光かをる
坂水
1
最小まで絞ったベッドランプに道具の数々が浮かび上がる。光の下よりもよほど立体的に生々しく、それゆえ非現実めいて。
季節は盛夏を迎えており、この密室も寒いぐらいに冷房が効いていた。キャミソール一枚だけの肌は梨の皮めいて粟立っている。
「カヲルちゃん、本当に後悔しない?」
「知りたいと言ったのは私です」
ダブルベッドの上に向かい合って座る相手にはっきりと告げる。ソウヤさんは見た目こそウェイな人だったが、存外、真面目な性質だった。それはこの半月、バイト先であるレストラン〈カヤカヤ〉での働きぶりからもうかがえる。
そして互いの同意の元、可能な限り照明が落とされ、空調の唸り、押さえた息づかいだけが響く中。
肩に、腕に、首筋に。頬に、唇に、胸の先端に。丁寧で遠慮がちに、けれど徐々に大胆に、押したり、引いたり、潰したり。肌をなぞられ、撫でられ、這い回られて。
うひい、と。我ながら不気味な声音が漏れた。
ダメだな、駄目ですね。ソウヤさんがベッドランプのつまみを回し、私は壁のスイッチを押した。
一気に部屋が明るくなり、ソウヤさんが持ち込んだ道具の数々が光にさらされる。
大小様々の筆、綿棒、ねこじゃらし(猫用おもちゃ)、菜箸、おたま、トングなどなど。あと部屋の備え付けバイブレータ。主には棒状で、質感や硬さが異なったものたち。それらはバラバラと布団の上に撒かれ、何本かは床にまで散らばっていた。
筆は数本あり、手近な一本を拾い上げながら、書道がご趣味なんですか、と尋ねる。部屋に設置された自動販売機から定価五割増しのペットボトルの水を購入してから、ああ親父の、とソウヤさんは答えた。〈カーヤ〉一階の食料品売場の二倍の値の水をぐびんぐびんと喉に流し込む合間に、彼は続ける――親父の趣味。あとで返しておかなけりゃ。失くなったことに気付くと家族中に怒鳴り散らすからな。コーボー筆を選ばずを逆走してんだよ。あ、全部新品だからそこは安心して。
ぎょっとして拾い集め、床に這いつくばって残っていないか確認し、ソファの下にまで転がり込んでいた数本を救い出し、本数を数えるがそもそも何本あったかを知らない。
私は嘆息をついた。ソウヤさんはソファにどっかり座り込み、たくさんのボタンがついたリモコンを慣れたふうに操作していて、すっかりリラックスモードに入っている。
人生初のラブホテル――もといファッションホテル、あるいはレジャーホテル。しゃぶりつくさねばもったいなかった。バイト終わりで身体は汗と油と匂いでべたついている。
「お風呂使っていいですか?」
「いいけど、いいの?」
「よければ、いいですよ?」
「いいなら、いいけど」
どこか驚いたふうなソウヤさんを残し、私は浴室へ向かった。
浴室は広く、浴槽は大きく、壁にはテレビが掛けられており、女性用のアメニティグッズはもちろん、入浴剤、シャボン玉液まで備えてあった。あと巨大なエアマットまで。ああいうことに使用するのだろうけど、具体的にどうするのだろう。場慣れしているソウヤさんにあとで訊いてみようと思う。
キャミソール姿のまま、シャワーで浴槽をざっと洗い流し、湯をためる。待っている間、ふとシャボン玉液と吹口を手に取った。シャボン玉遊びなんて、十数年ぶりではなかろうか。ふうっと、ふうっと慎重に息を吹き入れ、手の平サイズの球を作り上げる。
目線の高さからゆっくりと下降する虹色の球体。輝いて見えるが、これは反射であり、シャボン玉自体が光っているわけではない。膜の表面で反射する光と内面で反射する光が互いに干渉し合い、光が強調されているに過ぎない。
浴室と脱衣所も兼ねている洗面所の照明を消せば、シャボン玉の輝きは失われ、やはり発光していないようだった。つまり、私とは違う。
浴室の照明を点け、再開したシャボン玉遊びに飽きると、今度はテレビを点けてみる。と、画面いっぱいに肌色が映し出され、なんだなんだと凝視しているとカメラワークが徐々に退き、高校生ぐらいの女の子と中年男性の交わったシーンだとようよう理解できた。十秒ほど見入った後、我に返り。
「ソウヤさん、ソウヤさん!」
慌てて浴槽の縁から腰を浮かせ、ベッドルームに向かって大声を上げた。手持ち無沙汰に点けてしまったが、これはもしか有料なのではないか。テレビ画面下のボタンを連打するが、喘ぎ声は止まらない。
洗面所の前で、なにどうしたの入っていいの俺服脱いだほうがいいと訊いてくるソウヤさんに、速やかに来てくださいと叫び、浴室のガラス戸を開け放ったその時。
さきほどのシャボン玉遊びが原因であろう。タイルにぬるり足裏が滑る。一瞬の浮遊感。そしてバランスを崩した私の腕ががっしり掴まれ、浴室と洗面所の境にて、私は分厚い胸板に引き寄せられていた。
一言で言えば、少女漫画のワンシーンだった。ラブホテルという場所はともかくとして。
私たちは身動きできなかった。瞬き一つできず、呼吸すら忘れ、ただ一点を凝視する。待ちかねた事象が唐突に起きたから。
未だソウヤさんに掴まれたままの私の腕が光を放っていた。あまりに唐突に、理不尽に、無節操に。
色は紫に赤味が混ざった暗紫紅。塩化ストロンチウム――化学実験の炎色反応で似た色があったかもしれない。陽の下や、照明を点けていたなら紛れてしまうほどのかすかな光。それは
・・・・・・光った、と。私たちは同時に呟いた。あ、あ、ん、あ、あん、という甘ったるい喘ぎ声をBGMにして。
ホタル、ウミホタル、ヤコウチュウ、チョウチンアンコウ、安瀬家の女。
これらの生物には共通点がある。自ら光を放つ、発光生物であるということだ。
安瀬家の女は、初潮を迎えてしばらく、身の内から光を発するようになる。安瀬カヲル――安瀬の女である私もかように光る。けれど、豆電球ほどのごく弱い光であり、他人に指摘されたことはなく、二十歳となった今日まで日常生活に差し支え無かった。
しかし、今年の春から始めたバイトの先輩であるソウヤさんに、この特異体質を気付かれてしまったのだ。
彼は五つ歳上で、ショッピングセンター〈カーヤ〉内にあるレストラン〈カヤカヤ〉に勤めて長い。にも関わらず初めて同じシフトに入ったのは七月中旬の頃だった。私が通う専門学校が夏休みになりバイト時間を増やしたこと、ソウヤさんは定職についていないふらり旅に出る自称自由人で、旅費調達のための絶賛労働期間に入ったこと。それらが重なった結果だった。そういうわけで、今夏は、店長やパートさんを交えつつ、実質二人で〈カヤカヤ〉を回していたのだ。
初めは見間違えかと思ったと、彼は言った。見間違えかどうか確かめるために見ていたら、三度四度と見た。だから訊いてみた、と。
共に過ごす時間が長いほど知られる可能性は高い。そして飲食店は肉体労働であり、疲労困憊していた私は時折身の内から発せられる光に対する注意を怠っていた。
訊かれたのはバイト終わりで、夜の十時過ぎ、人気が無い駐車場を二人きりで歩いている時だった。
身体は正直だった。知られた、見られていた、ずぅっと観察されていた。そう思った瞬間。私の身体は今だかつてないほど大きな暗紫紅の光を燃え上がらせた。どう取り繕っても否定できないほどに。
さて、発光生物は体内で起きる化学反応によって光を生み出す。その化学反応は、一般に「ルシフェリン・ルシフェラーゼ反応」という概念で説明できるという。
ルシフェリンは酸素と結びついて光を出す物質の総称。ルシフェラーゼはこの反応を促す働きをもつタンパク質の総称。発光の時は、ルシフェリンとルシフェラーゼが混ざり化学反応が起きているというわけだ。ちなみに〝総称〟というように発光生物によってルシフェリンとルシフェラーゼは違い、ホタルのルシフェリンとウミホタルのルシフェラーゼを混ぜても光らない。当然、安瀬女のルシフェリン・ルシフェラーゼもまたそれらとは違うはずで、どのようなしくみで光るのか、当然ながらわかっていない。また「ルシフェリン・ルシフェラーゼ反応」に当て嵌まらないしくみで光る生物も存在する。
そして経理の専門学生である私に化学やら生物やらの特別な知識があるわけではなく、本やネットでの知識には限界があった。
だからというか、せめてというか、やけっぱちというか。
「・・・・・・なぜ、光るのか知りたいのです」
真夏の夜の駐車場は、アスファルトに日中の炎熱を蓄えており、立っているだけで汗が滲んだ。外灯を真昼と勘違いした蝉がか細い声を上げて雌を呼び、湿度を帯びたぬるい風が纏わり付く。
一緒に調べてもらえませんか、という願いをソウヤさんがすんなり受け入れたのは、ただ早く解放されたかっただけなのかもしれない。
その後、腕は沈黙したままだった。ソウヤさんが掴んでも、撫でても、筆でこちょこちょしても、うんともすんとも言わない。少女漫画の一コマを再現したけれど徒労に終わった。ちなみに彼が棒状のグッズばかりを揃えたのは、ホタルミミズという発光生物が尻を突くと先端から光る粘液を出す、という記述を読んだからであり、素手で突いたらセクハラになるじゃん、という理由だった。つまるところ、私は粘液の分泌を期待されていたわけである。
そうこうしている間に〝ハグタイム〟と称される二時間が終焉に近付き、セットしていたスマホのアラームが鳴る。
ソウヤさんは帰るかーと立ち上がり、私もそうですねーと荷物をまとめた。支払いは、玄関の壁に設置されていた自動精算機にソウヤさんがカードを入れて済んでしまった(AVの追加料金は無かった)。そして、エレベーターを降りれば地下駐車場内で、あとは帰るのみ。私はラブホテルの会計システムのスマートさにある種の感銘を覚えた。
家まで送るというソウヤさんに、〈カーヤ〉まで戻って欲しいと頼む。原付を置き去りにしたままでは、明日の出勤に差し障ってしまう。
「次こそ、お風呂に入ります」
助手席でシートベルトを締めながら言う私に、ソウヤさんはまじでと呟いた。
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