70.手帳のR

 土曜日の朝。

 少しだけ朝寝坊をしてすっきりした萌香は、自室で紅茶と薄いパンのみの朝食を済ませた。簡単な調理ができる程度のミニキッチンが付いているので、休日はあらかじめ希望しない限り食事は自分で用意することになっているのだ。萌香にとっては気楽でありがたいが、材料があまりないので、ついでに今日少し買い出しも出来たらいいなと思う。


 今日のランチの約束は、地理に不慣れな萌香では待ち合わせが難しいため今日はトムたちが迎えに来てくれることになっていた。出かけるまでにはまだ十分時間があるため、萌香は久々にすっきりした頭で絵梨花の手帳を開く。あらかじめ付箋を貼っていた、謎の人物「R」に関する記述のあたりだ。


 メモは日記を写したか、もしくは思いつくままに記していったのだろう。

 話に聞いた絵梨花の性格上、準備期間が十分にあればきちんとわかりやすくまとめていたと思うのだが、手帳の内容は様々でRの記述はあちこちにある。目につくところにはおおよそ付箋を貼ったので、これでR中心でまとめて読めるはずだ。


「Rは鏡の向こうにいる……は、比喩じゃないのかなぁ」

 何度読んでも、前後の文を確認してもそうとしか読めない。

 解読が進まないのは疲れていたこともあるが、内容が不思議でもあったからだ。だが今ならサクサク読み進められそうなので、スマホのアラームを二時間後にセットして内容に集中した。


  *  *  *


 わたくしがRと出会ったのは、もう十年以上も前のこと。

 お兄様が学校に行くためにラピュータに行った年だったはずだわ。

 ねえ、信じられる?

 Rはわたくしのドレッサーの鏡の中に住んでいるのよ。


 (中略)


 マチルダ大叔母から頂いたドレッサーの鏡には秘密があるの。

 その秘密を教えてもらったときの気持ちが分かる? まるでアリスになったような気分だったわ。なぜって、大叔母様のドレッサーの鏡には、別の世界があるからよ。他の鏡では見えない、鏡の向こうの世界が!

 もう一人のわたくしであるあなたなら、やっぱり見えたかもしれないわね。もう無理でしょうけど。


 (中略)


 Rのことは、最初は優しくて面白いお兄さんだと思っていた。

 でもね、今思えばわたくしは、Rの姿を初めて見た瞬間恋に落ちていたのよ。幼くても恋だった。

 鏡越しにしか会えない彼は、わたくしに色々なものを見せてくれたし、教えてくれたわ。この世界を隔てている鏡がなければいいと、何度思ったかは分からない。でも鏡がなければ彼には会えない。皮肉ね。

 手のひらを合わせても、体温なんて伝えてくれないのに。


 (中略)


 ドリが泣いてる。アルに告白したのにフラれたらしい。彼女が一目ぼれしてから一ヵ月だから、まだ傷は浅い方かしら。だからやめておきなさいって言ったのに。

 アルもフリーの時は来るもの拒まずだと思っていたけれど、意外とそうではなかったのかしらね。いえ、ドリが私と同じ年ではなく、彼よりも年上だったなら違ったのかしら。


 あの声を聴くとおかしくなりそう。一人の女性と長く続くなり結婚して、遠く離れてくれたらいいのに……。彼の姿を見たくない。なぜ彼はお兄様の親友なの?


 ねえ、もう一人のわたくし。あなたはどう? アルバートにはもう会った?

 彼(ぐしゃぐしゃと何か消してある)は素敵よね? でも甘すぎて私には毒のようだわ。


 (中略)


 憧れはやがて、本気の恋に変わっていった。

 自分には婚約者がいる立場なのに。

 苦しくて苦しくて気が狂いそう!

 だから余計に聖女として完璧な自分であるよう、ますます厳しく自分を律してきたけど、想いは減るどころか膨らんで手に負えない。


 (中略)


 ……婚約者フリッツには、わたくしよりもピッタリな相手がいる。二人は気付いていないけれど、絶対に結ばれたほうがいい。

 フリッツのことは大好きだ。でもどうしてもお兄様に対するのと同じ愛しか感じない。だから二人が惹かれ合っていることに気づいたとき、私は卑怯にもホッとした。

 それに大好きな二人が結ばれたなら、それだけでわたくしがここで生きた意味があるじゃない?

 どうすれば、二人は自然に結ばれるかしら。


 (後から付け足したように走り書きがある)

 ああでも、もう一人のわたくしがフリッツを愛したら?

 ごめんなさい、そうではないことを願ってる。私がこれからすることをどうか許して。あなたが本当のエリカなら、きっとそうはならないはずだから。


 (中略)


 十七歳になる少し前、Rから別れを告げられた。

 いえ、正確にはもうすぐお別れだと教えられた。星が重なれば、もう二度と会えないだろうと。


  *  *  *


「ここには、ここにいるべき本物のエリカが来るべきだ。わたくしのような「ニセモノの聖女」ではない、本物の「イチジョー・エリカ」が。だからわたくしは――」


 ピピ ピピ ピピ


 アラームの音でハッとする。

 違う世界に入り込んでいたような、夢の世界にいたような気分で時計を確認し、慌てて出かける支度をした。かなり飛ばしながら読んだが、すっきりした頭で読んだ内容に、頭の中がすごい勢いで情報を整理しようとしているのを感じる。

 まるで似た色彩のジグソーパズルを組み立てている気分だ。


 途中にあったいくつかのアルバートについての記述。彼の表記は「R」ではなく「Al」だった。


「彼の何かは毒……か」


 イチジョーから持ってきたドレッサーをのぞき込んでもおかしなものは見えないが、絵梨花はここに誰か違う世界の人を見ていて、ひそかに交流していたのだろうか?


 メイクを簡単に直しながら、ふと萌香はある可能性に気づいた。

「まさか、Rはイマジナリーフレンド空想の友人?」

 絵梨花は現実の世界がつらくて、幻想の世界にRという架空の愛する人を創造していたのかもしれない。切ない叫びはRに対するものだろうか。それともAlに対するものだろうか。


「でも別れを告げられたって?」

 星が重なればもう会えない……これはどういう意味なのだろう。

 この内容はアルバートに話したほうがいいのだろうか。彼はここには住んでない上、今は仕事で出張中なので話せるのは来週以降になるが、後で確認してみよう。それまでにもう少し、きちんと整理して読んだほうがよさそうだ。


 先を読みたくて心がはやるが、ひとまず深呼吸をして手帳を抽斗にしまった。急になぜか一部のページがサクサク文章が読めるようになった気もするが、きっと集中できたからだろう。


「あれ、ちょっと待って。イチジョー・エリカに一条絵梨花の字を当ててくれたのがRだとしたら?」


 Rがイマジナリーフレンドではなく、本当に存在すると考えれば――。

 もしかしたら彼、もしくは彼女は日本人なのかもしれない。

 英語を教えたのもRなら、日本好きな欧米人かも?

 同じ世界の日本(もしくは欧米)かどうかは分からないが、それでも新しい情報に萌香の胸は痛いくらいにドキドキしていた。

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