邪の偽書
らきむぼん/間間闇
邪の偽書 問題編
登場人物
主……命ずる者。庭園の中央に「最も大切なもの」を所有している。
男……管理する者。主の命で庭園の草花や樹木、動物を守っている。
女……愚かな者。主により用意された男の伴侶であり妻。
彼……狡猾な者。
序幕 「彼」
死。
ここにひとつの死が転がっています。そう、私の目の前に。死とは呆気ないものです。平等で論理的です。
尊大な生は常に虚飾に彩られているのです。尊きものが相応しく尊ければ、それを私は尊大とは呼びません。偽りの奥に隠された本当に尊きものを奪われたくない。その欲望が彼を尊大にしたのです。
私はそれがどうしても欲しい。私はそれを手にしても変わらないでしょう。何故ならば、私は既に尊大なのです。
さて、申し遅れました。私は作中で「彼」と称される者。皆はこうも呼ぶでしょう、「狡猾な者」と。おっと、聞いておられますか、私は今「あなた」に語りかけているのです。
ご安心を、まだ物語は始まっていないのです。私はこれからあなたに一つの問を投げかけたい。これは遊戯なのです。但し、問いかけるのは次に私があなたとお会いした時です。
さあ、ここにひとつの死が転がっています。あなたが知るべきことは唯一つ。死者は舞台となるとある庭園の主。あなたの「知恵」は既に、この物語の答を「知って」いるのです。
一幕 「主」
果実の香りが川の流れに乗って隅々まで行き渡っている。この庭園は、小さな楽園だ。草木は生き生きと天に向かってピンと背を伸ばし、果樹はしっかりと地に根を張り豊かな実を付けている。動物たちは皆穏やかに暮らし美しい自然と共存していた。
私は庭園を囲う森の中を歩くのが好きだ。陽光が木々の葉を透かし柔らかな光の帯を作り出すのが美しい。この庭園は私の宝である。
今日は久しぶりにあの男の様子を見に庭園に訪れた。この小さな庭園の美しさを守るためには、管理者が必要である。この仕事はあの男に適任だ。真面目で敬虔、言われたことはしっかりとこなしている。最初は単純な作業しかできなかったが、今では草木の管理だけでなく、動物たちの世話も任せている。先日、彼には私の「最も大切なもの」の守護も命じている。元々この庭園を造り上げたのも「最も大切なもの」を保管するためであった。彼は順調に本来行うべき仕事を任命されたわけだ。
しかし、男に「最も大切なもの」の守護を行わせるにあたり庭園の管理がやや手薄になってしまった。前回訪れたときには私の知らない異変も起きつつあった。やはり一人で全ての仕事は行えない。私は彼を手伝う者を用意した。今は彼の妻となった女である。
あれから時も経った。彼らはうまく庭園を管理しているようだ。今日もこの庭園は美しく豊かで、穏やかであった。
――と、森の遊歩道で立ち止まり、辺りを見渡していると、木々の間の深い陰の中から、ギラリと光る二つの光がこちらを覗いていた。
「そこにいるのは誰か」
私の誰何には答えず、その者はするりと陰から現れる。
「これはこれは。ご無沙汰しております、主様」
長身を折り曲げ、その者は深くお辞儀した。口調と仕草に慇懃無礼な印象を受ける。長い胴と手脚は不健康に見える程に細い。
「こんなところで何をしている」
「主様こそ、散歩でしょうか? ここもいいですが、最近は泉が湧き川ができましたから、川辺を歩くのもなかなか趣深いでしょう」
「知っておる。川の整備で仕事も増え、お前のような者も手伝わせているのだ。まさか、あの男の仕事を邪魔したりなどしてはいないだろうな」
「とんでもございません、私は従順な下僕、旦那様の邪魔など滅相もございません」
彼は恭しく頭を下げる。上目遣いな目がこちらをじろりと差す。
「ところで、最近旦那が守っている庭園の中央ですが、あそこには何があるんですかい」
「何故気になる、お前には関係のないものだ」
「いえいえ、単なる興味です。旦那が言っていたものですから。何しろ主様が一番大切にしているものを守る大事な仕事だ、と」
彼はそう言うとちろりと長い舌を出し、すぐに引っ込めた。気味の悪い男だが、それだけではない。この男は狡猾なのだ。今までに何をしたわけでもない。しかしこの狡猾な者はいつの間にかこの庭園に溶け込んでしまった。「最も大切なもの」の情報をあの男が漏らしてしまったのは誤算であったが、それは真面目で純粋であるからだ。それを知っていてこの狡猾者は目敏く動いたに違いない。
「何度も言わせるな、お前には関係がない」
「はあ、いえね、主様。私めはこう思ったのです。管理者の旦那がこうも多忙なのは、あの守護の仕事が重要だからだと。どうでしょう、他の者にもこの仕事を分担させてみては」
「お前に任せる仕事ではないのだよ」
「とんでもない、私でなくてもいいのですよ。誰か別の者でもいい」
この者は何を考えているのだ。本当に庭園のことを考え進言しているのだろうか。確かに、この者をここに置いてから、管理の質は向上したと言える。狡猾な印象はあるが、明晰な思考をする者でもある。しかし、どうにもこの男は信用ならない。
「考えておこう。しかし、くれぐれも邪魔はするなよ。お前が悪事を働くようなことがあれば、その狡猾な頭のみを残し、持て余した手脚は摘み取ってしまおうぞ」
「それはそれは怖ろしい。肝に銘じましょう」
狡猾な男は深く頭を下げる。
彼は危険だ、この時には私はそう思っていた。何故ならば、この庭園にはほとんど純朴な者しかいないからだ。彼だけが異端である。私の知らない異変そのものだった。
*
そして、私は殺された。
二幕 「男」
川の畔に、小さな草原が密生していた。青空と淡い緑が一時の休息を彩る。私は新しく分岐した川の流れを調査していた。
日に日に川の勢いは強くなっていく。最近は雨も降るようになり、その度に私は氾濫の収束に奔走することになる。どういうわけか、補修した橋や畑が破壊されてしまうのだ。
私の最初の仕事は土地を耕すことだった。
荒れた土地には鋤が通らない。私は湧き出た泉を中心に土地を開いていき、主の与えてくれた庭園をより豊かにより美しくしていった。次第に庭園は形を成していき、泉は川となって、緑を増やしていく。
庭園の果実は常に実っていた。私はそれを食すことが楽しみだった。庭園をうまく管理して、豊かに実らせた甘い果実を食べることを楽しみに生きる。私はそれ以外に何も知らなかった。それが充分に幸せだったのである。
川がその形を安定させ始めた頃、主は様々な動物たちを庭園に住まわせた。私はその動物たちと暮らしていた。自然が巡り、草木と動物たちが生と死を繰り返す悠久が、庭園の秩序となっていった。
そうした安定した生活の中で、私は主から新たな使命を受けた。主が最も大切にしているものを管理する仕事であった。これは何にも優先される仕事であると主は仰られた。庭園の中心の森を切り開き、そこに「最も大切なもの」を安置した。そこは高い土の壁に囲まれ、入口はたった一つしかない。私はその入口を監視する守護者となったのだ。
しかしこれは大いに私を苦悩させた。私が「最も大切なもの」を守護している間、庭園では何が起きているか全く判らないのである。主は様々な助け手を用意してくださり、彼らは大いに働いてくれた。しかし、やはり私が管理者として仕事を全うするための信用できる助け手はなかなか現れなかった。
強く風が吹く。草原から僅かに巻き上げられた自然の香りが風に乗る。香りは目には見えないが、私は思わず風の流れる方へと目を向けてしまう。
「ここにいたか」
風が通り抜けた先に我が主の姿があった。庭園の西にあるこの場所まで主が訪れるのは珍しいことであった。
「お久しぶりです」
「うむ、川の様子はどうかね」
「これは四つ目の支流です。庭園に影響は及ぼさないでしょう。きっとこの先にも我が庭園のような肥沃な大地が築かれるのでしょうね」
「そうだな。お前たちはよくやっている。庭園も随分良い場所になった。ところで、私が用意した伴侶とはうまくやっているかね」
主は真剣な表情で言う。
伴侶とは、私の仕事の助け手として最後に主が用意してくださった女である。彼女は他の者と違い、私の仕事の手助けをよくこなしてくれている。
「ええ、彼女は素晴らしいです。妻として私の手助けをよくしてくれています。他の者もよく働いてくれていますが、彼女に勝る者はいません」
「そうか、それは良かった。安心したよ。やはりお前に相応しい者はお前と同じものを持っていなければよくない」
「今も、主に命じられた大切なものの守護を頼んでいます。なるべく私自身が守るようにしておりますが、最近は川の氾濫も多いですから、今日のような調査で私が庭園にいないときは、彼女に委任しております」
彼女は決して屈強ではないが、私と同じく主に近い者として認識されており、守りはそう弱くはない。庭園に住む者たちに、主に逆らおうという者は存在しないだろう。
「うむ、その件であるが、彼女にも伝えておいてほしいことがある」
「はい、なんでしょう」
「森の狡猾な者を知っているか」
「……ええ、知っています。彼には狡猾な印象を受けますが、他の者たちの秩序を守る上では良い提案をしてくれます」
「やはり、あやつはそんなことができるのだな」
「はい、あまり好かれている者ではありませんが、優秀です。彼がどうかしましたか」
主は眉間に皺を寄せ、低く唸った。
「彼がお前に『最も大切なもの』について提案をしてきても、決して言うことを聞かないように。伴侶にもそう伝えなさい。彼をあまり信用しないようにするのだ」
「彼を信用しないように……わかりました。妻にもそう伝えます」
私には主が彼を信用しない理由は解らなかったが、主の言うことは絶対である。きっと何か理由があるのであろう。
再び強い風が吹く。蛇行する川の流れに逆らって吹いた強風は、川面に鱗のような模様を浮かび上がらせた。
*
庭園の中心に程近い台地に私の家はある。「最も大切なもの」を守る壁の入口がいつでも見える場所だ。帰路には森の遊歩道を使うのであるが、この道は日が落ちると闇に沈んでしまう。夜に明かりを持たない庭園の生活は、落陽とともに終わる。だから私は太陽が朱色に染まる頃にはこの森を抜けるようにしている。
川の調査を終えた私は、遊歩道を早足で通り抜ける。どうにも空気が湿っている気がするのだ。今夜は雨になりそうだった。
「おやおや、旦那様じゃないですか」
丁度森を抜ける頃、背後から呼び止められた。件の狡猾な男である。相も変わらず顔は真っ白で不健康そうであり、手脚は長く持て余し気味な印象を受ける。
「ちゃんと仕事は終わったかい」
「ええ、もちろん。旦那は川の調査ですかい。最近は氾濫も多いですからねえ。そういえば、今朝方、主様がいらっしゃいましたよ」
「ああ、君も会ったのか。失礼はなかっただろうね」
「ご安心を」
彼は舌を覗かせてにたりと笑った。不気味な表情だ。「ところで」と続けて彼は言う。
「旦那が守っている『最も大切なもの』ってやつ、私に少し見せてはもらえませんかね」
彼はザラザラとした不快な音を立てながら、両手を擦り合わせている。
なるほど、主が気にしていたのはこのことか。
「前にも断ったはずだ。あの場所には誰も立ち入れてはならない」
「あの女はよくて、ですかい」
「妻のことかい。彼女は私の伴侶として選ばれた者だ、主の許可も得ている。何かあったときに頼れるのは彼女だけだ」
「なるほど、それなら安心ですね。旦那が留守にしていても彼女がいれば、ね。まあ旦那、何かあれば私も力になりましょう、いつでも申し付けて下さい」
長身を折り曲げて、彼は深く頭を下げた。
「ああ、ありがとう。では、私は帰るよ。君も帰ったほうがいい、今夜は雨だ」
空は徐々に雲に覆われつつあった。
「川の氾濫がなければいいですな」
ポツリ、と雨粒が体を伝った。雨が降り出したようだ。
*
そして、私は死体を見つけた。
三幕 「女」
雨は予想よりも激しく降り注ぎ、昨夜は嵐となりました。雨が上がり、天候が落ち着いたのは日が昇り、辺りが明るく照らされた頃です。私と夫は空に架かる虹を見て、暫し心を落ち着かせていました。
夫が川の氾濫の知らせを受けたのは虹がすうっと消えたその後のことでした。主が「最も大切なもの」の様子を気にされていたらしく、日が真上に向く頃にはこちらにいらっしゃるとのことでしたので、夫はその前に川の様子を見に行きました。
昨夜、夫は私に言いました。
「いいかい、森の狡猾な男が主の『最も大切なもの』を見たいと言ってくるかもしれない。彼の言うことは聞いてはだめだ」
私は何故ですか、と尋ねましたが、夫もその理由は知りませんでした。しかし、私も狡猾な男の口ぶりには何かじめじめとした不気味さを感じていたのです。
川の氾濫が多くなり、夫は最近よく私を守護者の代理に置くのですが、二日続けて私がこの役目を授かるのは初めてのことでした。守護と言っても、私たちの住まう家は庭園の中央に入るための唯一の道を見渡せる場所にあり、家を留守にしなければ問題はありません。家と申しましても、吹けば飛ぶような小屋に過ぎませんから、私は外に出ていることが多く、目を離すこともないのです。たとえ小動物でも壁の中に侵入することは難しいでしょう。
今日などは冷たい雨も止み、暖かい光が辺り一帯を照らしているので、外に出てゆっくりと果実を摘んでいました。氾濫の影響がなければいいのですが、ここにいる私には遠くの川のことなどはあまり判りません。
川のことよりも、私はふと壁の向こうの「最も大切なもの」について考えることがあります。私は夫とともにあれを見た時から、どうにもあれが気になってなりません。主は一体何故あれを大事に守るのでしょう。他のものとは何が違うのでしょうか。私はいけないことを思いながらも、そんなことを気にしてしまいます。
あれはきっととても素敵なものなのでしょう、主はあれを手にして、今の主になられたのです。もしも私があれを手にしたら、私も…………。
そこまで考えたところで、私ははっとなりました。なんと醜いことでしょうか。これではあの狡猾な男と同じです。彼もまた、主の「最も大切なもの」の不思議な魅力に取り憑かれているに違いありません。
「女よ、お前は私と同じだ」
突然背後から聞こえたくぐもった声に、私は振り返りました。辺りを見渡しても声の主は見つかりません。
「どなたですか」
木々がさざめく音が徐々に大きくなっていくようでした。風が再び吹き始めました。あの声は、私の幻聴だったのでしょうか。
「あれを手に入れたいのだろう」
びくりと、肩が震えるのが判りました。幻聴ではありません。声は先程より近づいていました。私が再び振り返ると、そこには大きな男が立っていました。森に住む狡猾な男です。
「旦那様はどうしたのかな」
「夫は、川の氾濫の様子を見に行きました」
「そうかい、守護者は留守なわけだ」
彼は一歩ずつ近づいてきます。
「今は私が守護者です。それ以上は近づいてはなりません」
「お前はあれに魅惑されている、守護者にはなれない」
彼の長く細い腕が私の首筋に触れました。驚く程に冷たい手は蔦が巻き付くように私の頬を撫でます。
「…………あなたは一体何をしにここに来たのです」
「私が何をしに来たか、お前はもう知っているはずだ」
彼は恐ろしく鋭い眼光で私を射竦めてしまいました。もう逃げられない、私はこの時点で半ば諦めていました。そして同時に、少しだけ期待してしまったのです。壁の向こうの「最も大切なもの」を手に入れることができるかもしれない、と。
木々は私の心を体現したように激しくその葉を揺らしました。
真っ黒で邪な感情が、渦のように私の心の深層へ浸透していきます。庭園を満たす甘い果実の香りが、今は邪悪な誘惑の囁きのようでした。
*
そして、私は恥を知った。
幕間 「彼」
死。
ここにひとつの死が転がっています。最初に申し上げた通り、死者は庭園の主、そしてその死体を見つけたのは庭園を管理する男、そしてその妻は恥を知りました。……私ですか、そうですね、私がどうなったかは、次にお会いしたときにでもお伝えしましょう。
さて、あなたに約束しました「問いかけ」をしましょう。
この問いかけはあなたにとってきっと聞いたことのない問いかけでしょう。誰が殺したか、この物語に置いてそれはあまり重要ではありません。どうやって殺したか、これも重要ではありません。何故殺したか、これもまたありふれたどうでもいいことです。
では、この遊戯における謎解きは一体何か。それはとても単純なことなのです。それは、
【最も大切なものとは何か】
その一点だけなのです。
あなたの大切なものはなんでしょうか。愛でしょうか、お金でしょうか、時間でしょうか。いえ、結構。あなたの大切なものはどうでもいいのです。今、あなたが答えるべきなのはこの物語における「最も大切なもの」の正体なのです。
この物語には既に、この問の答に辿り着くための全ての情報が出揃っています。
さあ、ここにひとつの死が転がっています。あなたが知るべきことは唯一つ。死者は舞台となるとある庭園の主。あなたの「知恵」は既に、この物語の答を「知って」いるのです。
解答編へ続く
(2018年11月10日公開予定)
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