第3話 10月31日 夜

(3)10月31日 夜




 俺が、待ち合わせの「噴水ベンチ」に行くと、サヤは少し寒そうに身をこごめて待っていた。


「噴水ベンチ」は、俺が最初にサヤを見初めた場所であり、告白してオーケーをもらった場所でもある。構内では、「なげきのベンチ」とも呼ばれていたが、俺はそんなネーミングを意に介さず、サヤとの待ち合わせ場所に使っていた。その名前からか、待ち合わせをしているカップルに出くわすことがなく、便利だったからだ。


「サヤ、待たせたな」


「遅い。1年待った」


 俺は、その言葉を聞くなり、笑うサヤの手を取った。


「な、なんだよ」


「サヤ」


 俺は、声を低くして、ささやいた。サヤは、自然に黙り、おとなしくなった。


「本当に、1年待っててくれるか。いや、半年でいい」


「突然、何を……」


「サヤ。ちょっとベンチに座って」


 サヤは、俺のただならぬ雰囲気に、じっと黙ってなすがままにベンチに腰かけた。


「ちょっと、下を向いて」


 サヤは、おとなしく下を向いた。いつにないおとなしいサヤが、普段の勇ましいサヤとのギャップも相まって、かわいらしく映った。


「サヤ。ずっと、一緒にいてくれ。病めるときも、健やかなるときも、とこしえに……」


 俺は、この日のために買った、少し大判だが清潔で白い麻のハンカチを、そっとサヤの頭に載せた。


「サム、これは……」


「『結婚式』だ。ごめん、留学で金がなくなって、こんな形のプロポーズになったけど、気持ちは本物だよ。サヤ、……愛してる。そして、誕生日おめでとう」


 俺が、暗がりでそうささやくと、サヤは顔を赤らめたらしく、いつになくかわいらしく、両手でほおを押さえた。そして、感動に詰まった声で、とぎれとぎれに言った。


「あ、ありがとう……サム……」


 そして、サヤはハンカチを取って、俺の手にかぶせた。


「約束の、ハンカチ。忘れない。ありがとう。それから、あたしの話……聞いてくれる?」


「もちろんだ。何?」


 サヤは、目を伏せたようだった。そして、ぽつりぽつりと言葉を喉の奥から絞り出すように話した。


「あたし、子供ができたの。サムと、あたしの子供。……5か月半よ」


「えっ……本当か?!子供が?」


 俺は、喜びに声が上ずった。


「サヤ、俺が日本に帰ってきたらすぐに結婚しよう。待っててくれ。不安かもしれないけど、体を大切にしていてくれ。」


「ありがとう、サム。でも、内定していた出版社は、ちょっと断らなきゃね。入社してすぐに育児休暇はとれないだろうし」


「大丈夫、俺が支える」


「サム……意外に、頼りになるんだ」


「なんだ、そりゃ」


 俺たちは、声を立てて笑った。笑っていたサヤが、急に真剣な声で言った。


「生まれるかな、ちゃんと育てられるかな……」


「大丈夫、俺がいる。俺も、育児はちゃんとやる。俺一人で育てたって、いいくらいだ」


「ふふ、じゃあ、おまかせしちゃうかも」


 くすっと笑う、少し弱みを見せたサヤが、たまらなくかわいかった……。そして、サヤは、俺のごつごつした手を、やわらかい手で握りしめてあの言葉を言った。


「離れていても、見守っているから」


 俺は、何気なく答えた……。


「ああ、頼む。サヤが見守ってくれているなら、俺は頑張れるよ」


 なんて、意味深な言葉だっただろう……。あの時は、留学のことだと思っていたが、今思い返せば……。




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