生きて。
9ON
生きて。
アイツだけは死んで欲しい。
こんな奴が何で生きてるんだろう。
価値のない生命を灯し続けるくらいなら、惜しまれつつ世を去った人達の寿命に充てればいいのに。
あなたは、こうして誰かの死を願った事はある?
子供は無邪気だ。罪の意識を抱かずに命を毟り取る事が出来る。
花を千切り、虫を潰し捕らえ、笑顔で人を迫害し死に追いやる。
だったら、私も誰かの生を奪っていい?
私もまだ成人していないから、立派な子供でしょう?
あなただって、一度はしたことがあるんでしょう?
私だって勿論あるわ。母に暴力を振るう父に何度死ねと言い放った事か。欲しいから奪う、意に沿わないから力で服従させる、人の野蛮な習性は現代でも古代でもちっとも変わってはいない。
だからかつての小さい私は。
無邪気だった頃の私は。
父に向かって刃を向けた。
「死んじゃえ。」と、舌足らずな声で、そう言った。
世の中に平等なんて無い。幸も不幸も、希望も絶望も酷く偏って分配される。だったら、少しくらい足掻いたって良いじゃない。
お母さんはいつだか私の肩を掴んで言った。
「もし何時かお母さんが居なくなっても、茜は生きて。」
その頃の私には、その言葉は理解できなかった。
―――刃物を取り落とし殴り返され、私の顔は痛みに歪んでいた。
「このクソガキがぁっ、誰が生んだと思ってるんだ!」
私を産んだのはお母さんだ。この人間の血を引いているなんて考えたくない。気道が押さえ付けられ、意識が朦朧とする。お母さんが必死に父の手を引き剥がそうとしているのが見えた。
ふと、鍵の閉まっていない家の戸が開いた。どたどたと靴を履いたまま、何人かの知らない人が上がってきて、お父さんを取り押さえ何かを両手に繋いだ。私を殺す手が離れ、喉が咳き込みながら空気を吸い込む。
「ごめんなさい、何も出来なくてごめんなさい……」
私の体をきつく抱きしめたお母さんが、耳元でそう呟き続けていた。
後から知ったことだけど、近所の人が通報したみたいで、父は家から居なくなった。
結局父とは別れ、家を出て母と二人で暮らすことになった。
それは私達が掴んだ、ほんの僅かな幸福な時間だった。
だけどあの時の恐怖は拭えない。やっぱりたまに思い出して私は口にするのだ。使っているシャープペンシルをくるくると回し、その先端を虚空に突きつけて。
「死んじゃえ。」
舌足らずではない、はっきりとした口調で。
_______
愛してる。
簡単に口にできるけど、実際行動で示すとなると難しい。
愛とは誰かを護りたいという心。
軽薄そうな男の愛してるなんて、その程度。
いざとなったら、どうせ見捨てるんでしょう?
「自分の命より大切なものはなんですか。」
ある人は、広大な自然と答えた。
またある人は、財産だと答えた。
小さな子供はよく分からないと首を傾げ、
母は静かに子供を抱き寄せて言った。
「この子です。」
そうすればこれは、愛なのかもしれない。
_____
あれから時間が経ち、新たな父ができて、私とお母さんの生活は変わった。
怪我をすることも、怯える必要もなくなった。
新しい父は気の利く優しい男性で、家族として馴染むのに時間は掛からなかった。
「何か困っていることはないかい。」
「大丈夫です。とてもよくしてもらって、感謝してます。」
「そうか、遠慮無く言っても構わないからね。」
僅かな幸福は大きく膨れ、抱えきれないくらいにまで増えた。昔に比べ、母もよく笑うようになった。
私は、この時間の永遠を願った。
……その願いは、残酷な形で裏切られた。
その日、家族で出掛けていたはずだった。
街を離れ、山の方にある公園で過ごす予定だったのだ。
その時は今日の予定を話していたはずだった。
なのに途中、激しい衝撃がした。
異常な浮遊感を覚え、世界が反転していく。
大きな音を立てて、あらゆる物が叩きつけられる。
酩酊したような感覚から意識を取り戻すと、車が横転していた。後ろの私は驚くほど無傷で、外にもあっさり出られた。
ああ、けれど。
前の席は潰れ、両親の腕がはみ出ている。
血溜まりもできていて、助けを呼んでも間に合うかどうか。
スマートフォンで場所を調べ、先に119番通報をして救急を呼び、私は母と父の元に駆け寄った。
「お母さん、お父さん!」
まともな返事は返ってこない。
お父さんは呻き声すら上げない。
気絶しているのか、既に事切れたのか。
「あ、かね……」
母の、声が聞こえた。
「ここだよ、私はここにいる!」
手を固く握り、声を張り上げる。
身体が熱く汗で濡れた服が張り付く。
油は漏れ、エンジン部分からは火が噴き出していた。
――もう、時間が無い。
「もし何時かお母さんが居なくなっても、茜は生きて。」
いつか聞いた、母の声。
「もし何時かお母さんが居なくなっても、茜は生きて。」
昔聞いたのと全く同じ、母の声。
嫌な言葉が脳裏をよぎった。
まだ、その時じゃない!
必死にお母さんを外に出そうと壊れかけた車を動かす。
勿論女一人の力で何かができるわけがない。
無益な時間だけが刻々と過ぎていく。
「逃げて、あかね……」
「嫌だ! 逃げるもんかっ!」
「逃げて!」
声を出す力も残ってないはずなのに、お母さんは叫んだ。
「貴方だけは生きて! お願いだから、貴方だけは、生きて……」
「お母さんと一緒じゃなきゃ嫌だっ!」
「逃げて! 生きて―――」
何かが弾けるような音がした。
それっきりお母さんの声は聞こえない。掴んでいた腕も強張っている気がした。
止まらない汗と涙を袖で拭い、走って車から離れる。
間もなく、大きな爆発音がした。
爆風、熱風、飛び散る車と何かの破片。背中から煽られ、バランスを崩して地面に倒れ込む。
「大丈夫ですか!?」
ああ、そうだ。
110番をしたんだっけ。
どれくらい、経ったのかな。
駆けつけてきた人達がぞろぞろとやってきて、私を介抱した。残りの人達は焦げ臭い事故現場に向かう。
安堵?恐怖?
―――違う。
後悔?絶望?
じゃあどうして、こんなにも。
分からない。
「分からないよ……」
飽和した感情のような何かを抱え込み。
私はいつまでも倒れ伏したまま、泣き続けていた。
____
墓石の前に立ち尽くし、晴天の空を見上げると鋭い日差しが眼を襲う。
あの忌まわしい日から、そう何か月も経っていなかった。
私、生きたよ。お母さん。
―――お母さんは、これで幸せ?
私ね、考えてみたんだ。
どうして人って、こんなに醜くて、美しいのか。
多分、感情が原因なんだと思う。
機械は誰かを妬みもしないし愛しもしない。
でも人間は、その両方ができる。
上澄みだけが美しくて、それ以外は汚い。
普段は汚さばかり目に付くから、
時折見える上澄みが綺麗なのかも。
「私、そろそろ帰るね。また来るよ、お母さん。」
心は脆く、そのくせ無駄に強靭だ。
硝子の時もあれば鋼の時もある。
ゴムの時もあれば水の時もある。
きっとあの時のお母さんは、鋼だったのだろう。
私を助けるために、必死に伝えたのだ。
「生きて。」
私も何時かそう言える日が来るのだろうか。
何かを護りたいと思う人ができるのだろうか。
まあ、手の届かないものを守る必要は無い。手を伸ばせるなら、助けよう。
きびすを返し、霊園を後にする。
植えられた花が煽られて華やかに揺れ、けたたましく蝉が鳴く。
墓参りに来ている子どもたちが楽しそうに走り、笑う声が聞こえる。今日も世界は酷く平和だ。残酷なほどに、幸せだ。
ずっと、それでいい。
ずっと、そのままで良い。
_____
あの人だけは生きて欲しい。
どうして死んでしまったのだろう。
不幸にも価値ある生命を散らし、惜しまれつつ世を去った人達の一人となってしまったのか。
あなたは、こうして誰かの死を悲しんだ事はある?
子供は無邪気だ。見るもの全てに驚き笑い、楽しむ事が出来る。
花を愛で、虫を眺め、見る人全てを笑顔にしてくれる。
今こうして、私も笑顔にさせてくれる。
私も、いつか母のように何かを護るのかもしれない。
あなただって、大切にしたいものが有るでしょう?
私だって勿論あるわ。色んなものを見て、色んな事を知った今なら、私ははっきりと言える。人の醜さを知って、母と父の愛を知って、護ってくれたあの言葉を胸に抱いた今だからこそ。
だから、色んなものを失った私は。
邪気も優しさも覚えた今の私は。
きっとまた、人間らしくなれるのだろう。
「ありがとう、お母さん。」と、明瞭な声で、そう言った。
―――どこかで聴いていたのか、柔らかな風が吹き私の髪を揺らした。
軽やかな足で、私は歩き始める。
変わり果てる未来へ、新しい今へ向かって。
全てを抱きしめ、受け止めて。
生きて。 9ON @kuonn1514
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