40.おねえちゃん……すき……すきぃ……

 だいぶ前、もう昔と呼ばなくてはならないほど過去の話だ。

 私がこの世界に迷い込んだばかりだった頃の、過去の話。


 私は気がついたら、森の真ん中に一人で佇んでいた。

 いつからそうしていたのかはわからないし、どうしてそんなところにいたのかも定かではない。

 ただ本当に、ハッと気がついたら森の中にいたのだ。


 そんな唐突な始まりを迎えさせられた私の今世は、そのまま行けばご臨終一直線の、儚い人生ならぬ儚いエルフ生だっただろう。

 危険な魔物が跋扈する森の中に右も左もわからない状態で放り出されて、どうしろと言うのか。


 仮に奇跡的にご臨終を免れ、人里までたどりつけたとしても、明るい未来など待ってはいない。

 ろくに力もなく、戸籍も後ろ盾もなんにもない、物理的にも社会的にも圧倒的弱者だった私を、誰も助けてくれるはずなんてないのだから。


 もしも手を差し伸べてくれる人がいたとしても、垂らされたその糸はきっと蜘蛛の糸に等しい。

 一度触れてしまえば、粘ついて絡みつき、二度と離れない。

 騙されたのだと気づいたところで時すでに遅く、悪意という名の蜘蛛に食い尽くされるのみ。


 たとえ奇跡が起こったとしても、私が私のまま生き抜くことなんてできなかった。

 だから私が彼女と出会ったのは、もしかしたら奇跡なんてものを通り越した、運命だったのかもしれない。


 この世界に迷い込んだ初日。森の中をさまよい、巨大な芋虫の魔物に襲われた瞬間。

 その魔物は、どこからともなく降ってきた業火によって瞬きの間に灰になった。

 命の危機に瀕したはずが、その原因が一瞬にして消失した信じられない現実に、思わず呆然とする。


 そんな私の前に彼女は突如空から舞い降りてきたかと思えば、私の方を振り向いて、言ったのだ。


『――お前、ワタシに魔法を習うといいよ。ちなみに拒否権はないから。嫌でも習え』


 そんな出鱈目で、意味不明なことを一方的に。

 だけどそれこそが今の私を作り上げてくれたというのだから、エルフ生もなかなかわからないものである。






「……夢、か」


 ベッドに寝転がったまま瞼を開き、天井を見上げる。

 なんだかずいぶんと懐かしい日の夢を見ていた気がする。


 私の魔法の師匠であり、我がエルフ生の恩人にも当たる彼女。

 初対面の開口一番の発言から察せられるように、まるで傍若無人が服を着て歩いているような女の子だった。


「懐かしいな」


 彼女が私の世話を焼いたのは、私を思ってのことなどではなく、他でもない彼女自身のためだ。

 彼女の望みを叶えるために私というパズルのピースがどうしても必要だったから、守ってくれただけ。

 だからきっと彼女は私のことなんて、微塵たりとも好いてくれてはいなかった。


 それでも私にとっては、嵐のような彼女に振り回される毎日は実に楽しい日々だった。

 彼女が魔法を教えてくれたおかげで私はこの世界で生き抜くための力を手に入れることができたし、彼女が四六時中一緒にいてくれたおかげで、一人で見知らぬ世界に放り出されながらも少しも寂しいと感じることはなかった。

 彼女と出会うことができたおかげで、今の私のすべてがある。

 どれだけの時が経とうとも、この思いが色褪せることはない。


 苦労したかつての日々を思い返していると、横でモゾモゾと誰かが動く気配がした。


「……おねえ、ちゃん……?」

「ん、アモル。起きたのかい?」


 横で寝ていたアモルが、ポヤポヤと眠そうな眼で私を見つめてきていた。

 なぜアモルが隣で寝ているのかというと、なんてことはない。

 アモルがこの家で暮らすようになったあの日以来、彼女は寝る時間になると毎日のように部屋を尋ねてきては、一緒に寝たいとせがんでくるようになったのだ。

 アモルはまだ子どもだし、あんまり私に依存させてしまうのもどうかとも思ったけれど、妹のように思っている彼女のいじらしいおねだりを断れるはずもない。

 いつの間にかこうして一緒に寝ることが日課になってしまい、現在に至る。


 ……一応、一応言っておきますが、一緒に寝ると言ってもえっちな意味では決してないです。

 文字通り、ほんとに一緒のベッドで寝てるだけ。えっちな要素なんかこれっぽっちもない。


 そしてもちろん、こうして一緒に寝てもドキドキしちゃうことだってない。

 これがフィリアやシィナだったなら心臓バクバクで落ちつかなかったところだけど、アモルは妹だから平気なのである。


 ふっ。やはり私はロリコンではなかったことの証明ができたな。


「おねえちゃん……ぎゅーってして……ぎゅーって……」

「え。いや、それは……」

「……むー……じゃあ、わたしからする。ぎゅーっ……」


 まだ寝ぼけているのか、アモルが私の腰に手を回して、ぎゅーっと抱きついてきた。

 私の胸に顔を埋めて、グリグリと頭を押しつけてくる。

 その姿はさながらお姉ちゃんが大好きな甘えん坊の妹と言った感じで、大変いじらしく可愛らしい。


「おねえちゃん……すき……すきぃ……」

「……」


 ……あか、赤くなってないです。

 ド、ドキドキなんかしてないです。ほんとです。


 無理に引き剥がす理由もないので、されるがままになっていると、アモルは次第にうつらうつらとし始めた。


「……むにゃ……」

「……えぇと……また寝ちゃったか、アモル」


 私が起きたから、その刺激で目覚めてしまっただけだったようだ。

 まだ寝足りなかったらしい彼女は、今はもう私の胸の中で新しい寝息を立て始めていた。


 ただ一つ困った点があるとすれば、私に抱きついたままに二度目の眠りに入ってしまったせいで、下手に動いてしまうとまた彼女を起こしてしまうかもしれない、ということだろうか。

 一度目の時点で私のせいで眠りから覚ましてしまったのに、また私のせいで無理に起こしてしまうのも忍びない。


 なので彼女を起こさないよう少しずつ、そーっと体を離していく。


 ……そういえば、話してると段々と眠くなってきてしまうような間柄って、実はかなり理想的なんだったか。

 話していても眠くなるということは、その人と会話する行為に対してまったく緊張を覚えていないということであり、とどのつまり、相手に気を許していることに等しいのだ。


 アモルがこうして私に抱きついたまま眠ってしまうということもまた、私に心を開いてくれている証拠なのだと思えば、そんなに嬉しいことはない。

 なんだか頭を撫でてあげたい気持ちが湧き上がってきたが、それをすると起こしてしまう危険があった。

 また今度起きている時にしてあげることとして、今は我慢することとする。


 と、そんな折、扉がコンコンとノックされた。


「失礼します、お師匠さ……」


 ガチャリと扉を開けて入ってきたのは、そのメロンのごとき巨大なお胸さまが特徴的な女の子、フィリアだった。

 無論、胸だけが彼女の魅力ではない。ただ一目見た際にどうしても胸の方に視線が行ってしまうだけで、太陽のような笑顔がよく似合う、天真爛漫な良い子である。

 良い子すぎて手を出せていないのが現状なのだが……。


 フィリアは私が瞼を閉じたアモルに抱きつかれている光景を目にすると、言葉を途中で止めた。

 フィリアは少々……だいぶ思い込みが激しい部分があるが、私がこうしてアモルと寝るようになったのは、アモルが来てからはいつものことである。

 なのでこれくらいで私とアモルがイケナイ関係だとか疑われることはない。


 入ってきたフィリアに「しーっ」と静かにしていてもらうようジェスチャーで示して、眠っているアモルを刺激しないよう、ゆっくりとベッドを出た。

 そのままフィリアを伴って部屋を出ると、物音を立てないよう注意して扉を閉める。


「……ここまで来たらいいかな。遅れたけど、おはようフィリア」


 部屋から少し離れた位置まで来てから、朝の挨拶をする。


「はい、おはようございますお師匠さま。お着替えの方は……」

「アモルがまだ寝てるから、後になるかな。変に物音を立てて起こすわけにもいかないからね」

「そうですか……わかりました……」


 ……なんかすごく残念そうだ。


 フィリアはいつも私の着替えを手伝ってくれている。

 正直そんなこと別にしてくれなくてもいいのだが、フィリアが断固として譲らないので、説得することはだいぶ前に諦めた。


「お師匠さま、今日もアモルちゃんとご一緒に寝ていらしたんですね」

「ああ……あの子に甘えられると、つい甘やかしてしまう。アモルの将来のことを思えば、あんまり私に依存させたくはないんだけどね……」

「ふふ、お師匠さまは温かいですから。きっとアモルちゃん、お師匠さまがそばにいらっしゃると安心できるんだと思います。でもやっぱり……少し妬けちゃいますね」

「妬ける?」

「だって……私もアモルちゃんみたいに、お師匠さまと一緒に寝たりとかしてみたいです」


 ぷくーっと頬を膨らませて、耳元で囁くように彼女はそんなことを言ってくる。


 フ、フィリアと一緒に……いやいやいや! えっちな意味じゃないだろうし!

 アモルと同じで、ただ本当に私と一緒に寝たいだけだ!


 少し前まではこういうことは、もっと控えめに恥じらいながら言ってくれた気がしたけど……。

 ここ最近は出会ったばかりの頃からあった初々しさは鳴りを潜め、こんな風に正面から積極的に好意を伝えてくれることが多くなった。

 フィリアに好きだと告白された、あの時から。


 あの時のフィリアの顔を思い出すだけで、思わず顔が熱くなってくる。


 ……残念ながら、まだあの日の続きはできていない。

 キスも、もちろんその先も。

 私は次にフィリアと二人きりで良い感じの雰囲気になったらヘタれずに絶対にゴールインしてやると決意を固めていたが、残念ながらその機会はまだ訪れてくれてはいなかった。

 シィナに加えてアモルもこの家の住人となり、なんだかんだで賑やかな日常を送ることが多くなったからだ。


 それにアモルが家に来てから、実はそんなに月日は経っていない。

 まだ十日とかそのくらいだ。

 最初の頃はアモルもまだ新しい生活に慣れてなかったからつきっきりでそばにいてあげたし、フィリアと二人になる機会なんて今みたいに早朝くらいしかなかった。


 一応二人きりと言えば二人きりだけど、さすがに朝っぱらからはなぁ。

 朝食作らないといけないし、よしんばキスまでいけたところで、その先まではできないし……。

 ちゃんと理由があってのことだから、別にヘタれているというわけではない。

 ……ほんとだぞ? ほんとだからな!


「あれ? シィナちゃん?」


 食堂に向かう最中、ふと、廊下の角からシィナが姿を見せる。

 シィナもこちらに気づいたようだったが、私たち二人を見るとカチンと石のように固まった。


「シ――」


 そんなシィナにひとまず挨拶でもしようと私が口を開いた瞬間、彼女は素早く踵を返した。

 ツインテールにした髪と本物の尻尾を翻して、やってきたはずの廊下の角の向こうへと逃げるように消えていく。


「あ、あれ? シィナ……?」


 いつにも増して奇妙なシィナの言動に、目をパチパチと瞬かせる。


 逃げられた? いや……避けられ、た?

 あ、あれ? 私、結構シィナには慕われてる方だって思ってたけど……あれぇ……?


 予想もしていなかったシィナの反応にあっけに取られていると、フィリアが憂慮するように眉尻を下げた。


「シィナちゃん、最近少し様子がおかしいですよね……ずっと上の空ですし、朝起こしに行った時なんかも、起こすより先に起きてますし……」

「起きてる? あのシィナが……?」


 初耳だ。シィナは朝が弱くて、起こされるまではいつも寝ている。

 こんな早朝に起きているのは珍しいって思ってたけど……最近だといつものことだったのか。

 

「あっ、ここのところお師匠さまアモルちゃんにつきっきりでしたので、私しか起こしに行ってませんでしたね。そうなんです。近頃のシィナちゃん、起こしに行ったら私が部屋に入る時にはもうベッドから体を起こしてて、ぼーっとしてて……」

「……そうか」


 フィリアと二人の時でもそんな感じなら、別段私がシィナに嫌われてるって感じじゃなさそうかな……よかった……。

 って、いやいやよくない! シィナの様子がおかしいんだから良いわけがない!


 言われてみれば、ここ数日、私もシィナとまともに話せていない気がする……。

 それに少し前までなら一日一回はスリスリしてきたのに、今はすっかりご無沙汰だ。


 アモルにつきっきりだったり、シィナが元から無口な方だったから気づくのが少し遅れてしまったが、確かに最近のシィナはちょっと様子がおかしい。

 ちゃんと食事の時間には席につくし、まったく顔を見せないわけではないんだけど……フィリアの言うように上の空というか、心ここにあらずというか……。


 あとこれは気のせいかもしれないけど、私がフィリアと一緒にいる時は特にその傾向が強いような気がした。


「アモルのことで、シィナに協力を仰げればって思ってたけど……」


 はぐれの淫魔であるアモルを討伐せずに保護していることは、冒険者ギルドにはまだ伝えていなかった。

 街中に逃げ込んだ淫魔が依然見つからず騒ぎが大きくなる事態だけは避けたかったから、件の淫魔に対処したという報告だけはしたが、詳細は後日報告する形として先延ばしにしているのが現状だ。

 アモルが落ちついたらアモルを連れて冒険者ギルドに足を運び、アモルを保護することを認めてもらえるよう、ギルド長に掛け合うつもりでいた。


 その際に、私と同じSランク冒険者であるシィナの力添えももらえればと思ってたけど……どうやらそれどころではなさそうだ。

 シィナの協力が得られるにせよ、得られないにせよ、彼女がなにかしら悩みを抱えているというのであれば、どうにか力になってあげたいところだ。

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