第九章

第九章

「理事長、理事長に速達が来てます。」

また、焼き肉屋の女性従業員が、速達と書かれた茶封筒を持ってきた。

「あ、ありがとうございます。」

ジョチは、従業員に礼を言って、それを受け取った。差出人は、模範的な達筆な文字で、磯野水穂と書かれていた。とりあえず、封を切って読んでみると、檀紙で作られた便箋に、見事な毛筆で書かれた文字が並ぶ。素晴らしいとしか言いようがなく、書道展でも開けそうな文字だ。読み終わって、彼はあることを決断する。


数日後、午後一時に、製鉄所の前に、黒いセダンが一台止まった。

「水穂ちゃん、約束通り見えたよ。どうする?お通しする?」

恵子さんが四畳半に入ると、水穂は布団の上で、せき込みながら

「すみません、お願いします。」

と、だけ言った。

「あんまりよさそうじゃないけど、、、。」

恵子さんは心配したが、前日に懇願されたことを思い出して、客人を迎えるために玄関へ戻った。その後ろ側で、苦しそうにせき込む音が鳴っていた。

「あ、そうなんですか。まあ、仕方ないものはどうしようもないですからね、、、。」

廊下を歩きながら恵子さんが現状を語ると、ジョチは一つため息をついた。

「ええ。本当にね、あの時よくなったときの顔が忘れられないから、あたしはつらくて仕方ないですよ。」

「まあ、確かにそれはわかりますが、物事は思うようには行きませんよ。多少あきらめることも必要なのかもしれません。ある程度は。」

「曾我さんにまでそういわれちゃ、あたしはやっぱりダメなのかしらね。」

「だから、そういう風に自分が悪いと言ってはいけません。女性はそうなりやすいんですけど、そういう余計な心配は、何もよいものを生みませんよ。」

「そうですね。ごめんなさい。まあ、私は、役に立ちませんけど。とりあえず、どうぞ。」

恵子さんは、四畳半のふすまを開けた。彼女自身は、利用者の食事があると言って、出て行った。

「こんにちは。」

部屋に入ると、まず聞こえてきたのはうめき声であった。座ろうと試みていたが、胸の痛みのせいで、できないのだということが分かった。

「無理をしなくても結構ですよ。座るのが難しいのなら、寝たままでまったくかまいません。」

ジョチは布団のすぐ隣に座って、そっと彼を布団に寝かしつけた。

「すみません。本当は、しっかりしなければいけないと思ったんですが、どうしてもできなくて。」

「あんまりしゃべらないほうがいいのではないですか?そこまでお悪いのに、なぜ今日呼び出したりしたんです?もし、おつらかったらまた日を改めて、出直してもいいですよ。」

「いえ、どうしても今日でないと、お忙しいでしょうから、、、。」

「あ、気にしないで結構です。確実に何月何日とは決めないほうが良いですね。その時にまたお悪いと、さらに延期ということになってしまいますし。ですから、体調がよろしいときに、お電話でもしてくだされば、こちらも予定を調整し、伺うようにしましょうか。」

「お願いです。」

水穂は、弱弱しいが、しかしきっぱりとした口調で言った。

「蘭の会社をつぶすのはやめてください。」

「蘭の会社?あ、伊能製紙ですか?ご心配なく。あの会社をどうのこうのという目論見は、現在のところ、まったくありません。」

「そんなわけないですよね、、、。」

水穂はそう言いかけてまた、せき込んでしまうのである。

「まったくないと言っているのに、なぜそう思うのですか?」

「蘭も、蘭のお母さんもすごく落ち込んでいました。波布が、うちの会社をたたきのめしたって。波布が、会社のすぐ近くに、保育園を建設して、次の手を打つ機会を待っているって、、、。」

再びせき込んでまた続けた。

「波布の、よくある手口として、会社の一番弱い人から、持っていくんだって、蘭は、そういっていました。あの時も、そうだったそうですね。ほら、加藤さんの時です。あの時もそうだったけど、会社で、いじめられている、加藤さんを、味方につければ、会社をつぶすのは、簡単に、できるから、、、。」

再度せき込んでまた続ける。

「その時は、失敗したそうですけど、有力な、会社の後援者が、死亡したのをきっかけにして、また蘭の会社を、つぶそうと手をまわした。今度は、保育園を使って、一人の職人さんを、味方につけて、、、。」

そこまで言いかけたが、せき込んで最後まで言えなくなってしまった。

「まったく、蘭さんのでたらめも、相当なものですね。これでは、あなたにとって、負担になるのも当然のことだ。もう一度言いますが、僕は、蘭さんの会社をつぶすことは毛頭ありません。それに、伊澤園長があそこに保育園を作ったのは、ただの偶然のことで、会社をつぶそうというわけではありませんからね。いいですか、そこは頭の中に入れておいてくださいよ。蘭さんが、勝手に推理して、そういっているだけでしょう。」

「それなら、どうしてここに、、、。」

なんとか口にしたものの、胸部に痛みを感じ、同時にうめきながらせき込まなければならないのである。

「水穂さん、苦しいのなら、薬飲んで少し休みましょうか。お伝えしたいことは、また後で聞きますから。今日はここまでにして、また出直してきますよ。」

悔しい顔をするが、胸部の痛みのせいで、それ以上発言もできなくなってしまうのである。

昨日はさほどつらいということもなかったが、今日は、朝起きたらいきなりせき込んで、動けなくなってしまったのである。まさしく予想外の出来事で、布団に寝ているのを強いられるなんていう事実を受け入れるのもつらかったのだ。

「仕方ありませんね。僕も経験しているからわかりますけど、何か出かける約束をして、前日までよかったけど、約束していた当日に体調が悪くなって、約束は取りやめということは、本当によくありました。まあ、そういうときは、薬を飲んで休むのが一番です。そして、また日を改めて、実行すればいいのですよ。さあどうぞ。」

目の前に、粉薬を溶かした水の入った、吸い飲みが差し出された。今までは天からの水が入った、ひしゃくのように思っていたが、今は銃口を突き付けられたように見える。

「水穂さん、本当にいいんですか。今日よりも、もっと悪くなっていたら、大変でしょう。ほら、どうぞ。」

仕方なかった。胸部の痛みのせいで、逃げるということはまずできなかった。それを取ってもらわなければ、これ以上弁明することもできないのもわかっていたから、水穂は、吸い飲みに口をつけて、中身を飲み込んだ。

「たぶんこれで楽になると思いますからね。眠っても構いません。もし、必要があれば、恵子さんか須藤さんに、連絡をしていただけるように、言っておきます。」

「はい。」

やっと大きく息を吸えた。即効性がある薬なのか、すぐに胸部の痛みも取れたし、咳も吐き気もなくなった。でも同時に猛烈に眠くなって、目がひとりでに閉じてしまった。本来なら、症状が取れて、雲に乗ったように気持ち良くなるのだが、今日は、ブラックホールに吸い込まれるような気がしてしまった。

「わかりました。じゃあ、また日を改めて伺います。今はとりあえず、体調をよくしてくださることに、努めていただけますよう、、、。」

と、聞こえてきたけど、それ以降は聞き取れなくなってしまった。眠ってしまったのである。

しかし、薬のおかげで咳や吐き気が取れるのであれば、それはよいことであるが、同時にこうして猛烈に眠気を催してしまうのは、やっぱり副作用がきついということになるので、ちょっと不憫なところがあるなと、ジョチも思ってしまうのだった。

「しかたありませんな。」

仕方なく、ジョチは、水穂にかけ布団をかけてやった。同時に玄関先に置かれていた、柱時計が、二回なった。水穂はそれにも反応せず、眠っている。

「水穂さん。」

声をかけても反応しない。静かに眠っているので、起こしてしまうとかわいそうかと思って、それはやめることにした。

「申し訳ないのですが、次の訪問先がありますので、今日は帰ります。また、体調がよくなりましたら、連絡くださいませ。」

眠ったまま、返答はなかった。

「仕方ないですね。こうなることは、ある程度は認めなければいけませんね。また、来ますからね。」

それでも、返答はないので、ジョチは改めて布団を整えてやり、渡すつもりだった羊羹の箱を枕もとに置いた。

「ゆっくりお休みください。」

そういって立ち上がり、四畳半のふすまに手をかけ、堂々と開けたが、それにも反応しなかった。

「しかし、このようになるのなら、もう、さほど長くはないでしょうね。」

一言、言い残して四畳半を出て行った。


その後、訪問を終えて、自宅兼店舗に戻ってきたところすぐに、

「理事長。また今日も速達が来ています。」

また女性従業員が、彼に速達を渡した。

「あ、どうもありがとうございます。」

とりあえず、封筒を受け取って、書斎に戻り、封を切って読んでみることにした。宛先の字面を確認すると、弟が提携している焼き鳥屋の親父さんの筆跡かと思ったが、差出人は影山杉三となっている。中には、手紙が一枚と、何かのチケットを入れてあるのか、富士市民文化会館と書かれた袋が入っていた。

「前略、こないだは、長居をしてしまってごめんな。これは、焼き鳥屋の焼き焼き親父に書いてもらったものだ。まあ、文字が書けないので、仕方ない。」

つまり、杉ちゃんが、自分に手紙を送るため、焼き鳥屋の店長に頼んで、自分のいうことを書きとらせ、代筆してもらったのだろう。まったく、杉三らしい話だ。

「で、ここで本題に入るが、ちょっと急な話かもしれないので、これそうだったらでかまわないから、今度の日曜、午後二時に富士市民文化会館、小ホールに来てくれ。演目は、君が大好きな、ゴルドベルク変奏曲だ。世界的に知られているクラヴィコードの名手だそうです。本物の、ゴルドベルクをぜひ味わってこよう!よろしくお願いします。影山杉三。」

まったく、あの時以来、ああしてよくちょっかいを出すようになった、と思って、とりあえず机の中に、その手紙をしまった。同時に机の中から手帳を取り出し、今月の予定を確認してみると、次の日曜日は、空欄になっている。

「よし、行ってみるか。」

と、ため息をついた。


そして、当日の日曜日。

小園さんにお願いして、市民文化会館に送ってもらい、チケットをもって、小ホールの前にやってきた。

「やっほ!」

入口の前に、杉三が待っていた。また、白と黒の麻の葉柄の、黒大島を身に着けている。

「あと、30分で開演だ。そろそろ入ろうぜ。」

「わかりました。じゃあ、入りましょう。しかし、コンサートに、黒大島で来場するとは、いかがなものでしょうか。」

あきれた顔で、ジョチは言った。

「関係ないよ。黒大島が、一番着やすいから、一番いいのさ。人間誰でも、着やすいものが一番いいんじゃないかなあ。」

でかい声で笑いながら、杉三は、小ホールに入った。

「一体今日はなんでまた、こちらに呼び出したんですか?」

とりあえず車いす席に杉三を座らせて、ジョチは近くの椅子に座った。

「あ、今日はね。こないだ図書館に行ったときにね、ポスターがはってあったの。それで、すぐに市民会館に電話したんだけどさ、一枚って言ったのに、なんか手違いで二枚送ってきた。捨てちゃうのもなんかいやだからさ、それで君を喜ばせようと、呼び出したんじゃないか。」

「そうですか。その程度ですか。」

思わず笑ってしまうが、杉三にとって、こういうことは当たり前のことである。蘭のように、転売とかそういうことは絶対しない。

「それにしても、杉ちゃん詳しいですね。こんな有名な演奏家をよく知っていますね。」

「有名も無名も関係ないのよ。上手けりゃいいのよ、上手けりゃ。」

「そうですか。すごいこと平気で言うんですね。」

そうこうしている間に、びびーと音が鳴って、開演の挨拶が開始された。

演奏者は、かなり高齢のおじいさんで、目が不自由であった。付添の女性が、ステージの真中へ連れてきて、設置されているクラヴィコードの前へ座らせる。そして、鍵盤に手を置いてやると、演奏者は演奏を開始した。

「音が小さくて、後ろの席の人が聞こえないから、マイクで音を拾うんだよ。恥ずかしいねえ。」

杉三が、小さい声でそういうと、周りに座っているおばさんたちも、そうねえという顔をする。クラヴィコードという楽器は、音量が小さいので、どうしてもホールで演奏するのには、音量が足りないのである。

それでも演奏は実に見事で、人生観のもろに出る演奏であった。

この曲はよく、人の一生と対比されるという。最初のアリアで出生の喜びが歌われ、そのあとの変奏で、人生の山あり谷あり様々な面を映し出し、最後のアリアで、静かに死んでいく、という設定になっている。なんとも作曲者のバッハに、精神科医が、依頼したというから、そういう高尚な内容が用いられているのだろう。総称すると、人生は捨てたもんじゃないということだということで、今少しづつ人気の出てきている曲である。

変奏がおわって、最後のアリアが終わると、会場は割れるような大拍手になった。

でもなんだか、必ずしも、最後のアリアのような、美しい死に方をすることは、どうなのかな、という気がする。全部の人がそうなるのか、というとそうは限らないのではないだろうか。

少なくとも、先日会った水穂さんは、ああいう安らかな逝き方をできるだろうか、と考えると、そうはならないのではないだろうか、という気がしてしまった。

「僕は、水穂さんに、アリアを与えるのを、妨げているでしょうか。」

杉三は無視してアンコール演奏を聴いている。その方がいいかと思ったので、それ以上は言及しなかった。

アンコール演奏は、それまでの演奏とはえらい違いの、明るく楽しい曲で、中には手拍子をする客もいる。こういう明るい曲で演奏を〆るコンサートはよくあるが、どうもそういう終わり方をすると、なんだかそれまでの内容が、消されてしまったような気がした。


アンコールも終わって、二人はホールを出た。そのまま別れて、家に帰る予定であったが、ジョチが迎えの電話を取り出そうと、カバンを開けたところ、

「時間があるから、ちょっと寄っていかない?」

と、杉三がお楽しみはこれからだぜ、というように言った。

「どこへですか?うちのものに連絡しておきます。」

「いいよ、連絡なんて。みんな忙しいんだろ。そんな中でいちいち連絡したら、かえってうるさがれるよ。」

と、杉三は、市民会館の入り口から、道路を歩き始めた。

しばらくすると、「焼き鳥ほていや」が見えてきた。杉三は何とも躊躇せずに店に入った。

「こんにちは!」

「おう、杉ちゃん。また来たな。」

「今日はねえ、僕の友達を連れてきたよ。おい、入れ。」

杉三に言われてジョチも焼き鳥屋に入る。

「おうそうか。じゃあ、どんどん食べてもらわなくちゃ。二人で適当に座ってくれよ。今、メニュー持ってくるからよ。」

二人は、その通りに、テーブル席に座った。ちょうどそこへ、店長が、メニューをもってやってきた。

「やだ、り、理事長ではないですか!」

ぎょっとして、思わずメニューを落っことしそうになる店長。

「あ、すみませんすみません!こないだの監査では、何も異常はないと書いて、提出したはずですが、まだ、何か不都合がありましたでしょうか!」

「いや、何もありません。ただ、この人が一緒に来いというので、一緒に来ただけです。」

ジョチがそう答えると、

「申し訳ありません!あの、これから、不正は一切しませんので、今日のところは、、、。」

と、ペコペコ頭を下げるのである。

「店長さん、そういうことを言うんじゃなにか悪事をしたのかい?」

杉三が聞くと、

「そういうことではないのですが、理事長が来店するんですから、そういう目的以外ないじゃありませんか!」

と店長は応えた。

「だから、そうじゃないんだよ。それより腹がへった。早く焼き鳥食べさせてくれないかなあ。」

杉三がそういうと、

「わかりました!すぐにおつくりしますから、何なりとおっしゃってください。絶対に不正はしませんのでご注文をどうぞ!」

と、また頭を下げる店長だった。

「もう、うるさいねえ。変な挨拶は抜きだ。注文は、焼き鳥特大サイズ、とりあえず六本。僕が五本で、」

「ああ、分かりました。理事長、一本でいいんですか?」

杉三が言いかけると、店長がすぐに間に入っていった。

「結構です。焼き鳥特大サイズですから、一本あれば十分です。」

ジョチが、とりあえず返答すると、

「わかりました!お飲み物はどういたしましょうか!」

店長はまたそう聞いてきた。

「はい。お酒は苦手なので、とりあえず、ジンジャエールで結構です。」

「わかりました!あと、食後のデザートなんかは、」

「いちいち、聞かないで結構ですよ。食べたいものが出たら、追加しますから、その時に来てください。」

「わかりました!焼き鳥特大サイズと、ジンジャエールですね!しばらくお待ち下さい!先ほども言った通り、不正はしませんので!」

店長は敬礼して、厨房に戻ろうとしてしまうので、

「ちょっと待って、僕のは?」

と、杉三は急いで止めた。

「あー、あ、杉ちゃんごめん!えーと杉ちゃんの注文は、なんだっけ?」

「だから言っただろ。焼き鳥特大サイズ、五本!飲み物は、オレンジジュース!」

杉三がちょっとムキになってそういうと、

「すまんすまん。じゃあ、お二人のご注文は、確かにうけたまわりましたので、しばらくお待ちください!」

また最敬礼して、店長は厨房に戻っていった。

「店長さん。伝票を書くのも忘れてますね。それで正確に客の注文を間違えずにできるのでしょうか?」

とジョチが言っても、反応なしである。

「そんなにパニックになる必要は、ないんですけどね。」

ジョチは、がっかりとして、ため息をついた。

「ほらみろ。契約書だけの関係だと、ああいう風になっちゃうのよ!」

杉三に一本取られたなと思った。

同時に、契約書だけの関係は寂しかった、と初めて知った。

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