鼠のゆくえ

@Hankachi

第1話

この世に1匹、美しい鼠がいる。

およそ人に望まれない鼠特有のすばしっこさや食欲を持ちながら、白い前歯や真っ黒に光る眼、愛くるしい両手、灰色の柔らかな毛並みなどを兼ねた鼠である。それはまさしく美しい鼠であるが、不心得者が一瞥するだけではほかとおよそ区別のつかないところであろうことは想像に難くない。ものの美しさは冷静に吟味してこそ垣間見ることができるというものだ。そこで、この男である。

男は旅の古物商からその美しい雌鼠を買い取り、ワラスケと名付けていたく気に入っていた。

「おい、ワラスケ。お前はワラスケだ。その可愛らしい鼻、ヒゲの曲がり具合、柔らかな毛、心地よい重さ、どれを取ってもお前に勝る鼠は、この世にまたとないはずだよ。さあ、チーズを食べなさい。」

来る日も男は鼠を愛でたが、あるとき鼠というものは人よりも遥かに早く死ぬものだということを思い出し、このままワラスケをみすみす失うのは忍びなく、ちょうど隣家で一仕事終えたばかりの鼠獲り業者の二人組を捕まえて、今しがた生け捕りにした3匹の雄鼠のうち、生きのいいのを1匹譲ってもらった。ワラスケと交配させて子を作るためである。別れ際、業者の男は「あんたね、」と言った。

「そいつで何をするつもりなのかは知らないが、面倒は起こしてくれるなよ。」

「なあに、うちにちょいと綺麗な鼠がいてね、そいつを増やすだけさ。色々、わかってるよ。」

男は意気揚々と家に帰り、ワラスケが水槽の壁に手をついて立っているのを見て愛おしさに膝から崩れ落ち、なんとか立ち上がって鼠をワラスケの元へ届けたのだった。

一月後、ワラスケは7匹の鼠を産んだ。

生まれてから一週間もすると、そのどれもがワラスケによく似た身体の美しい鼠であることがわかった。男は有頂天になり、もっと大きな水槽ともう1匹の雄鼠を買い与えた。まさに鼠算式に、ワラスケによく似た鼠は増えていった。男は仕事が終わるとその日の夜更けまでワラスケたちを眺めて過ごすようになった。

しかしあるときから、過密状態のストレスやいじめ、共食い、飢餓でバタバタと鼠は死に始めた。男は仕事から帰ると死んでいる2、3匹のワラスケを優しくすくい取って庭に埋めることになった。翌日も、また翌日も。

それでも、ワラスケは減るどころかますます増え続けた。だんだんと男はワラスケの死体に触れるのが忍びなくなった。冷たいワラスケはどれも美しい毛並みと白い歯と愛らしいヒゲを持っていたからだ。

ワラスケを庭に埋め、水槽を眺めに戻ると、男は卒然恐ろしくなった。所狭しと蠢くおびただしい数の美しい鼠たちの、どれがワラスケなのだろう。数ヶ月前に自分が古物商から買い取ったあのワラスケはどこだろう。「ワラスケ、」と男は言った。

「お前はどこに行ったんだ?」

倒れた灰色の鼠が男を見ている。

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