追憶のアニミズム

オセロット

第1章 追憶の始まり

第1話:空


 序:


 I lost my name.

 I lost your face.







 夢を見ている。

 そう直感した。


 元から僕は、夢を見ることがやたら多い人間だった。

 夢というのは不思議だ。時には思い出したくも無い悪夢を見ることだってあるのに、なぜか人は「夢」に幸せなイメージを持つ。


 仮に幸せな夢を見たところで、それはほとんどの場合、ろくに思い出せもしない朧げなものと化すのだ。それこそ記憶の果ての思い出を、誰かが僕のために、眠っている間に探らせてくれているのでは無いかと思うくらいに。


 "——お願い"


 "——ええ。約束しましょう"


 誰かと誰かの声。

 どちらも女の人だ。声の主は二人とも、僕の知っている人間のような気がした。


 "この子だけは——幸せに——呪われた運命から解放されて——"


 "——安心しなさい。恩は返すわ——この子は私が守る"


 夢の中での景色は目まぐるしく変わり続け、自分がどこにいるのか、何を見ているのかすら分からなくさせる。

 それを次第に理解できるようになる時——夢を鮮明に認識し、自分が夢を見ているのだと自覚できる時——それはすなわち夢が終わる直前、もう目が醒めるということだ。





「……合コンぅ?」


 部室での居眠りから覚めて、いくらか時間が経った頃。

 先輩が唐突に振ってきた話題に対して、僕は素っ頓狂な声を上げた。仮にも先輩に向ける声音では無かったと思う。


「そう、合コンだ。興味無いか?」


 低い声で答えるのは、僕の目の前でソファーに座っている津久茂つくも先輩だった。


 高校生にしては長めの髪をオールバックにしている目つきの悪い男子生徒で、有り体に言って、不吉な雰囲気の先輩だ。

 低い声も相まって、先輩というより不気味な教師でも相手にしている気分になる……まあ、それは見た目だけで、実際には普通に優しい、良い先輩なのだが。


「……合コンって、興味とかぶっちゃけ全然無いですけど」


 と、僕は正直に答える。


「だろうな。そう言うと思ってたが、俺が頼みたいのは人数合わせなんだよ。男方の頭数がどうしても揃わないらしくてな」


「人数合わせぇ?」


 その言葉は「お前にコミュ力的な期待はしてない」と言っているようなものだと、この人は分かってるのだろうか……いや、多分分かってるな。


「良いんですか?僕が合コンなんかに参加したら、きっと女の人逃げちゃいますよ?」


 と、僕は自分の顔左半分を指差しながら言う。


 十年前、僕は交通事故に遭い、結果として左目を失った。感覚機能どころか原型すら保てなかった無能な眼球に代わり、今の僕の左側には、義眼が入っている。


 まあ義眼と言ってもきちんとした作りのものだから、よくよく覗き込まなければせいぜい違和感を感じるくらいだろうが、もう一つの問題、僕の顔には未だ大きな傷跡が残っているのだ。物理的な意味で、生々しい火傷の跡が。


 別に自虐するつもりは無いが……普通に考えても、合コンとかいうお気楽なお見合いイベントに参加していいツラではない。


 のだが、津久茂先輩は引くことはなかった。


「あのな、合コンに時間を費やすような頭空っぽの女は、それなりの観察眼しか持っていないんだ。酒も入るんだから、気にもされねえよ。今回はそのくらい尻軽の女しかいない」


「これから見合おうって相手に対してボロクソに言いますね……」


「俺だって人数合わせで呼ばれたんだよ」


 不機嫌そうに、津久茂先輩は言う。


「しかも、そのついでに面倒な幹事を押し付けられた。全く気は進まないし、今からでも放棄したいくらいの役割なんだがな。尻軽女に興味はねえし……俺の好みは物静かで理知的な感じの女だ」


「いやまあ、知ってますけど」


 ちなみに僕の好みは年上で頭のいい人だ。それを考えると、間違いが起こる危険も確かに少ない人選だった。


 しかし……合コンか。


 当然ながら、高校生の身である僕には初めての経験だ。

 しかも津久茂先輩の人脈は、彼の兄繋がりで大学生が多い。要は年上に囲まれての乱痴気パーティーだろう。……いくら人数が足りなくても、そんなもんに僕みたいな友達少ない奴を誘うなよ、先輩。


「……はあ、分かりましたよ。明日の七時に新宿ですね?」


「悪いな。まあ、タダ飯だと思って気楽に来いよ。お前の分の金は多分、酔った兄貴がノリノリで払ってくれるから」


「いやそう言う心配をしてるんじゃ無いんですけど……」


 そこまでケチじゃ無いわ。

 そもそも、その合コンに参加しなくても、どっちみち夕飯にお金はかかるのだ。


「あと、制服は着てくるなよ」


「…………」


 どうやら高校生が表向き入っていい店ではないらしい。

 察するにどこか、チェーンの居酒屋だろうか……流石にキャバクラって事はあるまい。津久茂先輩は、その辺のセーフアウトは弁えた人だ。

 

 —— と、集合時間と場所を聞いてから、僕は部室を出た。

 その足でトイレに入る。尿意を催したわけでは無く、ただ単に帰る前に顔を洗っておきたかっただけだ。


 僕がこの春から通っているM大附属高校は、丁度校舎の新築が終わったばかりで、設備としてはかなり綺麗なものだった。各教室に最新のプロジェクター設備まで揃っている。


「——合コンね。私が生きてた時には無かった文化だわ」


 誰もいない空間に、艶やかな声が反響する。

 何もない場所から煙のように、一人の美女が出現した。紫がかった長髪を腰下まで伸ばし、白のブラウスに身を包んでいる。だが、彼女がこの世ならざる者であることは、床から数センチ浮いたその身体が証明していた。


「イミナさん?」


 僕は振り返り、彼女の名前を呼ぶ。

 イミナさん。十年前からずっと僕のそばにいる——幽霊、、だ。


 交通事故に遭って家族を失った時に、僕の前にふわりと現れた。なぜ僕のもとを離れないのかは未だに謎だが、これだけ長い期間一緒にいると、彼女が虚空から突然現れるこの現象にもすっかり慣れてしまった。


 ——僕が六歳の頃の思い出だった。


 休日(土曜だったか日曜だったかは覚えていない)、僕は家族とともに車で旅行に出かける途中だった。

 運転席に父、助手席にはチャイルドシートの妹、後部座席に僕、母の二人。 妹はすでに長いドライブに飽きたのか、寝息を立てていた。


 僕の家は両親とも仕事人間で、この旅行も久々の家族総出のイベントだったことを覚えている。だが、結果としてこの旅行は人生最悪の結果を生んだ。


 その時僕たちの乗る車は山奥を走っていたのだが、午後一時過ぎ、車の速度メーターが八十キロを超えた時——突如タイヤがスリップし、ガードレールを突き破って、僕たちはおよそ百メートルの自由落下の後、車ごと谷底に叩きつけられた。


 衝撃。

 それ、、がどれほどの衝撃だったのかも、覚えていない。

 ただ眼が覚めると、僕は自分が身動き取れなくなっていることに気付いた。


 眼球を動かせる限りに動かして辺りを伺っても、何かごちゃごちゃとした車の部品やガラスの破片が見えるだけだった。不思議と痛みはなかったが、体のあちこちに不快な圧迫感のようなものを感じて、僕はまた意識を手放した。


 谷底から僕が救助されたのは、それから十二時間後の話だ——結果のみを記そう。


 この事故で、僕は命の代わりに左目と右足先を失った。

 眼が覚めると視界の左側には何も映っていなくて、残った右目から見える景色は、病院の白い天井と、大量のチューブや包帯で命を繋ぎとめられた僕の体だけだった。


 さらに、僕はこの事故で家族三人を失っていたのだと知ったのは、二日後のことだった。

 病院の諸検査や警察の事情聴取(交通事故なので、簡易的で形式的なものだったが)を終え、それから思い出したかのように、両親と妹は助からなかったと聞かされた。

 僕だけでも助かったのは奇跡だ、とも。


 まあ。

 たがだか六歳の子供が受け止め理解するには、重すぎる事実だったのだろう——僕は泣きも叫びもしなかったそうだ。


 病院のベッドの上で、寝て起きて、運ばれてくる病院食を食べて、また寝るの繰り返し。そこにあるのは何の感情でも無く、ただの空虚だった——虚ろな時間の流れだけがあった。


 そんな時。


「——あなた、それでも生きているのね」


 たまたまその時覚醒していた僕の意識に、蕩けるような声が入り込んできて——彼女、、が僕の前に現れた。


 綺麗で、華麗で、端整で、突き抜けたように妖艶な美女。滑らかな長髪をふわりと浮かせ、純白のワンピースで艶かしい肢体を包み隠し、僕の前に降り立った。


 足もあり、身体が半透明というわけでも無いのに、それを見て僕はすぐに、この世のものでは無いと理解した。

 まあ、見れば分かる……のっけから、「彼女」は宙に浮いたままで僕の前に現れたんだから。


「酷いわ」


 と、病院のベッドに寝かされた僕を見て、一言目に「彼女」はそう言った——耳など介さずに、直接脳に流れ込むような、艶美な声音だった。


「酷くて醜い——見ていられない。可哀想」


 なんて、そんな事を。

 事故に遭い、大怪我をして、あまつさえ家族を失った六歳児に向かって、憚りなく「彼女」は言うのだ。


 残念ながらその侮辱に近い言葉に、僕は反論一つしなかった。子供心に、自分の姿が言われた通り"醜い"のだと理解していた事もあるし、言い返す気力も無かったのが大きい。


 だがここからが問題、一体何を思ったのか、何に興味を持ったのか、その幽霊は僕のそばを離れなくなったのだ。


 手術を受け、身体が徐々に回復し、退院して、施設に引き取られて、一人暮らしを始めても「彼女」は、僕のそばにいた。

 さらに困った事に、「彼女」の声は僕にしか聞こえないし、姿を見ることができるのも僕だけだった(その事が、僕が「彼女」を幽霊なんだと定義した一番の理由だ)。


 誰にも話せない。

 話しても信じてもらえないのは分かっていたし、確かめたことでもあった。


 僕だけにしか見えない、僕だけの幽霊。


 ただ、これは拍子抜けすらしたことだが、「彼女」は決して害のある存在では無かった——例え追い払おうとしても追い払えなかっただろうが、僕は「彼女」を煩わしく思ったことが、不思議と無かった。

 当たり前にそこにいる、そこに疑問の余地は、やがて無くなっていった——日常。


 そして、「彼女」との人生はずるずると続いていく。

 皮肉屋で冷淡で優しくて時には暖かく美しい幽霊との人生。


 そして「彼女」は僕に、名乗った。


「私はイミナ——ただのイミナよ」


 ずるずると、"イミナさん"との人生は続き、もう十年が経とうとしていた——彼女を「イミナさん」と呼ぶ理由は、単純なこと、彼女が年上だからだ。


 彼女が最初に現れた当時、僕は六歳だったわけで、その時からイミナさんは見た目二十歳ほどに見えた。当時の僕からすれば大人だ。

 幽霊であるため、イミナさんは歳をとることは無いのだろう。年々僕は(見た目的には)彼女と同い年に近付いているが、今更喋り方を変えるつもりはなかた。


 彼女の声も彼女の姿も、僕以外には認識できないため、客観的に見ると今の僕は、トイレの中一人で会話をしている変人という事になるが、まあ誰もいないんだから問題ない。


「随分と大人になったじゃない?休日に大勢の異性に囲まれて食事……女遊びね」


 意地悪に、しかし上品に笑いながら、イミナさんはそう言った。


「女遊びって、言い方えげつなさ過ぎるでしょ……テキトーにご飯食べるだけですよ。人数合わせって言われたじゃないですか」


「興味なさげなフリをしてるだけじゃないの?レンくんだって花の高校生でしょう」


 レンくん、とイミナさんは僕を呼ぶ。

 

 領場蓮えりばれん、という僕の名前。

 イミナさんからは、ファーストネームであるところの「蓮」を取り、そのまま「レンくん」と呼んばれている。蓮根みたいだからやめて欲しいと言ったこともあるが、これも今では耳慣れた呼び名だった。


「つーかイミナさん、ここ男子トイレ……」


 まあ人もいないし、僕にしても顔を洗いに入っただけだから、構わないのかもしれないが——ともかく僕は、洗面台に立てかけていた杖を持って、トイレを後にした。


 学校を出、三分ほど歩くと駅に着く。そこから一時間ほど電車に乗り、さらに徒歩十分。そこにある小さなアパートが、僕の家だ。


 事故で家族を失ってからは、児童養護施設で生活していたが、去年に職員に相談し、一人暮らしの許可を得たのだ。


 施設では、若干ながら僕は孤立気味だった——様々な理由で施設にいなければならない子供たちの中、僕があそこにいた理由は、彼らと比べても重すぎたせいだと思っている。


 いや、違う。

 理由は明白なのだ——まだ物事を理解出来ない子供の頃、僕は憚ることなく人前でイミナさんと会話をしていた。


 誰からも見えないイミナさんの方を向いて、誰にも聞こえないイミナさんの声に応えていた。

 そんな僕が、周囲からはどんな風に見えていたのか、想像に難くは無い。


 ——夜の住宅街に、杖がコンクリートを叩く音が響く。


 僕は事故によって左目の他に、足を負傷した。失くしたのは足先のみだったので、運動や走ったりは出来ないが、杖があれば普通に自分の足で歩ける。

 まあ、僕は運動が好きなタイプでは無いし、むしろ体育の授業を合法的にサボれるのは気楽でもある——こんなことを言うと一部界隈の人には怒られそうだが、僕に言わせればネガティブに悩み続けるよりも、そうやって自分で折り合いをつける方がいいに決まっていた。


 玄関の鍵を開け、部屋に入る。

 家賃月五万円、風呂付き1LKの小さなアパートだ。ただいま、とは言わない。家族はもちろん、僕には帰りを待っている恋人もいないからだ。


「……相変わらず寂しいわね。部屋に連れ込める女の子くらい探したら?」


「高校生なんですけど」


 ……それに、ただいまは言わないが、別にこの部屋に僕一人という訳では無い。

 イミナさんはずっと僕のそばに居るのだ。それは外でも、学校でも、家の中も例外では無い。


 僕はイミナさんに対して、概ねは好意的な認識をしていた。

 家族を失った僕にとっての、やはり家族のような。それは僕にとって、あるいは掛け替えのない支えなのかも知れない……とか、考えても見る。


 ……実際、どうなんだろう?


 幼くして両親を失った僕だ、他人から与えられる母性というものには飢えていたはずだが、しかしそれはイミナさんの存在によって満たされているのだろうか?と考えれば、微妙な気がする。

 彼女は、強いて言うなら「お母さん」というより「お姉さん」という感じだし——とか。


 こんなことを真剣に考えてる事がバレれば、皮肉屋で意地悪な彼女は、また冷ややかに笑いながら僕のことを馬鹿にするに決まっているのだが。

 

 それにずっと一緒と言っても、トイレや風呂にまで付いてくる——憑いてくる訳では無い。その辺りの最低限のプライバシーは守られている。本当に最低限だが。

 だから実際のところ、イミナさんという「幽霊」との共同生活は、僕にとっては心地の悪いものでは無くなっていた。


「レンくん、今日の金ローって何やるんだっけ?」


「…………」


「何、その目線」


「いや、幽霊のイメージぶち壊しだなぁって……」


 仮にもこの世に未練あるはずの亡霊が、毎週金曜ロードショーを見てるのが筒抜けのセリフを吐かないでほしい。

 

 イミナさんは、部屋に帰ってきた瞬間からその装いを、クマ柄のパジャマに変えていた。

 どうやら幽霊の性質らしく、自分の意思で自分の格好を好きに変えられるそうだ。金のかからないお洒落なので、まあ文句は無い。ただ一つ感想を言わせてもらうと、イミナさんは抜群のプロポーションを誇る女性なので、肌にそのままにクマさんパジャマという格好はなんというか、無駄にエロかった。


 ……というか、「何気に心の支えですよ」な風に紹介したが、普通世間一般の幽霊というやつは、もっと恐ろしいものじゃ無いのだろうか。少なくとも「幽霊」「映画」とググって出てくるのは、スリラーやらホラーやらばかりのはずだ。スティーブンキングとかの。


 事実は小説よりも奇なりとか言うが、確かによっぽど僕が過ごしている現実の方が奇妙かも知れない、これは。


 ともかく僕は、制服を脱ぎ、早々に風呂に入ることにした。

 その間にイミナさんはリビングのソファーに腰を下ろし、テレビのリモコンに手を伸ばして、チャンネルを回していた。ソファーに座ってテレビを見ているだけの図だが、妙に上品だ。


 ……物に触れるのだ、この幽霊は。

 もうイメージも何もあったもんじゃ無いけど。


 ただ、無制限にという訳では無いらしく、例えば僕はイミナさんと触れ合うことは出来ない。彼女から聞いた話だと、生きた人間に幽霊が触ることは不可能だと言う。無機物など、己の意思がないものに限り、幽霊は干渉できるそうだ。


 脱いだワイシャツを洗濯機に投げ入れた時、ふと僕は、イミナさんに一つ質問を投げかけた。


「イミナさんは、どうして僕と一緒にいるんですか?」


「貴方のことが好きだからよ」


 微笑んで、イミナさんはそう言った。

 過去に何回も同じ質問をしている。返ってくるのも必ずこの答えだった。もはやどきりともしない、"はぐらかし"だ。

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