第2話 10月31日 昼

「おい、サム」


 俺をそんな風に、ぶしつけに呼ぶのは、ただ一人。恋人の飯森サヤだけだ。俺は、映画研究会「KINO」の部室から、新しい映画のパンフレットをもらって帰る途中で、久しぶりに聞く恋人の声でふいに呼びつけられ、少しにやりとしながら、振り向いた。


 はたして、そこにはサヤが立っていた。今日は、珍しくスカートをはいている彼女は、腕組みをして、にっと笑ってみせた。いつか会った時よりふっくらしている。これは、ネタに使えそうだ、と思ったっけ。


「久しぶりだな」


「そうだな。サヤ、太ったか?」


「お前な、それがレディに対するあいさつか?」


「レディ?誰が?え、聞こえなかった」


「あ、た、し」


 俺とサヤは、しばらく見つめ合っていたが、やがて吹き出した。こんな風に軽口をたたきあえる仲の俺たちは、取り澄ました他のカップルからもうらやましがられるほど仲がよかった。


 サヤは、四年生で独文科の女の子。卒論はリルケで書いているらしい。23歳で、俺と学年は一つ違うが、年は二つ上だった。アクティブな女の子で、俺と知り合ったこの映研以外にも、登山やツーリング関連のサークルに入っていた。


 俺はそのころ三年生。英米文学科で、ナボコフを研究していた。卒論では、ナボコフの『ロリータ』を、映画と作品の両方から絡めて研究しようと思っていた。その次の11月から、不規則ではあったが、6か月の英語教師育成コースの研修留学に出発する予定だった。それで、サヤと自由に会える今日、10月31日に、特別な計画を立てていた。


「で、サム。話ってなんだよ」


「まあまあ。落ち着きなさい。特別な用事があるんだよ」


「お前の用事なんて大したことないだろ?いつも、ドイツ語の試験に落ちそうだとか、映画の字幕がわからないとか、泣きついてきて……」


 そこまで言うと、サヤはくすっと笑った。


「まあ、いいや。あたしも、ちょうど用事があってさ」


「そうか。じゃあ、お互いに話があったんだな。待ち合わせは、いつもの噴水ベンチでいいか?」


「いいよ。じゃあ、あとでな」


 そこで、俺たちは別れた。それが、あの日の昼だったな。




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