春と雨 ――『春と骨』番外編

鍋島小骨

一 これを春休みと呼ぶのだろうか

 お姉ちゃんが里帰り出産に来た二月末あたりから、我が家は全く余裕を失った。

 ここはド田舎なのでそもそも病院が遠い。一番近い町にあるちょっと大きな病院がいいということになったが、うちから行くと車で片道一時間は掛かる。それで、お姉ちゃんはまずしばらくうちに滞在し、適宜通院しつつ、予定日の一月前からは病院のそばにウィークリーマンションを借りてお母さんとそこに滞在、という計画になっていた。

 正直、何でそこまでしてこっちで産まなきゃならないのか意味が分からない。お姉ちゃんが今住んでる土地の方がよっぽど都会で交通の便もよくて、きれいで大きい病院もたくさんあるのに。でも、お母さんがそう決めてしまったものは仕方がない。

 しかも、予定に反してうちに来たとたんに具合が悪くなり、入院することになってしまった。

 それでどうなるのかって? わざわざ考えるまでもない。お姉ちゃんが入院した二月最後の日、この時点で家にいたのはお母さんを除いてあと三人。お店をやってるお父さんと高校受験直前の弟、そして翌日の三月一日が高校の卒業式だった私だ。そこからお母さんが抜けるのだから、何が起こるかなんて知れている。

 つまり、まるで当然という形で、頼んだよとかそういうキーワードも全くないまま、すべての家事のバトンは私に押し付けられた。




  ◇◇◇




 三月一日、氷雨ひさめの降る高校の卒業式にお母さんはもちろん来なかった。昨日入院したばかりのお姉ちゃんに夜通し付き添っているから、家に戻ってすらいない。お店をパートさんに任せて来る予定だったお父さんも来なかった。パートさんが急病で代わりの人が見つからなかったらしい。

 式が終わって友達グループとひとしきり騒いだあと、家族が迎えに来る予定のその子たちから早めに別れた私は、コンビニの小さな透明ビニール傘を差し、まだ冬の匂いのする通学路を一人で歩いて家に帰った。

 何なら道端の雪もまだ溶けていない。もう卒業するし面倒くさいと買い換えないでいた通学用の古いブーツは今日一日を耐え切れなかったらしく、ちょっと水が沁みてくる。この北国の、雪解け前の雨だ。本当に、身に沁みるように冷たい。

 ひとりになった、と思った。

 小学校から持ち上がり、と私たちはよく言ったものだった。あんまり田舎なので、小学校も中学校もひとつ。地元と言える公立高校もひとつっきりで、それも一クラスしかないから廃校が近いと言われているくらいだ。よっぽど頭がよくて外に出られる子以外は、私たちはみんなこの小中高に通う。小学校、中学校、高等学校、という部分以外は名前すら同じこのルートを持ち上がっていく。

 その十二年間の持ち上がりが今日、ついに終了したのだ。

 今度四月になっても、同じメンツがまた同じ場所に集まって通うということはもうない。私たちは高校を卒業したのだ。それ以上の持ち上がり先はなかった。

 まやは汽車で3時間もかかる都会で一人暮らしして専門学校に行く。ヘアメイクアーティストになりたいとか何とか。

 ななは一番近い町の私大に行く。一応ねだってみたが一人暮らしは認めてもらえなくて、家からバス通学する予定らしい。

 さきは農協に就職。結構狭き門だったけど、あの子はおじいちゃんやお父さんのコネがあるんだよな。

 つきは叔父さんの牧場を手伝う予定。最近は都会のイベントにお店を出したりするので、地元をよく知ってる若い女の子は大歓迎なんだって。まあ菜月は確かに販売向き。

 あやは受験の結果がまだ出ていない。本人は受かるわけないと言ってて、四月からは家の手伝い。大きな果樹園だからおばさんは助かるらしい。

 で、私は。

 受験も就活も何もしなかった私は。

 みんなの中で一番、何もしなかった私は、当然ながら何の変化もしないまま、こうしてただ家に帰るのだ。

 そしてもうどこにも行く所がないのだなあ、と思う。



 帰宅して最初に遭遇したのは弟のそうだった。颯太はいつもと同じく、図体ばかりでかくなってしつけのできていない犬みたいに台所を荒らしていた。


「颯太、お母さんまだ帰ってないの?」


「あ、さく、家空けんなよ、誰もいないんだからさあ。メシ!」


「家空けんなってあんた、私、卒業式だよ」


「なあ、メシって!」


「うっさいなあ」


 カバンと卒業証書を床に放って、洗面所で手を洗って、わあわあメシメシうるさい颯太に部屋に行ってなと怒鳴り、炊飯器を覗いて冷蔵庫と冷凍庫を覗いて、颯太が荒らしていた食器棚の下の食材入れにしている所を覗いて片付け、卵炒飯とインスタントスープを作る。ついでに林檎を剥いてやろうと気付く。颯太は圧倒的に野菜果物不足だ。

 それから私は、まじかよ、と思う。

 女子高生最後の日に、もう二度と現役女子高生として着ないであろう制服を着て最後にやることが、態度の悪い弟の昼飯作成。ほんと、まじかよ。

 部屋に行ってろと言ったのに颯太は居間のソファにだらしなく座ってテレビのチャンネルをひっきりなしに変えている。受験まであと三、四日しかないのに。いくら持ち上がりの底辺高だからって、未だに二桁の掛け算を間違う颯太みたいなバカが本当にちゃんと受かるんだろうか。


「颯太、できた。手洗って」


「こっちで食べるから」


「テレビ消して食卓で食べて」


「何で。いいだろ別に」


「留守の間、テレビ見ながらご飯食べさせるなってお母さんに言われてる」


「いねえんだからいいじゃん。黙ってろよ」


「私は嘘がつけないんだよ。また写真撮ってお母さんに送るぞ」


 んだよクソブス咲良、色黒デブ、とかほざきながら颯太はのろのろした動作でテレビを消した。

 私が嘘をうまくつけないのも、テレビ見ながら飯食ってるだらしない颯太の写真をお母さんに送ったことがあるのも全て本当だ。颯太は手を掛けさせる割にはこうして脅すとすぐ折れるところがある。結局、お母さんに怒られたくないのだ。私の言うことを聞いてるのではなくて、お母さんを怒らせたくないだけ。中三にもなって、根本的にへたれなんだよな。



 食事を終えた弟を部屋に追い立てて食器類を片付け終わるとようやく部屋に戻った。

 チラ見したスマホには未読が死ぬほどたまっていて、多分今日撮った写真とかが死ぬほどいっぱい来ているはずで、でも今そんなものを読んだり送ったりしていたら月のはじめからギガがどんどん減ってしまうから、Wi-Fiスポットになってる店に行くまでは見ない。なんかこのギガが減るっていう言い方がどうとか前に化学の井上いのうえがぼやいていたけど、あ、そういえば井上にも担任にもちゃんと挨拶しなかったな。まあいいか。どうせみんな、今日明日中にうちの店に来るに決まってる。

 制服を脱ぐ。ああ最後だな、と思う。もうギャグでしか着ないだろう。一生着ないかもしれない。

 全て終わってしまったのだ。

 進学すればよかったのかなあ。でも、町に行っても気後れしそう。それに、颯太が大学に行くことになったら金がきついな、とお父さんもお母さんも何度も言っている。颯太には言わないけど、私には聞こえるくらいのところで何度も。べつにそういうつもりで言ってるわけじゃないとは思うけど、やっぱり聞くと遠慮も生まれてしまう。私が進学したら多分本当にヤバいんじゃないかと。だって、颯太はあの通りのバカだから国立も奨学金も無理だろうし、部活はやりたがるだろうし。

 ジーンズとパーカーに着替えたところで、お父さんから電話がきた。昼飯食ってないから一時間くらい店に来てくれ、という。卒業式どうだったとか、行けなくてごめんなとか、何もない。私も親孝行で店番するんじゃなくWi-Fi使いたいだけなんだから、行くのはまあ、いいんだけど。

 脱いだ制服をハンガーにかける。昨日までとまるで同じように。もう二度と着る必要のないその制服は、抜け殻のようにも遺体のようにも思えた。




  ◇◇◇




 颯太の受験の前夜になってお母さんは病院から帰ってきた。本当はこの間、二回くらい戻ってきていたんだけれど、私が店番をしている間とか買い物に行ってる間にちょっと帰ってきて短時間に用事を片付けてまた病院に出掛けていくから、ほとんど会話もしていなかった。

 夕飯が終わったあとに帰ってきたお母さんは私の顔を見るなりこう言った。


「颯太、ちゃんと勉強させてる? ご飯は? 買い物は? どうせ無駄遣いしたでしょう。ほんとに、こんな時にあんたじゃお母さん心配でしょうがない。でも他に誰もいないし」


 やはり、卒業式どうだったとか、行けなくてごめんとか、そういうアレではなかった。まあ、いいんだけど。

 お母さんは妙に興奮していて、颯太の部屋に勝手に入って行って最近そういうのをいやがる颯太とちょっと揉め、居間に降りてきて、ゆうのことも颯太のこともお母さんばっかり気を揉んで大変な思いしてるのにみんな知りもしないでもうイヤ! とか何とか少し機嫌が悪くなったあと、急に出ていったかと思うとスーパーの袋をぶら下げて帰ってきて大量のトンカツを揚げ始めた。夜の九時半に。

 元々今夜は木の葉カツにする予定だったところを、颯太がくそウザいゴネ方をした結果二度目の買い物に行ってまでチーズインハンバーグ乗せのカレーライスという重量級のメニューに変更になり、しかも颯太はそれを三人前くらい食い散らかしたわけなんだけれど、お母さんはそのたった二時間後に脂身たっぷりのトンカツを山盛り食わせようと思い付いてしまったらしかった。夕飯はもう済んだし颯太はいっぱい食べたと言ったんだけどな。

 何にせよ、すでに揚がり始めたトンカツを誰も止められはしない。タンパク質の熱変性は不可逆だって化学の井上も言ってた。私は大分うんざりした気持ちで、部屋にいる颯太にスマホからメッセージを送った。お母さんがだいぶキマッちゃっててすごい量のトンカツ揚げてるよ。あんた食える?

 結局颯太はトンカツを一枚半しか食べられず、お母さんは静かに取り乱して、颯太の具合が悪いのではないか、受験は別室受験にさせてもらうよう今連絡した方がいいのではないか、とか言い出した。こういうのはいつものことなんだけど最近は特にしんどくなる。

 颯太はさっき死ぬほど食ったばっかだしこれはよく食えた方だしとにかく明日受験なんだから今日は早く寝ないとダメじゃん、颯太お風呂入ってもう寝な、と私は強引にその場を片付けた。

 後に残った五枚半の巨大トンカツをじっとり眺めながらお母さんの様子がまだ怪しいので、明日颯太のお弁当をカツサンドにしたらいいじゃん、と言ってみるとお母さんはようやく落ち着いてきたらしい。そして、そうだよね、あんた気が利かないからカツ用意してなかったでしょう、ちょうどよかったでしょ、と言って笑った。

 まあ、いいんだけど。冷蔵庫の豚肉薄切りは、明日生姜焼きにでもしてやろう。




   ◇◇◇




「お弁当温めますか?」


「結構です。さて、タンパク質の熱変性は」


「不可逆」


「よろしい」


 あれから約二週間。公立高校の合格発表を翌日に控えた日曜の昼過ぎ、ピッピと音を立てながらバーコードをレジに読ませている私を、化学の井上はニコニコしながら見ている。井上はうちのコンビニのすぐ近くに住んでいて、いつも弁当とか発泡酒とかを買い、弁当のレンジアップは不要と決まっている。

 忘れるなよお、と言いながら小銭で支払いをする井上にレシートを返しながら、熱変性役に立つときあるんすか、と言うと、不意に真面目な顔で返事があった。


「役に立つかどうかで価値が決まらないこともあるんだよ」


 そんなもんだろうか。

 井上が自動ドアを出ていく。まだ冬の匂いのする空気が流れ込んでくる。

 ジーンズのポケットの中でスマホが規則的に震えた。店内はWi-Fiが繋がるから便利だ。

 画面を見てみると、まや花からだった。家を出てアパートを借りるので、部屋の契約に行っているらしい。私たちが普段滅多に行かない都会の写真が二枚くらい届いていた。がらんどうの白っぽいアパートの部屋。窓から見える通りとその向こうの角にあるコンビニ。この辺りにはない、うちとは違うチェーンのコンビニだ。

 まや花たちとは先週、一泊二日でその街に行ったばかりだった。列車に乗って、大きな駅で降りて外に出るだけで迷って、歩いて、買い物して、お茶して、夜はご飯を食べに出掛けた。

 いるときはとても楽しくて面倒なことは忘れていられたのに、帰ってくる列車の車内でも到着した地元駅でも、何故だかものすごく悲しかった。全身の血がゆっくり流れ出すみたいにつらかった。

 またみんなで会おうね、ずっと仲間だよね、と七海は言ったけど、多分百パーそうはならないだろうな、と思う。お姉ちゃんのグループも、高校卒業から一、二年でバラバラになったのを私は覚えている。毎日一緒のところでつるんでいてさえたまには小さな喧嘩があるのに、全員別々のところに行ったらなおさら話題も考えも一緒ではなくなってくる。あの子は変わっちゃったとお姉ちゃんは泣いたり怒ったりしたし、その人の方でもゆうは変わったねと言っていた。お互い様なのだろうと思う。

 私の友達の中にだって今の時点でもう、SNSのグループに全然投稿しなくなっている子もいる。卒業してまだ三週間も経っていないのに。

 そういう感じに終わっていくのかなあ、と思う。



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