37ページ目 白馬に乗った王子様

 ここまで漂うガソリンの臭いが鼻孔を刺す。

 サカイくんも男たちも、目の前で何が起こったのかわからずポカンと大きな口を開けて、壁に激突したバイクの残骸を見つめている。

 マキちゃんは、驚きと恐怖で壁にピッタリを背をつけ首を窄める。

 白磁のような白い肌が、私のかけた長めのカーディガンからのぞいている。細かい傷や赤い痕が痛々しい。

 私は必死に身を捩るも、サカイくんに馬乗りにされていてまるで身動きが取れない。埃なのか細かい砂のようなものなのか、執拗にこすれるむき出しの背中に痛みが走る。冷たいコンクリートが私の体温を悉く奪い去っていく。



「あ~あ、こりゃあもう直らねぇな」

「サ、サカエくん!!」



 起きあがれない体を弾ませて、気持ちだけが飛びあがる。

 観音開きのアルミサッシ二枚が吹き飛んだ工場の出入り口から、不機嫌極まりない表情でのそりと現れるサカエくん。

 沢山のワッペンやバッヂでデコレートされたUKタイプの漆黒のライダースジャケット。そのライダースジャケットとは対照的なほど真っ白なスカーフを首に巻き、サイドのポケットから取り出したべっ甲のコームで乱れた左右の髪を整える。

 助けに来てくれた。白馬バイクに乗った王子様Rockersが。



「キ、キサマ、何でここに!?」

「あー、女に群る獣の悪臭を辿って来たら偶然ここの建物に……」

「ふざけるな!!」

「ふざけてるように聞こえるか? 三下らしく、二人のデバイスを奪うくらいはしただろうが、自分のは確認してないだろ」

「は!? オレの?」



 サカイくんはピジョンをはずして、その手にした小さなデバイスを舐めるように見つめる。そして、ハッと思いついたように目を見開くと、紺色のブルゾンのポケットからオールドタイプのスマートフォンを取り出した。

 みるみる顔を赤くして、オールドタイプのスマートフォンをコンクリートの床に投げつける。オールドタイプのスマートフォンは小さな音を立て一度二度跳ね、緑色のコンクリートの上を壁まで滑っていった。



「チッ、発信機なんていつの間に……」

「馬鹿か、オマエ? 公園でヒナを襲った時に決まってるだろ? 監視しなきゃあいけねぇのは、そもそもの元凶であるオマエだからな」

「クソッ……おいッ、オマエら! 相手は一人だ。フクロにしちまえ!」



 四人の男達がサカエくんを取り囲む。その内の一人がサカエくんに殴りかかる。

 私はギュッと目を瞑った。その瞬間、ヒキガエルを潰したような声があがり、再び目を開けた私の視界には、信じられない光景が映し出されていた。

 私が目を閉じていた時間は僅か二十秒くらい。なのに、四人の男達が体をくの字に曲げて横たわっている。


 サカエくんは手前に倒れた男のお腹目がけて、引いた足を思い切り蹴りあげる。

「あがっ」と小さな呻き声をあげて、男は動かなくなった。

 コンクリートに転がった男たちを酷く冷たい目で見おろし、べっ甲のコームを取り出したサイドポケットとは反対のポケットから煙草の箱を取り出すサカエくん。

 その内の一本をくわえて、苛立たし気に上下に揺らす。

 見た事もないタバコのパッケージ。高価な日本のタバコじゃあない。

 ほぼスクラップになったバイクをチラリとみて肩を竦めると、サカエくんは大きなため息をついて、火をつけずにタバコを元のポケットに仕舞う。



「はぁ~……請求書はオマエの家に出すからな?」

「は!? 何言って……」

「五百万にしておいてやるわ。オマエの家なら安いもんだろ?」

「ご、五百万!?」



 私に跨ったまま、こぼれ落ちそうなほど目を見開くサカイくん。

 金額だけだと高価に思えるけれども、決して高くはない。今の時代、バイクを手に入れるのも困難なのだから。

 にしても今この状況で、サカエくんは何でこんなにも飄々としていられるんだろう?


 マキちゃんは私の長めのカーディガンの前を両手できつく握りしめ、壁際に寄り体を斜に構えている。細かい傷や赤い痕だらけだけれども、隠しきれないスラッとした白い足が却って艶めかしい。

 逆に私はどうだ? 大の大人に馬乗りにされて、辛うじて大切な所を隠す薄い二枚の布だけの姿。サカエくんも呑気に話をするのならば、せめて私を助けた後にして欲しい。

 なんて、こんな状況にも関わらず、サカエくんがいるだけで今までの恐怖がまるで嘘のように消えている。

 不思議だ。彼がいると安心する。すぐにでもサカエくんに駆け寄りたい。けど、どんなに身を捩っても、私の力じゃあビクともしない。



「早く――早く、助けてよッ!」

「ん? ああ、そうだな…………もう、後五分くらい遅く来た方がよかったか?」



 無残にも拉げて倒れたアルミサッシの前から一歩も動かずに、私を見おろしながら顎を撫でるサカエくん。

 何を突然……はっ!?

 サカエくんの突入が後五分遅かったとする。

 私はセキュリティドアの向こうの誰かに助けを乞う事も出来ずに、自分でブラジャーのホックを外し……

 例えばこれが、押し倒されてから五分後だったら、私に跨ったサカイくんはどうする? 目の前にいるのは、冷たいコンクリートに押しつけられて逃げることも儘ならない無抵抗の美少女だ。あられもない姿で、ちょっと指先を下着に引っかけるだけできっと……



「わー、わー! 何考えてるのよ、こんな時に! エッチ! スケベ! ヘンタイ!」



 私は足を激しく足をバタつかせる。

 馬乗りになったサカイくんの足に押さえつけられて、両手はまるで動かせない。

 ヤダ。サカエくんにそんな目で見られていると思うと、途端に恥ずかしくなってきた。パンツもブラジャーも丸見えだ。隠しようがない。

 そう言えば、どんなパンツ履いていたっけ? サカイくんが邪魔で見えない。願わくば、可愛いパンツであって欲しい。百歩譲っても、上下は揃っていて欲しい。



「あっち向いてよ! 見ちゃ駄目!」

「何だよ、そんな下衆野郎はよくて、オレは駄目なのか?」

「誰でも駄目! 見ないで助けて、すぐ助けて、一秒でも早く助けて!」

「んな、無茶な」

「ウルセェ!!」



 サカイくんの怒声が私の周りの空気をビリビリと揺らす。思わず目を閉じ首を窄める私。恐るおそる薄目を開けて見あげたその先には、顔を真っ赤にして怒りで肩を小刻みに揺らすサカイくんがいた。

 サカイくんは懐から折り畳みのナイフを出すと、手の中でクルクルとまわし、冷たく光る刃を私に向ける。



「はっ、助けに来た? オマエら状況がわかってるのか? これで手を出せるもんなら出してみやがれ」



 一瞬にして息が止まる。背筋に冷たいものが走る。

 サカイくんの目が正気じゃあない。ギラギラと血走っている。息が荒い。フーフー言いながら肩を大きく上下させている。

 私はゴクリと生唾を飲み込んだ。そして、目だけでサカエくんに助けを求める。



「ナメやがって。オレをバカにするとどうなるか思い知れ!」



 初めて会った頃の、少しなよっとした面影はまるでない。ここにいるのは一匹の飢えた獣だ。逆らっちゃあいけない。何をしでかすかわからない。

 サカイくんは、美しくも見える鋭利な刃物を私の胸元にあてがう。恐怖も相まって、凍えるような冷たさが私の体を駆け巡る。

「ひっ」と、情けない声をあげて固まる私を猥雑な笑みで見おろし、サカイくんはブラジャーのモチーフ部分にナイフの刃を立てた。



「イヤッ!」

「黙ってろ! その白い肌に消えない傷でも刻むか? あん?」



 私は固く口を噤む。

 大した力も入れていないようにしか見えないのに、いとも簡単に裂けていくブラジャー。私は悔しさと恥ずかしさでサカイくんからもサカエくんからも顔をそむける。そして覚悟を決めて、きつく目を瞑った。



「コイツを傷つけたくなかったら、そこで大人しく見てやがれ! 土下座でもすれば、オマエにまわしてやってもいいぞ? オレの後だけどな。ハハッ!」

「ったーきた……」

「あ?」

「頭きたって言ってんだ! オイッ、ヒナッ!」

「は、はいッ」



 突然の呼びかけに、私は面を食らってサカエくんを振り返る。

 ギリリと唇を噛み締め、人を殺してしまいそうな勢いでサカイくんを睨みつけるサカエくん。体の横で握った拳が小刻みに震えている。



「スマン! 先に謝っておく」

「な、何を!?」

「オレはこのクズを殴りたい。切りつけられても我慢しろ!」

「え!? は!? 我慢しろって……」

「ウルセー、つべこべ抜かすな!! 傷が残ったら死ぬまで面倒見てやるから大人しくしてやがれ!!」



 は!? 死ぬまでって、それってもしかして、プロポー……

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