キリトリ船座礁日誌

切売

猫を亡くして山に登る

 今朝、母が「日曜日、山に登らない?」と言った。「夏の頃からずっと、お父さんが登りたがってたんだけどね。今なら、登ってもいいかなって気持ちで」と続いたから、私は母の心中を察した。


 力は格別なおでこの持ち主だった。力というのは片仮名の「カ」ではない。漢字の「ちから」だ。リキと読む。

 16年前からうちにいる猫の名前だ。そして、3日前に亡くなった猫のことだ。なぜ亡くなったのか、どんな猫だったのかは、ここには詳しく書かない。ただ、あまりにも急激だったことと、彼がたいそう特別なおでこを持っていたということだけわかってもらえればいい。


 くだんの山は「イタケサン」だとかなんとか言うらしい。(私は物忘れがかなりひどいのであやふやだ。多分間違っている)誤っているとは思うが、もし漢字で書くのなら威丈山だろうか。おごそかな響きだ。なんて勝手に想像する。


 さっき帰宅すると、母は暗闇の中で蒲団ふとんを被って寝ていた。酒を飲み、「リキに会いたいリキに会いたい」と泣いたらしい。毎日、昼休みに家に帰ってきては、墓の土で猫の形を作っていると言う。


 ここまでで母の悲しみばかり書いたが、私もまた脈絡なく彼のおでこのまるみを思い出しては、突然立ち止まる日々をおくっている。

 シャワーを浴びたあと、浴室を出るときに扉をぶつけないか用心する(よく水が飲みたいと出待ちされた)。電気を消した部屋を進むとき、踏んづけてしまわないよう注意する。そういう、長い時間で身に着いた自分の挙動に傷つけられている。

 まるで平然としているように自分でも思ってしまうのだが、彼に「リキ」と名前を付けたのは他でもない。まだランドセルを背負っていた私だったのだから。


 明後日、母は山に登るのだろうか。休みをとらなくてはいけないから、まだ私も行けるかは分からない。

 だが、母に登られる山が威風堂々たるさまであって欲しい。山頂には、静謐せいひつな空気の満ちる景色が広がってなくてはいけない。

 名前すら曖昧な山に、そんなことを願っている。

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