(1)《賢者》、と呼ばれる者たちがいる。

 《賢者》、と呼ばれる者たちがいる。



 水凪の街、藍都らんと

 街全体を編み目状に川が走り、人々は水とともに暮らしている。石で出来た四角四面の建物が川沿いに並ぶ中を、小舟と橋を駆使して住民は移動する。

 川にも建物にも、昼夜を問わずじっとりとした霧がかかっている。気候は一年を通して湿度が高く、肌寒い。

 水の流れはごく遅く、水面には濃い藻と油が浮かぶ。浮かんだ塵芥を割るように、幾らかの小舟が進んでいく。

 小舟を使わなければ満足に買い物も出来ないのであれば、ひとの動きはどうしたって鈍くなる。たまに灰色の建物の影に見える人影は、いささか闊達さに欠けていた。働き盛りの壮年や、走り回る年頃の子どもたちも同じように。

 水には困らないが、同時に水がなければ起こらなかっただろう衛生的な問題とも付き合うことになる。

 川の全てを綺麗にできるほど、政府の手は届かない。昼も夜も関係なく腐った水の匂いが街を覆っているし、季節ごとに水を媒介にした疫病が広がって死者を出す。

 けれど汚れてはいても水は水だ。水のない街に水を売れば金になるし、魚を捕まえれば食料にはありつける。

 藍都とは、良くも悪くも水とともにある街だった。



 そんな藍都の、片隅で――。

 一人の女が、小舟から街の石畳に乗り移ろうとしていた。背後では三人の連れと、一人の船渡しが女を見守っている。

 川沿いにはあちこちに船着場があるが、いずれも石塊を段に積み上げただけの簡素なものだ。船着場の下段には、小舟を繋ぐためだろう鉄棒が突き立っている。

久遠くおん、」

 女に呼びかける声があった。久遠は背後の、自分に呼びかけた男に頷いて見せてから、前に向き直る。

 鉄棒に視線を向けて、錆びきった鉄に縋ることを諦めて空手のまま石塊に足をかけた。不安定な状態のまま、いきおいに任せて重心を移す。

 同時に、小舟から伝った僅かな波が石塊を濡らした。乾いた部分を踏んだつもりで油断していた久遠の足が、ずるりと滑る。

 少しばかり眼を見開いて、けれど久遠に慌てた様子はなかった。

 ゆら、と久遠の橙色の長髪が揺らめく。傍らの鉄棒に髪が巻きついて、細い体を支える。

 髪を操るのは、久遠の最も得意とする魔術だった。魔術には口上や、学び舎で一般に教えられる典式てんしきを唱える必要があるが、相性の良い魔術であれば詠唱の必要もない。

 最初から魔術を使うべきだった。己の無精を、久遠は反省した。

 薄汚れてあちこちがささくれた小舟からようやく地に足をつけた久遠は、ほうと息を吐き出した。

 泥が僅かに衣服の裾を汚したのを見とがめて、眉が上がる。

 気を取り直すように長く伸ばした髪を軽く後ろに流せば、柑橘を思わせる髪が揺れる。薄暗い街にあって、鮮やかな色彩は少しばかり浮いている。

「だから言っただろう、危ないよって」

 背後から、先ほど名前を呼んだのと同じ声に言葉をかけられた。男の声は、僅かに笑みを含んでいる。

「いいえ、あなたは何も言っていません。ひとが悪いわ」

「転ばないことは判っていたからね」

 当たり前のように言われて、久遠は納得した。男が、仲間が傷を受けることを見過ごすはずがなかった。

 恐らく、最初から全て判っていたのだろう。波が小舟から石塊に渡ることも、渡った波が久遠の足を滑らせることも、久遠が魔術を使って回避するところまで。

 彼は、そういう男だった。

 久遠は石塊を数段上がって、周囲を見回した。

 同じ岸には近づこうとする小舟、離れゆく小舟、今まさに船着場について乗客が乗り降りしている小舟が浮かんでいる。道ゆく人々は、のろのろとした足取りで霧の中に沈み込んでいく。

 久遠と同行者に視線を向けている人間はいない。

 判断して、久遠は後ろを振り返った。

枷翅かばね

 先ほどとは逆に数段降りる。未だに不安定な小舟の上にいる男に、細い手を伸ばす。

「お手をどうぞ、枷翅。足元にお気をつけて」

「ありがとう、久遠」

 呼ばれた枷翅は、表情に乏しい顔をほんの僅か、和ませた。隣に視線を向ければ、二人の子どもが枷翅を見上げている。

 長髪と短髪の少女は、瓜二つの顔をしていた。双子なのだ。

 子どもに向かって、枷翅は声をかけた。

「お前たちが先にお行き。転んだら危ないからね」

 単純な優しさだけで構成された枷翅の厚意に、二人同時に首を振る。

「いいえ。主がお先に行かれませ」

 何の感情も籠もらない声で答えたのは長髪の少女だった。短髪の少女は黙りこくったまま、片割れへの異論はないらしい。

 三人のやりとりを見ていた久遠が、咎める声を上げた。

「枷翅、お早く」

 話すよりも早いと判断したのか、橙色の髪が枷翅の腕に絡みつく。

 魔術で持ち上げられては堪らないと考えたのだろう、枷翅が無防備に両手を上げた。降参の合図だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る