インターバル③ ~連絡~

 

 ヘレンと美奈子がリビングに入ると、梨花が窓辺の椅子でウトウトしているのが目に入る。まだ少し動くだけで疲れてしまうと聞いていたが、実際そうなのだろう。

 大きな椅子のクッションにもたれて眠る梨花の顔は少しあどけなく、安心できる場所でくつろいでいるようにも見え笑顔を誘う光景だった。しかし――


「ほんとだ……。なんで? 嘘でしょ……」

 美奈子の言う通りだ。力を集中させて見てみれば、梨花はこの次元の人間だということが分かり、ヘレンはへなへなと座り込んでしまう。

「だって、梨花さんはエリカ先輩じゃないのに。なんで?」

 ほとんど声にならない呟きを漏らすヘレンに、美奈子は同情の目を向けた。


 ヘレンにも分っているのだ。おそらく今まで慕ってきた恵里萌香のほうこそが、別次元の人だったのだということを。

 本人でも気づかないほど近い次元の人間がずれてきたわけではない。重なり合う宇宙の、異世界ともいえるような次元のかけらが梨花の周りに散らばっているのが見えるのがその証拠だ。

 美奈子ほど力が強くないから気付かなかった。それくらい、萌香はこの世界に馴染んでいた。


「多分、物心つくかどうか。それくらい幼い時に入れ替わっていたんだと思うわ」

 アイスティーをトレーに載せた叔母が入ってくると、梨花を起こさないようにするためか小さな声でそう言った。

「叔母さんは知ってたの?」

「琉斐がそう言ってたから。私なりに色々確かめてみたのよ? 美奈子さんが見て確信したなら、もう間違いないわね」

「琉斐が……」


 じゃあなぜ教えてくれなかったのかと、恨めしい気持ちが溢れてくる。だが聞いたとしても、ヘレンは自分の目で見るまでは信じなかっただろう。

 足元が大きな音を立てて崩れたかのように、頭の奥がクラリと揺れる。

 感情とは別のところで、様々なことを冷静に理解できてしまう自分に吐き気がした。


「記憶喪失のエリカ先輩を家族に会わせて、安心してもらって……。その間に本物を助けようって……琉斐にもそう言ってたのに」

「ヘレン……」

 これでは萌香を連れ戻すことなどできないではないか。

 正常な場所にに戻ったであろうはずの人間を、再び間違った場所になんて。そんなことできっこない!

「なんでっ!」

 なんで! どうして!


 理不尽な怒りに感情が高ぶり涙があふれてくる。両手で顔を覆い嗚咽を漏らすヘレンの側に誰かの気配が近づき、ふわりと抱きしめられた。

「どうしたの? 悲しいことがあったの?」

 萌香ではないのに萌香の声。

 顔をあげれば、心配そうな顔をしている梨花の顔があった。

 ――先輩!

 喉の奥に声が張り付く。

 普通の人が見れば、彼女は事故で記憶を失ってしまった恵里萌香だ。

 ヘレンだってこの力がなければ素直にそう信じた。


 でも違う。この人は、あの舞台にいた先輩ではない。

 大好きで大好きで、この人に胸を張れる自分になりたい――そう思わせてくれた恵里萌香ではない。

 悲しみの奥で、冷静な自分が語り掛けてくる。

 本当なら、これは喜ばしいことだと。

 サリューダの仕事をせずして、遠くにいた人を家族のもとに戻せる。ちゃんとサポートしてあげなければいけないと。


 複雑に波立つ心を押さえ必死に笑顔を作るが、ヘレンの目からはとめどなく涙があふれた。梨花はそれをハンカチでぬぐい、そっとヘレンを抱き寄せる。

「大丈夫よ。泣かないで。私がついてるから。力になるから」

 囁くように、でもはっきりとした声で励ます梨花に、ヘレンは顔をあげた。

 一見か細く、不安そうな顔。

 なのに目だけが強い。

 自分のほうがさぞや不安だろうに、泣いている初対面のヘレンを助けたい、力になりたいと、彼女が本当にそう思っていることが分かる。そのあまりにも見覚えのある表情に、この人は本当に「記憶喪失の萌香なのでは」と思えてしまい、ヘレンは弱々しく微笑んだ。


 ――むしろ、そう思って接していかなければいけないんだ。


 この人が本物の、この次元にいるべき恵里萌香本人。今現実に、助けてあげることが出来る相手。

 意識をヘレン個人からサリューダの一員に切り替える。

 何らかの事故で次元を、もしくは時を超えた人を助けるのが、自分たちの役割なのだから。


 ヘレンはこっそりと深呼吸をし、にっこりと無邪気な笑顔を梨花に向けた。

「驚かせてごめんなさい。私はヘレン。宮本ヘレンといいます。あなたに会えて嬉しいです――エリカ先輩……」

 エリカ先輩。

 一瞬だけ悩んで付け足した呼び名に、梨花の目が微かに見開かれる。

 何か心の琴線に触れるものがあったのだろうか。

 ヘレンが笑みを深めると、それにつられたように梨花も微笑みを浮かべた。

「ヘレン、さん……。綺麗な名前ね。あなたは私を知ってるの?」

「ヘレンと呼び捨てでいいですよ。いつもそう呼ばれてましたから。私はエリカ先輩の中学からの後輩なんです」

「後輩……。私はエリカと言う名前なの?」

「いえ、本名は恵里萌香で、エリカはあだ名です。そう呼ばれるのは嫌ですか?」

 じっと見つめると、梨花はふっと微笑んで首を振る。

「ううん。すごくしっくりくる。ありがとう、ヘレンさん」

「ヘレンですよ」

「ふふ。じゃあ、ヘレン」


 床に座り込んだままニコニコ笑い合う二人に、叔母が「さあ、お茶にしましょう」とソファへ座るよう促した。


   ◆


 ほどなくして両親が到着する。

 梨花とはテレビ電話で何度か対面していたらしいと聞き、ヘレンは複雑な気持ちになった。


 ――うん、まあ、顔なんか見ちゃったら、絶対平静じゃいられなかっただろうし。


 そうは思っても、どこまでも冷静な兄の判断に腹が立つ。いつもニコニコと穏やかなあの男が、取り乱したり間違えたりすることがあるのかしら? そう考え、ひそかに頬を膨らましていると、梨花に頬をつつかれてしまった。


 ――もうっ。この顔にニコッとされたら、こっちまで笑顔になっちゃう。ナチュラルに頭も撫でてくれるし、エリカ先輩だけどエリカ先輩じゃないなんて信じられない……。



「それにしても琉斐、帰ってこないわね」

 昼食を過ぎても帰ってこないことに、母が首をかしげている。

 叔母の話では、琉斐は朝から姿が見えないそうだ。とはいえ、部屋は仕事をしていた形跡があったので、何か急ぎのようでもあって飛び出したのだろう。どこにいるのか、スマホも通じない。

 そんなこともたまにあると聞いたことがあるので、とりあえず兄抜きで計画を進めることにした。


 まずはヘレンが緊張しながら、萌香の実家に電話をかける。

 世間は夏休みだが、両親は仕事で弟は夏期講習の最中かも知れない。もともと昼と夜の二回電話をするつもりだったのだが、転送されていたらしく、電話は意外な人につながった。

 萌香と少し似た声の電話先の相手は、彼女の叔母真由子だった。


「えっ、真由子さんですか? 私、萌香先輩の後輩の宮本ヘレンです」


 真由子とは一度、出先で偶然萌香たちといるところに出くわしたことがあり、一緒にお茶をしたことがあるのだ。真由子は顔も雰囲気も萌香に似ていて、叔母と姪と言うより年の離れた姉妹のようだという印象を持っていた。

 真由子もヘレンのことは覚えていてくれたらしく、「何かあった?」と聞く声は優しい。とはいえ、どこか疲れたような声に胸が痛んだ。なんと萌香の母親が倒れ、今病院に付き添っているのだという。


 それでも打ち合わせ通り、萌香を見つけたこと。でも記憶がないことなどを告げる。チャットアプリのIDを聞き、梨花の顔と、耳の裏の痣の写真を撮って送信した。

 兄が見つけたときの状況と一時心肺停止状態だったことなども正直に伝え、出来れば誰かこちらまで来れないかと告げる。途中でヘレンの父に代わり、飛行機の手配などもこちらでするので、身一つで来てくれればいいと伝えた。


 むこうでも色々話し合われたのだろう。

 結果、今一番手が空いていて身軽な真由子が北海道に来ることになった。


「明日、先輩の叔母さんが来ますよ」


 夕方近くに昼寝から起きてきた梨花にそう告げるが、熱っぽいのか顔が赤く目が潤んでいる。三日と開けずに高熱が出ているそうだ。

「お医者様も原因が分からないみたいでねぇ」

 管理人の奥さんである芙美が心配そうに眉を曇らせた。

「大丈夫ですよ。熱はあるけど、ご飯は食べられるし」

 そう言って優しく梨花は微笑むが、普通の食事は今日は無理だろう。ヘレンは梨花をベッドに戻して寝かせると、もう眠れないという梨花に乞われるまま思い出話を聞かせることになった。



「まあ。私は演劇をしていたの?」

「はい。すっごく演技が上手なのに裏方ばっかりしてましたけどね」

 ぷくっと膨れるヘレンに、梨花がクスクス笑う。

「どうして膨れているの?」

「だって、エリカ先輩が裏方を手掛けた舞台ってすごいんですよ。無理やり表に引っ張っても結局裏方にも関わっちゃうじゃないですか。負担を考えたら、どうしても表に引っ張り出せないのが不満だったんですよね。私、エリカ先輩が主役の舞台を見てみたかったんです」


 本物の先輩には、強く言えなかった本音。

 萌香の手にかかると魔法がかかったかのような舞台になるけれど、彼女が本気で舞台に立った姿を見たかったのだ。

「もう学校も卒業しちゃったから、たまに部活に顔出してはくれますけど、でも……」

 言っても仕方ないことを言ってしまったと気づき、ヘレンはハッと顔をあげて空気をかえるように笑った。

「今度の大会のことでも相談してたんですよ。衣装がまだ今一で困ってるんです。先輩、相談に乗ってくれますか?」

 期待しているわけではなかったが、萌香本人にだったら言ったであろうことをあえて口にすると、梨花はベッドの中で嬉しそうに笑うのでドキドキする。


「ええ。私でよければ喜んで。嬉しいわ」


 ――うわぁ。やっぱりエリカ先輩が演劇に関わった時の一番いい笑顔だ。


「ところでヘレン。琉斐はまだ帰ってきてないの?」

 突然兄の名前を出され我に返る。

「まだです。どこに行ったんですかね。兄はエリカ先輩に親切にしてますか? 嫌なこととか不便とかかけてません?」

「ふふ。すごく親切よ。口数は少ないけど、いい人よね」

 ――ん? 口数が少ない? 琉斐が?

「琉斐、あまりしゃべらないんですか?」

「ええ。いつも何か考え事をしてるみたい。忙しい人なのね」

「そうですか」


 梨花の言う琉斐はあまり笑わないとか、おおよそ兄らしくない気がした。梨花のことが苦手なのだろうかとも思ったが、電話ではとても心を砕いている風だったので、彼女に迷惑をかけてないならいいかとヘレンは肩をすくめた。

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