がらんどうの周波数
じた
プロローグ
はじめて神の声が聴こえたのは、ぼくが家出した日だった。
その日はなぜか父さんも母さんも早く帰ってきて、急に降り始めた雨で濡れた靴が玄関に並んでいたのを覚えている。靴をみて憂鬱な気持ちになったのは初めてだった。
ぼくの両親は仲が悪い。出会った頃は仲が良かったんだよ、と親戚の叔父さんはぼく達に言うが、そんな言葉が信じられるほど平和な環境ではなかった。彼ら夫婦が顔を合わせれば、ぼく達兄妹にとっては布団に潜る合図にも等しく。夜、本来なら家族の団欒だとか、TVから聞こえる笑い声が響いているような中で、ぼく達の家では耳を塞ぎたくなるような醜い音が飛び交っていた。それは、時には怒声であり罵声であり、皿が割れる音が鳴ったこともあった。母さんの泣き声が聞こえた日は、最悪の子守歌がプレゼントされた。
だからその日、ただいま、と言いながら家のドアを開き、濡れた二足の靴が視界に入った瞬間、今日はロクでもない日になるな、と諦めた。子供の成長に良い影響は与えないだろうな、と当時小学校五年生だったぼくですら分かるような両親ではあったが、それでもまだその環境で暮らしてもいいか、と妥協できたのにはいくつか理由があった。それは、ぼく達が子供だったから、子供にとって両親が世界であるから、何より彼らが唯一まともだったことに――決して子供には手を出さなかったからだ。
ぼく達が息を潜め、身を隠し。姿形もなく一切の問題も目撃していない。そんな風に振る舞っている限り、彼らが暴力を振るうことはなかった。
ぼく達兄妹は全力で自分たちの身を守った。この肥溜めのような家庭、吹き溜まりのような世界で、唯一信じられたのが自身の妹であり、兄であると悟ったからだ。
玄関で靴を脱ぎ、きれいに揃え、それでもどこか気持ち悪かったから両親の靴とは少し間隔を空けて置いて。妹はどこで身を潜めているのだろう、と歩を進めた。
リビング、キッチン、子供部屋、ぼく達のクローゼットの中。
妹はどこにもいなかった。家の中には、どこにも。だからぼくは勇気を出して、母さんに訊いたんだ。「咲良はどこ?」って。ぼくのなけなしの勇気は見事、母さんの逆鱗に触れることはなく、怒髪天を衝くこともなく、返事を聞き出すことに成功した。
ただ、それが嬉しい返事ではなかったことだけが想定外だった。
「咲良? 知らないわよ、あの人が迎えに行ったんじゃないの」
言葉を失った。この人本気か、という気持ちが表情に出てしまうほどに。父さんほどではないにしろ、母さんも怖い人だから、普段なら絶対にしないはずの表情が。
では。では咲良は、学校で親の迎えを待っているはずの咲良はどうしているんだ。一人で待っているのか、激しく降り続ける雨の中で、心細い気持ちだけが少しずつ、少しずつ膨らんでいくのを感じながら。想像するだけで胸が痛くなった。
そして同時にぼくの両親はどうして全く心配していないんだろう、と疑問に思った。少しでも慌てたり、感情が揺れ動くものではないのだろうか。
そんなことを考えたのが間違いだった。或いは正しかったのだろうか。どちらにせよ、この思考が世界を決定したのは間違いないことで。ぼく達の人生もここで歪んだ。
「ああ、この人達はぼく達に関心がないんだ」
思わず口をついて出た言葉は恐らく正鵠を射ていたのだろう。信じられないことに、母さんの表情はピクリとも動かない。父さんの怒りも感じられない。
恐ろしくなって、ぼくは全速力で家から脱出した。帰り道で少し濡れた靴に再び足を通しながら、勢いのままに扉を開けて駆け抜けた。ぼくの奇行に、まったく反応がないのもまた不気味だった。
アパートの外へと出たぼくは、そのまま走り続けた。この時何を考えていたのかは覚えていない。当てもなく走っていたような気もするし、この時には既に神の声が聴こえていたような気もする。間違いなく聞こえていたのは、ザーッと地面を打つ雨音と、靴の中でぐちゅぐちゅと音を鳴らすぼくの足音だ。
神の声がはっきりと聴こえたのは、体力が続かず走るのをやめて歩き始めた時だった。
雨音とは別に、脳内に直接響くようなその声は、弱々しい女の子のものだった。自分に聴こえているものへの違和感と同時に、間違いなく誰かの声であるという確信があった。
その声に耳を傾ければ、かすかな声で「寂しいよ」という言葉が聴き取れた。更に注意を向ければ、その声の主がどの方向にいるのかも感じ取れた。今までに経験したことのない新たな知覚に恐怖を感じながらも、着実に歩みは声の主のいる方向へ進んでいく。
声が大きくなったのは、学校の近くの公園だった。たまにしか来ないが、声の主がどこにいるかはすぐに分かった。
とある遊具にポカリと空いたトンネルの中。外からは丸見えだよ、と何度も言うのに彼女とかくれんぼをすると、必ずここに隠れるのだ。
「見いつけた」
雨の中を歩き続け、全身濡れ鼠になっているぼくは過去最高にカッコ悪かったと思うが、そんなことは関係なかった。妹の前でカッコつけてどうする。
少なくとも、ぼくのそんな姿をみて、妹の表情に晴れ間がさした。十分すぎる。
「兄さん、よく分かったね」
「咲良の声が聴こえたから」
自分にも分からない“脳内に響く声”を説明するのは難しかったので諦めた。
ふう、と咲良の横に腰を落ち着ける。座ってみてようやく、体の重みを実感できた。一心不乱に歩き続けた疲れと、雨を吸った服の重みだ。
「あのね、お母さんもお父さんも来なくてね。でも、ずっと学校には入れないからって思って、一人で歩いてきたんだけど……」
「いいよ、全部分かってる」
雨合羽の隙間から濡れた身体が、体温を失って震えているのが分かった。不安に思いながらも一歩一歩進んできたことが上気した頬から分かった。カッコつかない兄かもしれないけど、こんなぼくを頼ってくれていることが分かった。
そして――咲良を絶対にあの家に帰してはならないと分かった。
「ねえ咲良。兄ちゃんちょっと疲れちゃって。休んでもいいかな?」
「うん、いくらでも。好きなだけ休んで」
ぼく達はどちらからともなく、肩を近づけて温めあう。
「ねえ咲良。父さんたちはもうダメみたいだ。ぼく達の家族は崩壊寸前みたい」
「じゃあ兄さんといる。兄さんがいれば十分だから」
ぼく達はそっと手を繋ぎ、お互いの温もりを確かめ合う。
「ねえ咲良。世界にぼくしかいなくても、咲良は大丈夫?」
「私には最初から、兄さんしかいないもの」
ぼく達はお互いの顔を見合って、嬉しいね、と笑った。
そうしてしばらく、ぼく達はトンネルの中でお喋りをした。家では出来ないような明るい声をあげて笑い、心の底から笑顔になった。
かくれんぼの時の咲良の気持ちが分かった気がする。このトンネルは壁も地面も天井も近いけれど、まるで世界がそこで途切れているかのようだ。外界との接続が切れて、そこはぼく達だけの世界、近江千春と近江咲良だけの世界だった。
いつまでもそこにいたかったけれど、残酷なことに世界は地続きのままで、お腹は鳴るし身体は冷える。悔しいけれどぼく達は子供のままで、帰る世界は家しかなかった。
悔しさを胸にトンネルを抜けるとき、足下の水溜まりに桜の花びらが浮かんでいた。昨日まではこの公園で満開の桜を見ることが出来たのだろうが、こうなってしまうと寂しいものだ。けれど咲良が嬉しそうにそれを拾って「また桜見に来ようね」といったので、これも悪くないかな、と切り替えた。
アスファルトを蹴る足は少し重たかったし、帰ってから怒られることを思うと泣きそうになった。けれど、右手に感じる咲良の温かみがぼくを兄にしてくれた。
ゆっくり、ゆっくりと進めていたはずの歩みもいずれはゴールに辿り着く。アパートに到着したぼくは、小学生の小さな家出が失敗したことを理解した。
ドアを開く手はおそるおそる、という言葉が似合っていた。咲良から勇気をもらいながら、ぼくはアパートの一室、ぼく達の家へと踏み入れる。
怒声はなかった――それどころか、家の中には物音一つ存在しなかった。呼吸の音すら響くような静寂。人の息遣いも、床を踏みしめる音も聞こえない。食器が割れる音すら日常だったのに、何も聞こえない。
その静寂は、両親の表情を窺って育った兄妹に暴力的に現実を叩きつける。両親は自分たちを捨てたのだ、と。彼らとぼく達はもう無関係なのだ、と。
神の声が聴こえた日、ぼくが家出に失敗した日――ぼく達は世界に捨てられた。
咲良の泣き声が聞こえる。妹の声しか、聞こえない。
この世界は信じられない。それでも、この愛おしい妹だけは守り抜こうと誓った。
この日、ぼくの世界は妹だけになった。
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