三国志「張邈」伝
久保カズヤ@試験に出る三国志
第1話
整備された山の細道。馬の蹄と人の草鞋が交互に砂を踏んでいる。
一頭の馬に乗るのは三十半ばくらいであろう男。顔には常に微笑みが浮かんでいるが、その表情はどこか暗い。身なりや出で立ちから、ある程度高い位の役人か何かだろう。
そして、馬を引く青年は使用人らしい。「今は、どのあたりだ?」
馬に揺られ、男は使用人に何度目になるだろう同じ質問を繰り返す。
「あと二十里程で目的地の『揚州』かと」
「じゃあ、このあたりで休もう。馬はどうも乗り慣れないのだ、腰が痛い」
馬を降りて伸びをする。腰にジワリとした痛みが広がった。
「黄嘉(こうか)、いくつになった」
「十七です。張バク様にお仕えして、五年を過ぎました」
張バク、そう言われた男は柔らかく笑い、自分の近くに黄嘉を座らせる。近くの細木に繋いだ馬は、鼻息を立て道草を食んでいた。
「今から私が述べる人達の印象を聞きたい。いずれも私とは親しかった者達だ…最初はやはり『曹操(そうそう)』と『袁紹(えんしょう)』の二人だ。二人をどう思う?」
「曹操は、残忍で冷酷で…僕は、彼を許すことはできません。張バク様の一族を、皆殺しにしたアイツだけは、どうしても」
「袁紹はどうだ?」
「四世三公と呼ばれる、あの?噂に違わぬ、立派な人物だと聞いていますが」
「ふっ…思わず笑ってしまった。実はこの二人とは幼い頃よりの親友なのだ」
黄嘉の革袋の水が切れているのを見て、張バクは予備の水が入った革袋を差し出した。
「曹操は、実は誰よりも情に脆い男だ。だからこそ、裏切りをこの上なく憎む。袁紹は、名門袁家の名に縛り付けられているのさ。本当は、妻と子を愛する普通の父親なだけなのにな…少し、昔の話をしよう」
親が役人だったということもあり、私は小さな頃から比較的豊かな暮らしをしてきた。
書物を読むのが何より好きだった私は当時では珍しく、成績優秀者として成人前に中央での仕事を任せられるようになったのだ。それを見て安心したのか、すでに老いていた両親は家屋と家財を私に預けて、故郷へと緩やかな余生を送るために戻っていった。
袁紹、字は本初。四代に渡り、朝廷の最高位の官職「三公」に就いてきた名門袁家の長子だ。出で立ちは気高く、若くして既に、見る者の目を引き付ける気風漂う男だった。歳は二つ上、私と曹操は彼を「兄貴」と呼んで慕っていた。
そして曹操、字は孟徳。朝廷の腐敗の元を作り出した「宦官」という身分の出身だったが、本人はそれを酷く恥じ嫌っていた。だからこそ宦官嫌いで有名だった兄貴も曹操には心を許していたのだろう。私とは同い年で、互いに「兄弟」や字で呼び合う仲であった。
仕事終わりや休暇をもらった日など、私達はずっと行動を共にするほど仲が良かった。そんな、ある日の出来事を話そうか。
「なぁ、兄貴、孟卓(張バクの字)…この中で一番女に慕われるのは誰だと思う?」
昼間から酒場で、酒を交わしている三人の青年。その中で最も身長が低く、眼に鋭さを持った曹操が、ふと呟くように問いかける。
張バクは、女性に対する興味関心は人並みだと自称していた。しかし曹操と袁紹は、自他ともに認めるほどの女好きである。酒の入った会話になると、必ずと言っていいほど女性関係の話になった。
そして必ず、このような展開になるのだ。
「曹孟徳、比べるまでもないだろ?」
「いやいや、兄貴の女遊びは俺から言わせてみればまだまだ子供ですよ?」
「酒に酔ってもう寝言をほざくか?」
「兄貴こそ、酔って夢でも見てんじゃないですか?」
こうなった二人を宥めるのはいつも張バクの役目であった。「まぁまぁ」と二人の間をとりなし、少し話題を逸らすことにする。
「落ち着きなよ。そういえば、二人の好みの女性というのは、どのような人だ?」
二人は考えるように少し悩んで、店の外へと顔を出した。
「そうだなぁ…あ、俺はあの人が好みかも」
最初に嬉々として指をさしたのは曹操だ。その指の先、そこには年齢が自分らより上だろう、見ようによっては艶めかしい女性が朗らかな笑顔を浮かべて会話を楽しんでいた。しかし問題なのはそこではない。彼女の手には、小さな子供の手が握られていたのだ。
「いや、兄弟、あれはダメだよ」
「節操がないのか貴様には、恥知らずが」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、正直に答えた結果だろ!?俺はあのくらいの年齢の女性が好きだ、人妻や未亡人だとさらに燃えるね。優しく抱きしめてほしい」
大きく溜息をし、袁紹は代われという様に曹操の頭を押し込めて、自らの頭を窓枠から外へと出す。
「俺の目に適う女がこんなところにいるとは思えないが…強いて言うならアイツかな」
少しどこか誇らし気に袁紹が指した女性。歳は同じか、少し低いか。顔が特に美人というわけでもなければ、スラリとした体でもない。ただおしとやかで女性らしく、清潔感に溢れ、育ちの良さが伺える人だ。だが、特徴がないというわけではない。逆に、特に目が引かれる一点があった。
「なんというか…」
「うわ、胸大きい。兄貴こそ露骨にスケベじゃないですか」
「な、五月蠅いっ。お前にだけは言われたくないぞ、曹孟徳!」
袁紹はそれほど酒に強くはないが、恥ずかしくなったのだろう、器の酒を全て喉に流し込んだ。そして少しの間が空き、曹操は眉を顰める。
「おい、ちょっと待ってくれ兄貴。何かオカシイ感じがしねぇか?」
「…あぁ、それは思った。おい張孟卓、貴様だけ何も言わないのは不公平だ。まさか書物に欲情していると言うのではあるまいな?」
確かに張バクは本の虫ではあるが、そこまで言われると心外だったらしい。さらに、僅かながら酒に酔っていたという勢いもあったのだろう。
「分かりました、そこまで言うのなら。好みの女性について、いくらでも話しますよ?」
曹操が、怪しくニヤリと笑う。張バクが自らの失言に気付くのはその瞬間であったが、時すでに遅かった。
「街に出て自分が好みだと思った女に好かれたらお前の勝ち、今日のお前の飲み代はゼロだ、さらに俺の非も詫びよう。だが避けられでもしたら、お前の負けだ。罰は特にない、お前が恥をかくだけさ」
非常に意地の悪い提案だ、曹操らしいとも思った。袁紹は手を叩いてその提案に賛同する。兄貴が決定したことに易々と逆らえるわけもなく、自分が恥をかけば良いだけだと、張バクは眉間を揉みながら席を立った。
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