邪の偽書 解答編
四幕 「女」
壁の中は、庭園の周りのように木々が密生しています。手入れが行き届いている庭園の森と違い、壁の中は夫も滅多に入らない空間であるため、野生の木々が複雑に絡み合っているのです。少しでも道を外れると深い闇に飲み込まれてしまうことでしょう。
壁の内部に足を踏み入れたのは、実は初めてではありません。一度だけ、夫と一緒に「最も大切なもの」を見たことがあるのです。その時はそれが一体何故庭園にある他のものと違い、ここまで大切に扱われるのかが解りませんでした。
思えばあの時、あの時だけは壁の唯一の通り道は無防備でした。主が夫と私を連れて、壁の中へと案内をしてくれていたからです。私たちは背後に誰かがいるのではないか、とは露程も疑わなかったのです。
「あの時、あなたは私たちの跡を付いてきていたのですね」
私は数歩前を進む狡猾な者に尋ねました。
「最初はただの好奇心だったがね。だから私はこの道がどこに繋がり、そこに何が在るかも知っている」
壁の中を進んでいくと、私たちは小さな広場に出ました。
「これが、『最も大切なもの』ですか、間近で見るとまた非常に魅惑的な香りがする果実だ」
主の最も大切にしているその「果実」は決して甘い香りに満ちているわけではありません。それでも、「香り」としか言い表せない程の魅惑が頭をいっぱいにしてしまうのです。
「では、再びこの味を堪能させてもらおうか……」
「再び……あなた、いま再びと言いましたか」
「ああ、あなた方の跡を付けていたあの日、私はここに残ってこの果実を口にしたのだよ」
「そんな、私たちに付いて壁の中に入ることができたとしても、そこから出ることはできないはずです。あなたは一体どこから外に出たのです」
まさか彼がこの果実を食していたなどと私は全く予想もしていませんでした。何故なら、壁の出入り口は常に夫か私から見える位置にあり、隠れて進めるような障害物など無かったのですから。
「この庭園に住まう者は、日が落ちると一日が終わったと考えている節がある。闇の中、庭園を歩き回ることができないからだろう。だからあなた方はたった二人だけで中心部への出入りを監視できる。夜は安全で守る必要性がないからだ」
「その通りです、夜の暗闇の中では誰も、私たちでさえも出歩くことはできません。当然あなたもそうでしょう」
「それは間違いだ。私は闇の中でも進むことができる。動物のいない壁の中では不可能だが、壁の外には多くの動物がいる。私は蛇だから、動物たちの温度を察知して暗闇を移動することができる」
それは私にとってひどく衝撃的でした。あの闇の中を歩く動物がいるなんて、全く思いもしませんでした。きっとこれは夫も気づいてはいないでしょう。
「さて、折角ここまで来たのだから、あなたもこの禁断の果実を口にするといい」
彼――蛇は言いました。その長い腕で果実を一つもぎ取ると、私の方へ差し出します。私はそれを受け取り、じっと見つめました。本当にこれが主の最も大切なものなのでしょうか。私にはまだ確信がありません。
「蛇よ、あなたもあの時どこかで聞いていたのでしょう。主は言いました。庭園のどんな果実も食べることを許すが、この果実だけは絶対に食べてはならない、と。食べた者は死んでしまうと」
私が震える声でそう訴えると、蛇はあの不気味な笑顔で実に愉快そうに言いました。
「あなたはきっと死なないだろう。何故なら私は既にこの実を食しているからだ。主はこの果実をなんと呼んでいたか覚えているかね」
「……主はそれを『知恵の実』と呼びました」
「その通り。これは知恵の実、これを口にすればあなたの目は開かれるだろう。主のように全てを深く理解し、そして善悪を知る。そして理性と論理、客観性を理解し、世界は変わる」
知恵の実、知恵とは何でしょうか。私は何も知りません。生まれた時から、夫の伴侶として、助け手として働くことが私の役目でした。私は夫の肋から創られたと聞きます。夫は大地から創られた、と。
この禁断の果実は、創られた私たちの世界を変えるのでしょうか。
「世界は、終わってしまうのでしょうか」
「世界は始まるのだよ」
私は天を仰ぎ、ようやく決意しました。
そして、私は恥を知った。
五幕 「男」
そして、私は死体を見つけた。
壁の内側へと続く唯一の道には、守護者であるはずの妻がいるはずだった。しかし私が川の氾濫の様子を見て戻るとそこには誰もいなかったのである。嫌な予感がして主の「最も大切なもの」である知恵の実を付ける果樹の元へ走ると、そこには死体が転がっていた。
そしてその死体は、事もあろうに主の死体だったのである。
「一体、なにがあったのだ」
私は途方に暮れるしかなかった。主は誰よりも強く、賢く、我々の知り得ぬ恐ろしい力を持っていた。その主が、今はただ地に伏せている。
驚くべきことは、他にもある。主の死体は知恵の木のすぐ側にあるのだが、知恵の木の陰に、妻が身体を隠すように佇んでいるのだ。
「そこで何をしている。主を殺したのはまさかお前なのか」
妻は呼びかけに応えない。
「出てきなさい。何が起きたのか私に話してくれないか」
「できません」
妻は身を隠したまま、ようやく小さな声で応えた。
「出てくるんだ」
私は語尾を強めて言う。すると妻は躊躇しながらも姿を現した。
「なんだそれは」
「恥ずかしいのです」
「恥ずかしい、何が恥ずかしいというのか」
妻はいちじくの葉を纏い、身体を隠していた。様子がおかしい。
「どうしたというのだ」
「ここからは私が説明しましょう、旦那」
私がますます途方に暮れていると、背後から低く唸るような声が響いた。振り返ると、そこには狡猾な者が不気味に佇んでいた。
「何故君がここにいる。まさか、主を殺したのは君か」
「誰が殺したかなどどうでもいいでしょう、もう旦那を縛り付けていた『神様』はいないんですから」
そう言うと彼は私に近付く。そしてその長い腕を伸ばし、私の肩にぽんと手を置く。そして地響きのような囁き声でこう言った。
「神になりたくはないか」
私はゾッとした。その声は私の中の本質的な熱量を湧き起こすようで、彼そのものよりも、私自身の中の正体不明な感情に恐怖を感じたのだ。
「何を言っている。これはどういうことだ。何故君がここにいて、主が死んでいるのだ」
「だからそんなことはどうでもいいと言っているんだよ、旦那様よ」
「どうでもいいわけが……」
「知恵の実を食べたのだよ、私も、その女も」
「な……なんだと」
私は彼と妻との間で視線を何度も行き来させた。知恵の実を食べた者は死ぬ……はずではないか。彼らは本当に禁忌を犯したというのか。
「食べたら解るさ。旦那もあの女のようになるだろう。知恵を得たら耐えられないのさ、裸を晒しているなんてことは」
裸、とは何なのだ。私にはその言葉が差すことが何なのか解らない。だが、妻はどうやら身体を人前に出すことを恥ずかしいと思っているようだった。だが、そんなことよりも、私は妙な胸の高鳴りを覚えていた。
「先程君が言っていたことだが……」
「まずは知恵の実を食べることだ。それで全て解る」
「待て、その前に教えてくれ。何故主は殺された。私もこうなるのではないだろうな。知恵の実を食べたのはむしろ主だったのではないか。だから主は死んだ、違うか」
「くくく、知恵の実を食べなくても主を疑い始めるとは、やはりあんたは自分の感情を随分抑制していたようだな」
彼の言葉は再び私の心を揺さぶる。そうだ、主を疑うなど今まで一度でもしたことはないというのに。
「簡単なことだよ。知恵の実を食べたなんてことが知れたらあんたたちはこの楽園から追放されただろう。この庭園、『エデンの園』は神の箱庭。自分に近付きすぎた人形は置いてておけない。私だって同じこと。もし悪事を働いたら、手脚を摘み取るとさえ言われていたのだよ。主を殺さなければ、私はきっと手脚のない地を這うだけの動物に成り果てていたに違いない」
「だから、主を殺したのか」
「そうだ、神は死んだんだ。今この時、神は不在なんだよ」
「そうか……」
蛇の言葉は段々と私の心を侵食していた。少しずつ心が軽くなっていくのが判る。私は、きっと主からの命令と制約に疲れ果てていたのだ。
妻がようやく私に近づいてくる。「これを」と私に何かを手渡した。
「これは……知恵の実」
それは形容しがたい魅惑の果実だった。
妻が言う。「食べて」と。私は何かが吹っ切れたように、それに齧り付いた。横目に蛇が笑う。脳内に閃光が走る。そして私は絶望と取り返しのつかない罪悪感、開放された自由、羞恥の感情を知った。
「ああ、なんと世界は美しい。そしてなんと私の心は醜いのか」
身体を晒すことよりも、もっと恥ずべき欲望が、心を満たしていた。
「主――神は自分に似せてあんたたちを創ったというが、決して自分と同じには創らなかった。自分を超えられるのが怖かったんだ。なあ旦那、今のあんたは神に一番近い。この世界はあんたのものだ」
蛇はにたにたと不気味に笑っている。奇しくも、彼の恐ろしき狡猾さを密かに恐れていた主の気持ちが解った気がした。
「この世界を自分のものにしたい、そんな欲望が自分にあったんだと今気づいたよ。なんと醜いことだ」
「醜くていいではないか、それが自由というものだ。そうだ、あんたの名前を教えてくれ。もう主の人形じゃないのだから」
「――――私は、アダム」
「アダム、『土』という意味だな。さあ、お前の伴侶にも名前を付けてやるんだ。それから、私にも」
「女、お前の名はエバだ。そして蛇、お前は――サタン」
エバは少し恥ずかしいそうに自分の名を繰り返し呟いた。そしてサタンは、満足そうな表情をして、主の死体を検分するように睨み見ていた。
「いい名前だ。さて、アダム。神に最も近いあんたにしかできないことをやってもらう」
サタンはそう言うと主の死体を担ぎ上げた。死体が軋むように鈍い音を上げた。神はもはや唯の物質でしかない。
「なんだ、何を企んでいる」
「簡単なお願いだよ。あんたはこの神様の力を唯一真似できる存在だ。創られた私にも、あんたの複製のエバにもそれはできない」
「私にしかない力」
そんな力が私にあるのだろうか。主のような恐ろしい力が。
「それは、創造の力だ。この神の亡骸をこの先に埋める。そこであんた創造するのだよ、永遠の生命の実、新しい禁断の果実を」
永遠の命、それはまるで神のような力。神の亡骸を使って、この狡猾な者サタンは、永遠の命を手にしようとしているというのか。
「永遠に生きて、何をする」
「真の神になるのさ。我々三人でね」
風が吹いた。これは新たな世界の追い風なのか、それとも死の香りを果てまで届ける悪夢の風か。私にはもう、解らなかった。私が言えることは唯一つだ。楽園は失われた。
そして、我々は偽りの神となった。
終幕 「彼」
生。
生とは有限の活力です。人は誰もが平等に死に、新たな生命は絶えずこの地に満ちていきます。私は二つの果実を手にしました。
一つは知恵、これは私があなたに問いかけた答の一つです。
【最も大切なものとは何か】
この問の答えは【知恵の実】と言えるでしょう。
私は最初にあなたとお会いしたときにこう申し上げました。
「あなたが知るべきことは唯一つ。死者は舞台となるとある庭園の主。あなたの「知恵」は既に、この物語の答を『知って』いるのです」と。
あなたはアダムとエバの末裔、私がもたらした「知恵」は既にこの物語をよく知っていたことでしょう。
唯一つ、あなたの知る物語と違うのは、神の死によるその後の展開の変化です。だからあなたの知るべきこともたった一つでした。それは「死者が舞台となるとある庭園の主」、つまり神であるということです。これであなたはこの答に辿り着けたはずです。
そして私はもう一つの果実を手にしました。
それは【生命の実】。これはあなたの知識では「エデンの東にてケルビムと回る炎の剣によって守られているもの」かもしれませんが、この世界では異なります。これこそ、私が最も欲しかったもの、【最も大切なもの】でした。
あなたはこの答に辿り着いても私の問に答えた、と言えるでしょう。
さて、約束通り私がどうなったかも教えて差し上げましょう。
主――神は死に、男――アダムは死体を見つけ神となり、女――エバは恥を知り自由となった。アダムとエバはカインという子どもを設けましたが、彼らが犯す罪についてはまた次の機会にでもお話しましょう。
そして私は、あなたのよく知る存在になったのです。
蛇――私は
さて、そろそろ物語も終演。私はこの物語を「邪の偽書」と呼びましょう。これは「邪」であり「蛇」である、私による偽りの聖典なのだから。
ではまた、いつかここでお会いしましょう。あなたの心の劇場には、必ず私という悪魔が再び姿を現すことでしょう。
これにて、閉幕。
了
【作者より】
読了感謝致します。
解説、あとがきを用意しました。
お付き合いいただける方は次話のページへどうぞ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます