笠森お仙

ありま氷炎

 時は明和七年。

 宝暦十一年に第八代将軍吉宗の孫、家治が第十代将軍となり九年がたった。

 家治は田沼意次を登用し始め、江戸に新しい風が吹いてきていた。

 珍しく晴れた青い空の下、それでも本格的な冬には変わりなく、所々に溶けきれずに雪が残っている。

 寒さに震えながらも、人々が集まり今日も賑わいを見せるのは谷中笠森稲荷神社だ。

 参拝を終わらせた輩が境内の水茶屋「鍵屋」に寄るのは定番で、満員御礼、団子を頬張り、お茶を飲む者たちで溢れ返っている。そんな盛況な茶屋を影から見守る男がいた。名を倉地(くらち)政之助(まさのすけ)満済(まんず)という。

 倉地家は、吉宗公の時代から御庭番を務めている家名で、祖父から数えて三代目でもある政之助は四年前の二十四歳の時に家督を継いでいる。

 そんな彼が、こんなところで油を売っている場合ではないのだが、彼は目を皿にして水茶屋の様子を窺っていた。

 そもそも、この水茶屋の主人の鍵屋五兵衛は倉地家に仕える者。こそこそ隠れてみる必要などない。

 しかし、政之助はこっそり覗き見していた。

 これは今日だけのことではなく、用事と称して城の勤めから抜け出しては度々行っている事だった。

 その後ろで、彼の父の倉地甚左衛門(じんざえもん)忠見(ただみ)からお目付け役を言い渡された喜助は白い息を吐き、周囲に目を凝らす。

 政之助は優秀な男で、御庭番として恥じない働きもしている。

 それは父親である甚左衛門も太鼓判を押すくらいだ。しかし、一つだけ問題があった。それは、彼の許婚の鍵屋お仙にかかわることであり、今日もこうして茶屋を見張ることになっている要因でもある。

要は、お仙に不埒な行為をする者がいないか、そっと見守っているわけである。

 本来、お仙の仕事は水茶屋の給仕ではなく、情報収集だった。彼女の父である五兵衛が店を構え、売り子に立つ。そしてその美貌を利用して、茶屋に立ち寄る男達から情報を得る。それが彼女の本来の仕事だ。

 当然、不埒な真似をする者も多く、喜助はその度に政之介を止める役割を担っている。

「あやつ!」

 不意に声を荒げ、政之介が憤怒の顔をする。そして腰に指している刀の鍔に手をかけた。

「若様」

 喜助は、毎度のことで目眩を覚えそうになる己を叱咤して、羽交い締めにするように政之介を掴んだ。

 倉地家の当主である政之助を若様と呼ぶのは無礼。だが、このように冷静さを欠いている時など、おもわず呼んでしまう。政之介は若様と呼ばれることが嫌いであり、普通であれば小言が飛んでくる。だが、彼は血走る目を茶屋に向けたままだ。

「お仙の仕事の邪魔をしちゃいけません。旦那様」

 今度こそ喜助は、若様ではなく本来の呼び方で主人を呼び、諭す。すると政之助は鍔から手を離した。だが視線はお仙に向けられたままで、喜助は溜息を吐きそうになり、噛み殺した。

『お仙。今宵はよい月夜。一緒に月見としけこもうじゃないか』

『新太郎さん。駄目ですよ。花ちゃんに怒られますから。この団子はお土産ね』

 二人の声は遠すぎて聞こえない。だが、忍びの術をある程度取得している政之助と喜助は、その唇の動きからお仙と優男のやり取りを聞くことができる。

 お仙が十二歳から水茶屋に出るようになり、すでに六年。あしらい方も心得ている。二人が見守る中、お仙はヤキモキする政之介の気持ちがわかっているのか、どうなのか。人を魅了してやまない笑みを浮かべ、竹皮に包んだ団子を相手の男――新太郎に渡す。それでも引き下がらない男であったが、浮世絵師鈴木春信がお仙にひっきりなし話し掛けており、新太郎は諦めたようで、茶屋を出て行く。

 仲間の一人である春信の動きに、喜助は感謝しつつ、政之介に屋敷に戻るように説得した。

 鈴木春信は美人画を描かせたら右に出るものがいないというくらい、売れっ子の浮世絵師だ。お仙が江戸中で美人と噂になったのも、春信が彼女の美人画を描いて広めたおかげもある。

 そもそもお仙を売り子として働かせ、情報収集させようとしたのは政之助の父、甚左衛門だ。息子が如何に憤っても彼は頑として計画を勧めた。春信に美人画を描かせたのも戦略で、お仙に人々が群がり、より多くの情報を得させようとしたものだ。

 許婚である政之助はこの状態がはっきり言って嬉しくはないのだが、お仙の情報は倉地にとって重要なものとなりつつあり、難しい事であった。

 現当主の政之助としてはお仙に茶屋の仕事を続けさせるしかなく、表立って動けない分、こうして見張ることで気分を晴らしているようだった。残念ながら気分は晴れるどころではなかったが。


** *


「旦那様」

 戌(いぬ)三つ時、行灯(あんどん)の明かりの中で書物に目を通していた政之助は名を呼ばれ、振り向く。

「お仙」

 声と気配でお仙であることはわかっていたが、政之助は気分の高揚を抑えきれなかった。ただ一つ残念なのは、その格好で、町娘の明るい着物ではなく、黒装束を身につけている。

 茶屋の娘のお仙と直接会うことは、情報収集という点で邪魔にしかならない。政之助が御庭番であることは知られており、親しい仲だと勘ぐられれば警戒心を与える。したがって婚約していることはごく限られた者にしか知らせていない。

 しかしながら、お仙は日々の情報を政之助に伝える必要がある。それで、毎夜こうして闇に溶け込みやすい黒装束に身を包み、彼の座敷へやってくるのだ。

 昼間遠目に彼女の町娘姿を見ているのだが、至近距離で彼女の艶やかな姿をみたいというのは、彼の願望だ。だが当主としてそんな我儘を通すわけにもいかず、彼は黒装束のお仙と相対する。

「旦那様。喜助から聞きましたよ。また今日も覗いていたのですか?しかも、新太郎さんを切ろうとなさったと聞いております」

「そ、それはだな」

 喜助の奴めと心の中で文句を言いながら、どう言い訳するか考える。

 以前にお仙から覗かないように、心配せぬように念をおされていたのだ。それなのに、政之助は茶屋を毎日のように覗きに行ってしまった。

「わたくしはあなたの許婚でございます。殿方と接するはあくまでも情報収集のため。しかも、わたくしは一度も誘いにのったことはありません。それなのに」

「お仙、私が悪かった。どうしても気になってしまい、つい」

「今後、覗かないようにしてくださいね。不審に思われたら、もう店に立つことはできませんから」

「心得ている」

 政之助のほうが十歳も年上、その上、彼女の主人である。けれども毎回小言を言われるのは彼であった。お仙にベタ惚れの政之助は、彼女の小言をにこにこと笑って聞いている。

 彼女が怒ったような顔をするのは滅多にない。それなのにこうして己の前ではそんな貴重な姿を見せてくれるのだから、特別な気分になり、顔が緩んでしまうのだ。

「旦那様!」

「そう怒るな。お仙。次からは覗いたりしないと約束する。それより今日の報告を」

 本当ならばこうしてもっと長く話していたいのだが、彼女は早朝から茶屋にでなければならない。なので、早く家に帰してやろうと、政之助は急かした。

 そのことに一瞬、お仙が少し傷ついたような顔をしたのだが、彼は気づくことはなかった。


* **


「それでは旦那様。わたくしはこれにて失礼いたします」

「お仙」

 今日の報告を済ませ、あっさりと去ろうとしたお仙を政之助は呼び止めてしまった。だが、言葉が続かない。

「明晩の報告も楽しみにしている」

 やっとそう口にしたのはそれで、政之助は己の不甲斐なさに歯がゆくなる。

「わたくしも旦那様と明晩も会えること、楽しみにしております」

 お仙は振り返らず、背中を向けたまま。政之助は聞き間違いかと、尋ねようとしたが、すでにお仙の姿は部屋から煙のように消えていた。

「楽しみにしておりますか……」

 聞き間違いではないだろう。彼は口元をだらしなく緩めた。

 だがお仙の情報を思い出し、気持ちを切り替える。

「喜助」

 隣の部屋で聞き耳を立てていただろう、お目付け役を呼ぶ。すると襖を開け、喜助が現れた。

 会話は全て聞かれるのは承知の上だ。なので単刀直入に要件を伝える。

「新太郎がきな臭い。調べられるか?」

「はっ」

 喜助は短くそう返事をしたが、動こうとせず政之助を見たままだ。

「何用か?」

「お仙に言われたように、旦那様。茶屋を覗きになど行かぬように。邪魔になりますから」

「承知しておる。しつこい」

「ならば結構でございます」

 喜助は心底安堵したように息を吐き、それが政之助の癇に障る。喜助のほうが実際は年下であるのだが、彼は政之助を若様と呼んだりと軽く見ている気がしていた。喜助とは互いの祖父の代から関係を築いている。不信感など宿ることはないが、こう子供のようにあしらわれると苛立ちを禁じえない。

 喜助にもそれが伝わったようで、苦い顔をすると逃げるように座敷からいなくなった。 


* **

 

 翌日、時刻は昼過ぎ、政之助はお仙と喜助に釘を刺され、今日は茶屋に出かけることなく、城の宛がわれた座敷にて仕事をしていた。各地から集められた情報を一つの巻物にまとめていく。座敷での作業は政之助には退屈で、欠伸をかみ殺しながら筆を動かす。

 尿意を覚え立ち上がり、座敷を出て用を足す。冷え冷えとした寒さに震えながら廊下を歩いていると気配を感じ足を止める。そうして周りを見渡し、人気のない場所へ移動した。すると、影から人が現れる。

「喜助か。こんな時分に何用か?」

「旦那様。これからわしが申すこと、落ち着いて聞いてください」

 政之助の問いかけに答えず、喜助は畳み掛ける様に言葉を発する。言葉と言っても、二人の間で聞こえる程度の小さな声だが。

 喜助の丸い目玉は充血しており、表情が硬かった。嫌な予感を覚えて正之助は彼の言葉を待つ。

「お仙が今朝方姿を消しちまいました。鍵屋の五兵衛さんから連絡をもらいまして探してはみたんですが……、旦那様!」

 言葉の途中で体を反転させた政之助の腕を喜助は力いっぱい掴む。

 幼い時から忍びである父親に鍛えられた喜助は、政之助を止めるだけの力があった。だからこそ、彼は政之助の目付けになったくらいだ。

「お待ちください!どこに行くつもりですか?」

「お仙を探す!おそらく、あの新太郎のところにいるに違いない!」

「無駄です。わしも探してみたんだが、埒が明きませんでした」

「埒が明かない?どういう意味だ?」

「新太郎の稽古場、住まい、芝居小屋を探したんだが、てんで手がかりもつかめなかったんです。新太郎も姿を消しちまって、旦那様!」

 政之助は喜助の制止を振り切るとそのまま駆ける。

 すれ違った者達が声を上げるが、彼は無視して走り続けた。

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