Nowe's Feed -僕を食べる化け物の話-

遠森 倖

序章

序章

 俺は時々、ひとではなくなる。

 ひとではなくなるとは?では何になるのか?

 神か、化け物か、それとも獣に下るのか?

 だが実際には、それ以下の扱いを受けることもある。

 精神の隷属は、肉体の屈服よりも時に人間を損壊せしめる。

 何を言っているか良くわからない?

 ああそうだろう。頭のおかしい人間の囀る、所謂妄言だ。

 

 なんだ、答えを待ってるのか?

 ――――要は、死ぬほど嫌だっていうことだ。



 ちりちりと音を立て火の粉が宙を舞う。祈祷所の中央には護摩壇が組まれ、周囲の板張りの床に万遍なく明かりを振りまいて座する者達を赤く照らしている。

 男女入り混じっており、皆神職の着る水干か巫女装束を纏って、一様に鼻から上を隠す面を着けていた。

「――つみけがれをはらいたまえきよめたまえともうすことを――」

 護摩壇を取り囲むように座る彼等は一糸乱れぬ口調で朗々と祝詞を唱え続けている。護摩木が爆ぜる音に揺れる炎、そして祝詞が祈祷所の空気をさらに濃密なものにしていく。

「やおよろずのかみたちもろともにきこしめせともおす―――」

 場の緊張が最高潮となった頃、祝詞の言葉が終わった。

 それと同時に、護摩壇の正面に座っていた千早を纏った巫女がすっと立ち上がる。巫女は扇を持つ両手を左右へぴんと伸ばした。彼女の背中に、袖を広げた千早の柄がぼんやりと浮かび上がる。ほうっと、毎度の事ながら周囲の者たちから感嘆の溜息が漏れた。

 幽玄なる山々と、そこに完全に調和するように配置された雪月花。描かれた柄は白地に黒い墨のみだったが、その筆遣いの繊細さ、濃淡の機微には色を乗せる以上の表現力が有る。

 それは見る者にこの地への想いを反芻させ、またその土地を愛することに一片の疑いも持てなくなるような――一種洗脳に近い程の美しさを湛えていた。

 扇を開き千早を纏った巫女が舞い始める。足音を立てず滑るように前後左右に歩を進め、両の腕が別々の生き物のように複雑に動いて人々に伝える。

 彼の山に降り注ぐ雪の調べを。

 その雪が沿い春と共に溶けて川の恵みとなりゆくさまを。

 川の水面に潜むあれら等の気配を。

 面のせいでその表情は窺えないが、彼女がこの舞に関しては芸の境地に辿り着いていることは所作だけで明白に伝わってきた。

 巫女が舞う中で、護摩壇の正面と彼女の間の祭壇の上にいたもう一人の人物が露になる。

 その人物はこの部屋で一番豪奢で華美な、それこそ一人で動くこともままならないほどに重たい着物を着付けられて、護摩の前の祭壇に捧げられた刀と共に横向きに置かれていた。

 白黒の千早を羽織る神子とは違い、こちらの着物は極彩色に染められた振袖で、他の者とは違い顔すべてを覆う面が着けられている。唯一その人物の身体で窺うことができるのは、猩猩緋の髪だけだった。幾重にも掛けられた着物と、感情を表さない面のせいで、それは人間というより、無機的な物のようでさえある。

 穢れを祓うように巫女が大きく両の手で空を煽ぎ、そのまま扇を放り投げた。扇が護摩の火の中に沈むと、ばちりと一際大きく気が弾ける音が響く。

 両の手が空いた巫女は、そのまま正面の祭壇の手前に掲げられた刀を手に取り、一気に鞘から抜き放つ。まるで炎を宿したかのように、研ぎ澄まされた刃が紅蓮に染まった。

 暑さと重みでぐったりと身を横たわっていた人物は、巫女の不穏な空気にあてられたのか微かに顔を揺らした。ぴったりと顔を覆う面の覗き穴は小さく、瞳すら窺えない。

 視界を奪われ、動きを封じられ、わずかにのたうつ姿は蝶の標本のように美しく、奇形めいて見る者を魅了する。固唾を飲んで人々が見守る中、巫女が大きくその刃を上段に構え、渾身の気合で振り下ろした。

 ざくり

 幾重にも層を成す着物に刃が沈み、そして止まる。

 ずるり、と刀を巫女が引き抜く。そこには血の一滴も付着していなかった。

 惨劇への期待が裏切られたことと、無事終わったという安堵が綯い交ぜになったような空気が祈祷場を包む中、巫女は刀を鞘にしまうとすぐさま禊のためにその場を退散する。儀式の終りを告げる神職の声にざわざわと人々は立ち上がり儀式の後始末を始めた。

 そんな中で、祭壇に捧げられたままの人物だけが、まだ儀式は終わっていないかのようにぴくりとも動かない。胴の部分をバッサリと斬られ、無残に裂けた着物が悍ましい。血の一滴も流れない傷口を晒して、それは、本当に死んだかのように、動かない。

 その人物は面の中の虚ろな表情を浮かべ、小さく呟く。


 ああ、ひもろぎも大変だ。


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