56.萌香の仮説

 無事茶会は終了し、学生全員の合格が発表された。学生たちは好条件の勧誘や紹介状を得、来週には皆新しい道に旅立つ。


 デズモンドに会ったショックを隠して最後まで学生のサポートした絵梨花は、学生が解散した後洗面所で顔を洗い、自室に戻った。

 絵梨花の仮面を外し、遠くに置いていた萌香の意識が戻る。


「こわかった……」


 フットマンに呼ばれて一緒に歩いていた時、絵梨花の前に立ちはだかった男。

 その姿を見た瞬間、絵梨花の中で萌香の意識がビクッと委縮した。

 それにつられたのか、その男の声に、目に、絵梨花の全身が粟立つ。


 嫌だと思った。この男は嫌いだと思った。


 見た目はギリシャ彫刻のような美しさでありながら、ヘドロのような幻が全身を覆って見えそうなほど禍々しい存在に見える存在。

 全然知らない人のはずなのに、あまりの不快さとそれに勝るとも劣らない恐怖で、もしも萌香の意識を遠くに置いてなければ、震えて何も言えなくなっていたかもしれない。


「エリカ。愛しい人。やっと会えたね」

 全身を嘗め回すようなねっとりとした声。

 男は抱擁を求めるように大きく腕を広げ、絵梨花が飛び込んでくるのを待っているかのようだ。でもそれは大きく口を開け牙をむいた大蛇のようにしか見えず、足がすくんで体が硬直した。


 絵梨花を迎えに来たフットマンが自身の後ろに彼女をかばってくれたが、次の瞬間、男はむっとしたように突然彼をはねのけた。片手で薙ぎ払ったとは思えないほどの威力で飛ばされたフットマンは、一瞬息が詰まったかのような音を漏らし、なんとか起き上がろうとしたものの力尽きたように倒れた。

「何をするの⁈」

 フットマンに駆け寄ろうとした絵梨花は男に腕をつかまれ、もがいて逃げようとするも、そのまま抱きしめられてしまった。

 恐怖で全身が凍り付き、首にかかる息の不快さに身を縮める。腕から逃れようともがくのにピクリともしない。


「会いたかったよ、愛しい人。僕の女神。君もそうだろう?」

「知らない、あなた誰」

 必死にそれだけ言う絵梨花をさらに抱きしめた男は、絵梨花の冗談でも聞いたかのようにクツクツと楽しそうに笑った。

「僕を忘れたって? いけない人だ。あなたは僕の女神で、僕はあなたの運命の男だよ」

「知らない! 離して!」

 必死で腕から逃れようともがくが、さらに強い力で締め付けられ、息が苦しくなる。

 萌香の意識が絵梨花の関係者を思い出そうとする。

 絵梨花の秘密の恋人?

 いいえ、絶対に違う。


「デズモンドだ。呼んでごらん、愛しい人」

 ねっとりとした甘いささやきに身の毛がよだつ。

 絵梨花を自分のものだと信じているような傲慢さを隠さない態度。なのに「絵梨花」ではない別の何かを呼んでいるような奇妙さ。そこに愛情のような温かさはひとかけらもなく、そのちぐはぐさが気味悪く恐ろしい。

 絵梨花が嫌ってた唯一の男は、間違いなくこいつだ。


 絵梨花がもがけばもがくほど拘束される。

 頭に男が顔を寄せ、髪の匂いを吸い込んでるのを感じ血の気が引いた。

 デズモンドの胸に顔を押し付けられ、呼吸ができない。酸欠で耳の奥がガンガンなっている中、男の声がだんだん遠くなる。


 ――お兄様、アル……


「エリカから離れろ!」

 絵梨花が誰かに腕を引かれた瞬間、拘束が解かれ抱き留められた。

「エリカ、しっかりしろ」

 低く響く声にかすんでいた目を懸命に合わせると、そこにアルバートがいた。

 安堵のあまり絵梨花はその胸にすがり、酸素を求めてあえぐ。


 これは殺人未遂ではないか。

 そう考えた絵梨花が懸命に怒りと恐怖を抑えるものの、代わりにアルバートが殺気立った。

 のらりくらりとしたデズモンドが恐ろしかった。何を言っても通じるとは思えず、悔しさと焦りでもどかしい。アルバートまで傷つけられたらと気が気ではなかった。

 絵梨花の肩を抱くアルバートの手に力がこもる。大丈夫だと言われた気がした途端、彼の口から発された言葉に絵梨花は耳を疑った。

「俺は、エリカの求婚者だからね」


 求婚者? 絵梨花の?

 兄……ではなかったのだろうか?


 動揺を隠してアルバートを見上げると、彼は一瞬「しまった」という顔をして素早く絵梨花に「合わせろ」とささやいた。耳に残るその声に、絵梨花の心臓が早鐘のように胸を叩く。

 それでもこれはデズモンドを遠ざけるための芝居だと理解し、ひと呼吸で意識を切り替えた。ここにいるアルバートは、将来を共にするかもしれない愛しい人なのだと。

 絵梨花はするりと髪に差し込まれたアルバートの手に視線を流し、目を伏せ、彼の名を呼ぶ。


 二人だけの世界を作り出す。


 他の男などいらないのだと、自分を呼ぶデズモンドに拒絶の意思を示す。


 逆切れされるかもしれない恐怖を必死で抑えていると、そこに現れたトムが助け舟を出した。求婚者候補は両親に認められたアルバート一人だけだと口裏を合わせたのだ。


 だから絵梨花は自分の男はアルバートだけだと、どこまでも甘く、そして強固に意思表示をした。

 その後デズモンドが大きく舌打ちして踵を返し、姿が見えなくなると、途端に足の力が抜けた。


 絵梨花をかばったフットマンは肩を強打していたものの、今は意識もしっかりあって元気だ。ただ頭も打っていたので一晩入院することになり、先程謝罪と礼を兼ねて急いで見舞ってきた。

 絵梨花を迎えに来ただけなのに、とんだ災難である。

 絵梨花がモテることは分かっていたつもりだが、実はわかっていなかったなと思い反省する。


「現実にこんなことが起こるなんて……」


 思わずぼやくが、ここで目覚めて以来非現実の連続なので、今更かもしれないと思い直した。それでも怖かったのは確かだし、助けに来てくれたアルバートには感謝しかない。だが絵梨花を助けるためとはいえ、彼にとんでもないことを言わせてしまったことだけは、複雑な気持ちだった。

 萌香にアルバートの身支度を任せてくれたクリステルにも、申し訳なく思う。

 せっかくアルバートを魅力的に仕立てたのに。


 茶会には素敵な女性がたくさんいた。アルバートに秋波を向けた可愛い女の子は一人や二人ではなかった。

 なのにふりとはいえ、アルバートは絵梨花の求婚者候補になってしまった。


 ――これじゃあ、自分のためにアルバートさんを見栄えよくしたみたいじゃない。クリステルさんも、絶対にそう思うわよね。


 求婚者候補とは何だろう? 恋人とは、また違うのだろうか。

 なんだかとんでもないことになったとオロオロする絵梨花に、アルバートたちは大丈夫だと笑った。

「婚約したわけじゃないし、問題ないさ。将来を考えてることにすれば、俺も母からせっつかれなくて済むからな」

 恋人でさえ婚約まで行かないのはいつものことだとニヤッと笑ったアルバートは、落ち着くまではそういうことにしておこうと、くしゃくしゃと萌香の頭を撫でた。


 シモンが娘の気持ちを無視して裏で見合いを設定してたのを聞いたときは驚いた。だが急遽アルバートが絵梨花のために求婚者候補のふりをするという計画を、父母も了承してたことに唖然とする。

 萌香に伝え忘れたのはともかく、最悪、こんなことがあるかもしれないと予防線を張ってくれたのだ。


 だがデズモンドの前にいたとき、萌香の意識は客観的に絵梨花とアルバートを見ていた。だからこそ余計に複雑な気持ちになる。


 デズモンドから助けてくれた力強い手。絵梨花を見る眼差し。それはまるで白馬に乗った王子様か、お姫様を守る騎士のようだった。

「あんなにカッコよかったのに、アルバートさんのすごいところはあれが演技やカッコつけではなかったところだわ」


 絵梨花の頬に接吻するふりをした囁き。焦ったような早口は妙に色っぽくて、思い出すと萌香は顔が熱くなり、このままゴロゴロと転がりまわりたくなる。

 彼の美声は破壊力抜群で、それに引きずられるように絵梨花が必要以上に甘い空気を出したのは、萌香としたら(ちょっと絵梨花やりすぎじゃない?)なんて思ったくらいだ。まあ、必死だったので仕方がないのだが……。


「でもでも、アルバートさんのあの声は、もはや武器だと思う。多少だらしない恰好だったり垢ぬけなくたって、もしもあんな風に整った顔立ちじゃなくたって、あの声でささやかれたら意中の女性は絶対落ちると思うわ。いっそかぶり物をしてても効果は抜群よ! 間違いないわ!」


 今朝ゲイルとロベルトは「アルはかっこいいよ」と当たり前のように言っていたが、今の萌香なら全力で首肯するだろう。見た目とかぜんぜん関係なく、アルバートはかっこいい、と。あんな場面を見たら、萌香でなくてもミーハー心に火が付くのは間違いないと思うのだ。


 華やいだ気分になる原因はもう一つあった。あのとき萌香は、自分のある勘違いに気づいたのだ。


「多分だけど、アルバートさん、本当は絵梨花のことが好きだったんだねぇ」

 非リア充の萌香としては、同じ顔でもこんなに違うと逆に清々しいと感心しきりだ。

 たしかに彼は、絵梨花を嫌ってなんかいないとは言っていた。

 だが今日の絵梨花を見る彼の目は、嫌ってないどころか、間違っても妹やなんとも思っていない女の子を見る目ではなかった。絶対違う。あれは萌香に可愛いなどと言っていた、そんなお気軽な感じではない。それは明らかな差だ。


「でも絵梨花はアルバートさんの親友、フリッツさんの婚約者だったわけでしょう。しかも婚約解消の経緯も知っているほど近しい関係なんだよね」

 もう一人の親友トムの妹だけだったならともかく、どう考えても婚約者がいる女の子。素直に恋をするわけにはいかなかっただろう。


「絵梨花のほうはどうだったのかなぁ」


 デズモンドを思い出すと、あの男から遠くに逃げたかったのかもしれないと話すトムの意見に賛成したくなる。

「でも手紙の感じからは、逃げるというより、なんとなく彼女には本命がいたんじゃないかって気もするのだんだよね」

 ドレッサーの引き出しから絵梨花の手紙を出してもう一度読む。何度読んでも内容は理解できないが、お互い幸せになりましょうだなんて、まさに恋する乙女って感じではないだろうか。


 アルバートは絵梨花のことを、何を考えているかわからなかったと言っていた。

「でももし、絵梨花が実はアルバートさんを好きだったとしたら?」

 婚約者がいるのに違う人を好きになるなんて、だめよね? そんな好きになってはいけない相手なら、ときどき挙動不審になることもあるんじゃないだろうか?


 ――とはいえ、最初のイナさんの反応を思えば、そもそも事故の前の絵梨花が、自由に恋愛が出来たとは思えないかなぁ。


 フリッツとの婚約解消に相当ショックを受けていただろうイナ。

 あの状況で、兄の親友の一人がダメならもう一人にとは簡単にはいかなかっただろう。アルバートに年上の彼女がいるのを見てきたなら、年下の自分は相手にされないと思ってたかもしれない。

「でももしも絵梨花が、国中を回っている彼を追いかけようとしていたのだとしたら?」

 今は勝手な想像でしかないが、考えていると有り得そうな気がしてくる。



 デズモンドから助けてくれたアルバートの腕は、絵梨花を大事にしていると感じた。

「まあ、もしかしたら単純に、アルバートさんが女性の扱いに慣れてるだけかもしれないけど……」

 そう呟くも、やはりあの時の彼の目を思い出すと、相手が絵梨花だからだと思ってしまう。


 お姫様のような絵梨花と、頼りがいがあって時々可愛いアルバート。

「似合う……か、な? どうだろ。でも相思相愛なら、ちゃんと恋は実ってほしいよねぇ」

 だからこそ複雑なのだ。

 当の絵梨花がいない状況で、こんなことは間違っていると不安になる。


「求婚者候補は今はあくまでふりだろうけれど、もしアルバートさんが絵梨花を想ってくれているのなら、なおさら早く絵梨花を探し出さなくてはいけないわよね」

 その後は、アルバートには頑張って彼女を口説いてもらうのがいいのではないだろうか?

「問題があるとすれば、絵梨花が戻ってきたとき、私がどうなるのかということだけど……」


 トムたちに萌香として受け入れてもらったことで逆に強くなった不安に、萌香は無理やりふたをする。本物の絵梨花が戻ってきたとき、もし彼女が日本への帰り道を知らなかったら――


「絵梨花じゃない私はここにはいられない。いられるはずがない」

 身元が分からない人間に、ここで生きていく道があるのか。改めて考えると胃がよじれそうになるが、信頼を得ていけば道は開けると信じたい。

 不安だからこそ、前を向いていたい。楽しいことを考えたい。


「絵梨花とアルバートさんが、両想いだったらいいね……」

 二人の恋を応援するというのは、考えれば考えるほどなかなか楽しい気持ちになる。もう一人の自分と手紙に書かれたことで、絵梨花が妹みたいな気持ちになっているのかもしれないが、恋の応援はいつだって楽しいから。


「どんなときだって悪いことを気に病むよりも、いいことや楽しいことを考えたほうがいいに決まってるもの。絶対に、ね」

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