第60話 カザルスの魔法教室
カイロ、タハリール広場。
男は気がつくと、巨大なロータリーの中心に立っていた。
断続的に響く銃声や悲鳴。人々が逃げ惑っている。至る所に血まみれの人間が倒れていた。硝煙。燃えさかるトラックから立ち上る黒煙。見通しは悪い。広場は軍隊に囲まれているようだった。
男は何が起こったのか思い出そうとしてみた。が、まったく思い出せない。見ると、年季の入ったジーパンや半袖のシャツを身につけている。ありふれた普段着だ。たった今まで、ここで生活していたのだ。それなのに、自分が何者だったか記憶がない。左の首の付け根からは出血していた。
一人の青年が、少し離れた芝生の上で膝をついていた。美しい金髪、高貴な雰囲気を持っていた。
彼は倒れた女性を見て、失望したように首を振っていたが、立ち上がると、辺りを見回した。
青年は、男が立っているのを見つけた。そして、銃弾の飛びかう中をゆっくりと何事もないように歩いてくる。
青年は男の前に立った。男はその青年に見惚れ、動けなくなった。言葉がでない。青年は男を舐めまわすように下から上まで見る。そして、満足げに頷いて言った。
「今日からお前がティリエルである」
青年の瞳はエメラルドのように輝いていた。
男は、金髪の青年と一緒にイスラエルに入った。そこで傭兵として働くことになる。青年は、すぐに他の数人の仲間とともに、どこかへ消えてしまった。男はひとりになったが、戦場で生きていくことは容易かった。無敵の強さを身につけていたのだ。
感情は完全に消失していた。過去を思い出そうとすることもなくなった。あるのは青年に対する絶対的な忠誠心と、「町に溶け込み、そこで与えられた仕事を全うする」という単純な命令のみ。
男は、目的の分からない命令を忠実に守り続けた。
時折、衝動に襲われた。無性に人間の首を噛みたくなった。食べるのではない。ただ噛みたいのだ。自分の一部を分け与えたい。性的欲求に似ているかもしれない。
男は命令に反しない範囲でそれを実行した。戦場、あるいは、深夜のスラム街。人を襲う場所には困らなかった。
噛まれた人間のほとんどは、痙攣をおこして死んでいく。しかし、あるものは死なずに凶暴化した。もっとも、問題を起こせば、その後すぐに、警官や兵士に撃たれて死ぬのだが。
ごく稀に、男の忠実な
いつしか、
今まで一度たりとも失敗した事はない。命の危険を顧みず、「仕事を全うする」ために全力を注ぎ、またそれを可能にする力があったからだ。
無論、男の傭兵団を畏れるものも多かった。彼らを処理しようとした組織もあったが、試みはすべて無駄に終わった。派遣された暗殺者はすべて返り討ちにあった。
そのうち、彼らを消そうとする者はいなくなり、複数の組織間で、彼ら傭兵団に仕事を以来するための取り決めが交わされた。彼らは口が堅い。何の信条もない。依頼された仕事は必ず成功させる。ただの道具のように利用するのが賢いと分かったのだ。
その組織の一つがCIAだった。
平壌順安国際空港から南へ、車で三十分ほど行くと平壌に着く。その途中、幹線道路を脇に入ると、さびれた山の麓に警備大隊の基地がある。ここから細い山道を入って行くと10号棟村だ。
男は、普段なら、準備に準備を重ねる。セドット・ゴリオン空軍基地のセキュリティコードも数か月かけてスミスから手に入れたのだ。
が、ロシアから北朝鮮行きの旅客機に乗っていた時、スミスから一刻も早く実行に移すようにと連絡が入った。
命令は絶対だ。男と四人の
話は少し戻る。
会談が無事に終わり、翔一は列車に揺られていた。一輌がまるまる自分の部屋。豪華な装飾。
六日前に中国に行った時は、飛行機での日帰り。てんやわんやのお忍び旅行だった。列車だと片道だけで十七時間はかかるが、休むにはもってこいだ。
今は、
すずはいくつか離れた車両の個室で休んでいる。彼女は、持ち前の明るさで、いつの間にか多くの護衛や役人たちと仲良くなっていた。心配はいらない。翔一はそう思った。
彼はふかふかのベッドに横になり、大成功に終わった会談の喜びを、そして何よりも解放感を味わっていた。後は、細々とした手続き、後の事をこの国の人たちにまかせ、みんなと一緒に日本に帰るだけだ。
平壌に上陸して十一日。翔一は心休まる日がなかった。不安と恐怖、高校生には重すぎる責任に押しつぶされそうになりながら、身体と精神を酷使してきた。
大の苦手な現代社会の問題を考えると、何度も気が遠くなった。
ムリゲーだと思った。
日本や米軍との関係を知った時には「マジか」と思い、正直信じられなかった。
異国の地で、ほとんど常に人の目にさらされてきた。その苦労と言ったらない。翔一はこんな事、もう二度とごめんだと思った。
翔一は疲れ果て、そのままベッドで眠りにつく。
起きた時、カザルスはダイニングテーブル前の窓辺に立っていた。彼は遠く東の空を見ていた。
昼過ぎに北京を出た列車だったが、窓の外はまだ明るい。寝てからまだ数時間しかたっていないようだ。
「おお、翔一くん。起きたか」
カザルスは気づくと、翔一に声をかけた。
「あ、カザルスさん、すみません。ちょっとうたた寝しちゃって」
「気にするな。君は大役を務めあげたのだ。堂々と寝ていろ」
カザルスはやさしく笑った。翔一は、カザルスさんはいつ寝ているんだろうと思い、自分だけ寝てしまったことを悪いと思った。ひと眠りしたので、今では頭ははっきりしていた。気分も爽快だった。
「カザルスさん。よかったら、ここで休んでください。オレ、もう大丈夫です」
カザルスは嬉しそうに言った。
「わっはっはっ。ありがとう。翔一くん。わしは問題ない」
カザルスは翔一の顔色が良くなっているのを見ると、満足そうに目を細めた。
「それより、聞きたいことがあるんじゃないのか」カザルスは目をキラリと輝かせた。
そう言われて翔一は思い出した。今までは、すず先輩の救出、国家間の関係改善に奔走し、それどころではなかった。
が、ずっと、心の奥底でうずうずと感じていた疑問。
謎。
・船上での修行中、目の前に現れるようになった緑色の表、ステータス画面。これは一体何なのか? なぜ読めないのか?
・カザルスさんやエラリーはなぜ魔法が使えるのか? それを可能にする神とは何なのか? なぜこの世界でも魔法が使えるのか?
・オレにも魔法は使えるのだろうか?
翔一はそれらの疑問をカザルスにぶつけてみた。カザルスはダイニングチェアに腰かけると、翔一を手招きした。翔一はカザルスの向かいに座った。
「その表示だが、やはり巨龍の肉を食べたのが原因で間違いない。わしらの世界では普通の事だったが、生物を食うことによって、その食われた生物が持っていた能力を得られることがある。またその食われた生物が持っていなかった能力を得ることもある。はっきりしたことは、よく分からん。とにかくだ、翔一くん。君は巨龍の力を手に入れたのだ」
龍の力と聞いて、翔一は目を輝かせた。
「あの、どうやって画面に書いてある文字を読んだり、龍の力を使ったらいいんでしょう」
「うん。そうだな。よくは分からんが、わし等と君らでは言語が違っているからな。翻訳したらいいんじゃないか」
翔一が「どうやったら?」と聞くと、カザルスは「そりゃ、決まっている。努力だ。わっはっはっ」と答えた。
翔一は、カザルスさん、いつも大雑把だなと思った。それから、龍語というものもあるんだろうか、龍の神様とかいるのかな、と思った。
「魔法が使えるのは神様がいるから、なんですよね」
「うむ。そうだ」
「どこにいるんですか?」
カザルスは「どこ?」と不思議な顔をした。首をひねり、「そんなこと考えたことなかった」と答えた。翔一は、そうなんだと思い、本題に入った。翔一は両手をテーブルにつけて頭を下げる。
「カザルスさん。オレも魔法を使いたいです! どうか、教えてください!」
カザルスは、あっさり「いいだろう」と言って、「こんなのはどうだ」と、何やら、もごもごと呪文を唱えた。
すると、テーブルの上、肩幅くらいに広げたカザルスの両手の間、何もない空中に突如、小さな白い炎が出現した。
翔一の目が釘付けになる。マッチの炎だけが浮いている感じだ、色はプラズマっぽいな、と翔一は思った。
「火傷するから気をつけろ」
カザルスはニヤリと翔一を見る。
「やってみたいか」
翔一は削岩機のように頭を動かした。炎を消すと、カザルスは翔一の頭をつかみ、おでことおでこを付けた。翔一は頭の中に何かが流れ込んでくるのを感じたる。
カザルスに言われ、ステータス画面を確認すると、項目がひとつ増えている。やはり文字化けしているようで読めない。
カザルスは「こいつは初級魔法だ。場所は目の前、両手の間、炎の大きさは一定だ。やってみろ」と言った。
「名前、何て言うんです?」
カザルスは「名前? 気にしたことがなかった、が……」と不思議な顔をした。そして目をシバシバさせて宙を凝視した。翔一は、カザルスさんは老眼なのかな、と思った。
「えー、なになに、熱エネルギー転移……ユニットA1267485923……プロトコルナンバー743……、なんだこりゃ」
翔一は、とにかく試しにやってみることにした。が、なかなか成功しない。カザルスの呪文を真似してみたが上手くいかない。一回だけ、まぐれで炎が出現したが、高価そうなテーブルの真ん中を黒く燃やしてしまい、翔一とカザルスは「やばっ」と思った。
カザルスは魔法のテントを取り出すと、ベッドの脇に張り、「自由に使っていい」と言った。
翔一は、しばらくテントの中で、ひとりで魔法の練習をした。試行錯誤を繰り返す内に、炎が出るようになった。が、タイムラグが大きい。出そうと思ってから、五分経ってから出るのだ。
翔一は「これ、ライターを使ったほうが楽じゃん」と感じたが、夢にまで見た魔法を使えるようになり、大いに満足した。
彼は、この魔法に「アルティメット・エクストリーム・フレアー」と名前をつけた。
平壌。日朝首脳会談が終了した日。
武井、友香子、
武井は、娘をつれて帰国できることが決まり、また前々から、娘が四十年間、どのように暮らして来たのか知りたいと思っていたので、ほくほく顔をしている。
剛士は、すずに友香子や英女を守ってとお願いされ、この数日間、マリオのように周囲に目を光らせていた。本当は、すずの傍について北京に行きたかったのだが、そんな素振りは周囲にまったく見せてはいない。
一方、マリオは一人びくびくしていた。植樹がガサガサと風に揺れただけで、木剣を構え、過剰に反応した。
昨日、エラリーが、魔人エトセトラの増殖を感知したと言ったのだ。その時、一瞬だったが、24エクエス級の巨大な力もあったらしい。エラリーはそれが分かる特殊能力を持っている。
マリオは「早くカザルスさまを呼び戻そうぜ」と言ったが、カザルスはその時、北京。
一応、エラリーは、会談中の翔一の気を乱さないように、こっそりと電話で知らせたのだが、それだけじゃ納得できないマリオ。剛士や英女の目を盗んでは、エラリーに魔人の状況を聞き、また、日本人村に行く直前にも、カザルスを呼ぼうと提案した。エラリーは面倒くさそうに言った。
「マリオ、心配しすぎ。急がなくても、カザルスは明日には帰ってくるんだから。この国には兵隊さんが、いっぱいいるんだよ」
「百二十万人?……」マリオは思い出したように言った。
「そ。今日は、お祭り、楽しもっ。きっと美味しいもの出るよ」
お祭りで美味しいものという魔法の言葉を聞き、マリオは不服ながらも静かになった。
そうして、彼らは友香子の運転する黒いバンに乗り、百花園迎賓館から、日本人村へと向かった。
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