た。

「こんな時間にどうしたの? 美奈も寝ているのよ」

「夜遅くにごめんなさい。どうしても君に聞きたいことがあって。今日の生誕祭で河井の卒業が発表されたよ」

「そう、大変な一日だったわね。お疲れ様」

「ありがとう。それで聞くけど、河井に卒業を決断させたのは君なのかい?」

 さゆりは電話口でほほ笑んだようだった。

「あなたよ」

「えっ?」

「あなたなのよ。私は、あの時、病院で語り掛けられた言葉をそっくりそのままあの子に伝えただけよ。心に響くのは実証済みだもの」

「そうだったのか。教えてくれて、ありがとう……」

「あなたはもっと自信を持った方がいい。後輩たちの力になってあげて。美奈が起きちゃうかもしれないから、もう切るわね。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 電話は切れた。僕のIKTの任務は思わぬ形で完了したのだ。このステージではこれからも、多くの夢見るアイドルたちが期待に胸を膨らませて、歌とダンスを披露していくだろう。その夢に寄り添い、時に新たな道を示すことで、アイドルたちを幸せな人生に導いてやること。それが副支配人としての務めであるし、今、僕の夢になった。

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新しい夢 O・太郎 @o-taro

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