38ページ目 Rockers

 走る訳でもない。躊躇う訳でもない。

 サカエくんは固く右拳を握りしめ、ゆっくりと歩いてくる。私に跨って真っ青になるサカイくんを射抜かんばかりに睨みつけて。

 私は視界の端にサカエくんの姿を映しつつ、胸元で小刻みに震える鋭利な刃物を凝視する。

 寸での所で肌には触れていないのに、まるで氷を落としたような冷たさが体中に広がる。

 怖い。生まれてこの方二十年、こんなに間近に刃物を突き立てられた事なんかない。普通の暮らしをしていれば、そんな事なんか起こり得ないんだけれども。

 ちょっと犬に噛まれちゃって、なんてレベルの話じゃあないんだ。

 サカエくんがいくら一生面倒見てくれると言っても、傷つかないに越した事はない。願わくば、ずっとキレイな体でいたい。



「く、来るな! 刺すぞ!」



 明らかに虚勢を張るサカイくん。

 手の震えが大きくなっている。ガチガチと歯も鳴っている。サカイくんを睨みつけるサカエくんの鋭い目つきは、ちょっとヤンチャな男の人のそれを遥かに超えている。殺気とも殺意とも取れる真っ黒なオーラが、まるで可視化されて覆いかぶさってくるような圧迫感がある。

 サカイくんの呼吸が荒い。肩がもの凄い速さで上下している。

 漆黒の、ライダースの擦れる微かな音が聞こえたその瞬間、サカエくんは飛びつくように駆け出した。

 サカイくんが「ひっ」と小さな悲鳴をあげて、闇雲にナイフを振りまわす。人を傷つける事にだけ特化した刃物が、私の目と鼻の先をもの凄い速さで行き来する。ちょっとでも体を動かそうものなら、間違いなく切り刻まれる。

 私は冷たいコンクリートを背に、気持ちだけでもその身を引く。恐怖で声が出ない。目も閉じられない。



「わぁー! 来るな、来るな! あだっ……」



 不意に、サカイくんの頭が前方に倒れる。その隙をサカエくんは見逃さなかった。

 まるで音が聞こえてきそうなくらいギリリと固く握りしめた拳を、振りかぶるようにサカイくんの横っ面に振りおろす。

 叫び声をあげるでもなく、大きく後方へ吹き飛ばされるサカイくん。

 私はただただ目を瞬かせて、呆然と辺りを見まわした。体を起こすのも忘れて。



「大丈夫か!? 怪我は!?」



 サカエくんがその太い腕で抱きかかえるように私の体を起こす。そして、ピンバッヂやワッペン、スタッズでデコレートされたライダースを私の肩にそっとかけた。

 自分の持っているライダースとはまるで違う重さが私の体を包み込む。

 ほのかに鼻孔を擽る革と整髪料の香り。

 胸がオーバーヒートしそうなくらい、激しく鼓動している。


 何が起こったんだろう? サカイくんが頭を前に倒して一瞬動きを止めた。

 私ののばした足の近くに転がる黒いヒールサンダル。その向こうの壁際に、長めのカーディガンの前を握りしめたマキちゃんが立っている。片一方の足が裸足の状態で。



「オイッ、しっかりしろ! 大丈夫か!?」



 私の肩にかけたライダースの上から、私の両腕を掴んで小さく揺らすサカエくん。

 私は何の抵抗もなしに、サカエくんの腕に身を任せる。

 ついさっきまで、「切りつけられても我慢しろ」なんて言っていた癖に、何をそんなに焦っているんだろう? もしかして、本当は心配してた? 

「早く助けて」なんて我儘言ったけれども、馬乗りでナイフを突きつけられた相手を助けるなんて、簡単な事じゃあない。



「ヒナッ! おわっ、やっぱりどこか怪我したのか!?」

「怪我? してない。ちょっと背中が痛いけど……」

「じゃあ、何で泣いてるんだ!?」

「泣い――て?」



 私は自分の頬に指を這わせる。指先を微かに湿らせる液体の感触。そう言えば、視界が滲んでいる。それを自覚した途端、私の目から止めどなく涙がこぼれ落ちた。



「わーん、怖かったよぉ」



 ホッとして、気が抜けて、溢れる涙が頬を伝い胸元に落ちる。かわいい薄ブルーのブラジャーにも暗い影を落とす。……胸が冷たい。

 私はハッと我に返り、細い腕で体を隠す。

 私の華奢な腕ではとても隠しきれない体。それでも下着だけは死守しないと。もう、見られちゃってるけど。ふと下を向いて確認する。

 よかった、上下揃っていて。


 サカエくんが短い息をついて、強張った肩から力を抜いた。そして、スゥッと目を細めて柔らかく微笑む。そこに、さっきまでの鬼の形相は見る影もない。

 もう大丈夫。サカエくんがいるから。

 ひとしきり泣いて、落ち着いた。

 途端に色々な感覚が戻ってくる。さっきまでは、恐怖と緊張で気が張っていたから。私はブルッと小さく体を震わせる。

 お尻が冷たい。コンクリートの上にパンツで座っているのだから当然だ。早く服を着ないと。いつまでもこんな格好をしていたら、サカエくんにも押し倒されちゃう。なんて、ね。



「危ないッ!」



 唐突に、マキちゃんの叫び声が工場内に木霊する。

 大きく肩を弾ませて振り向いた私の視界の向こう――サカエくんの背後で、両手でナイフを握り締めて今にも振りおろさんとしているサカイくんの姿があった。

 私は慌てて手元にあった小さな破片をサカイくん目がけて投げつける。それは、ピジョンの欠片だった。


 大切な大切な、ピジョンの欠片。

 革ジャン先輩との唯一の繋がり――『ようこそ街の印刷屋さんへ』のVRデータが入った、世界に一つだけのリアルに印刷を学べるデバイス。

 サカイくんに向かって飛ぶ、ピジョンの欠片がスローモーションのように私の目に飛び込んでくる。


 サカイくんはピジョンの欠片を払い落とし、それを思いっ切り踏み潰す。

 真っ二つに割れてしまったけれども、内臓記憶媒体のパッド部分は形を維持していたのに。それも、完全に失われてしまった。修理出来る見込みは、完全になくなった。

 革ジャン先輩には、もう会えない。二度と会えない。

 激しい痛みが胸を刺す。

 事を後悔する。けれども、投げてしまった事に後悔はない。

 それで、サカエくんが助かるのならば。例え、二度と革ジャン先輩に会えなくなったとしても。私の現実はVRの中にあるんじゃあない。今、私の目に映るもの総てが現実だ。


 サカエくんが両腕を広げて、私を守るように立ち塞がる。そこに肩から体当たりしてくるサカイくん。ここからは見えないけれども、手には小さなナイフが握られたままだ。

 私はサカエくんを助けようと、彼のシャツを握りしめて力の限り自分のもとへ引き寄せる。けれども、サカエくんは微動だにしなかった。

 音もなく、サカエくんの体に衝撃が走る。

 気を失いそうなくらい、ザッと血の気が引く。

 サカエくんの肩越しに、彼の正面で体を丸めるサカイくんが見える。

 刺され――た?

 ヤダ、ヤダヤダヤダ! 私を助けに来たんじゃないの? 怪我をするなんて、絶対に駄目なんだから。



「チッ……」



 舌打ちしたサカイくんが両手でナイフを握りしめて大きく振りかぶった。その腕をガッチリと捕まえるサカエくん。



「サカエくん……今、刺されたんじゃ……」

「あ? 刺されたさ。本がな」

「本?」

「オマエ、連れ去られる寸前に本を読んでいただろ? 腹に入れて持ってきたんだ。大切な本、なんだろ?」



 ギリギリと血の滲むほど歯を噛みしめて、ナイフを振り落とそうとするサカイくん。それを必死に押さえながら、サカエくんは背中の私を振り返って精一杯笑って見せた。

 持ってきたって、結局ナイフを突き立てられたら大切なも何もない。もう、その本は読めない。けれども、よくやった、私の本。サカエくんを守ってくれてありがとう。



「本って、丈夫なんだな。クッ……もう、二度と……ヒナの本を傷つけないって誓ったに、この有様だ」



 激しく首を振る私。

 サカエくんはもう、私を振り返る余裕もない。腕が小刻みに震えている。

 どう考えても分が悪すぎる。私を背に、膝立ちでサカイくんの手首を取るサカエくん。サカエくんは、全体重をかけるように、サカエくんの目と鼻の先まで鈍く光るナイフを振りおろしている。こんな体勢でなければ、力が拮抗することなんてないのに。

 サカイくんの後ろで、マキちゃんがもう一方のヒールサンダルを脱ぎ、それを振りあげる。



「動くなッ! 先に死ぬか?」



 サカイくんの怒号がマキちゃんを制する。

 先にも何もない。早いか遅いかだけで、結果は同じはずなのに。



 グオン、グオン、グオン!!

 ドドドドドド……



 工場の外からけたたましいバイクの排気音が聞こえてくる。それも一台や二台じゃあない。まるで雷のような音が工場の中まで押し寄せてくる。



「来た、来た。お前ら、もう終わりだ。オレに歯向かった事を後悔するんだな! ハハハハハ……」

「クソッ! まだ、仲間がいやがったか」

「ばーか、形勢逆転ってか。安心しろよ、すぐ殺したりはしねぇから。オマエは女が泡を吹くまでヤラれるのを見てんだよ!」



 万事休す。

 工場の外にいるサカイくんの仲間たちが雪崩れ込んで来たら、私たちはひとたまりもない。

 最低だ。本当にこの男は最低だ。

 何とか、マキちゃんやサカエくんだけでも助けないと。

 どうやって? 私ひとりで何が出来るの? 何の力もない私ひとりが全身全霊を捧げたって、飢えた獣たちの前では成す術もない。

 どうしよう?

 私はサカエくんの背中にしがみつき、左手首のPaFウォッチに額を擦りつけた。

 助けて、助けて、助けて、革ジャン先輩。



「はい、それまで!」



 勢いよく顔をあげる私。

 サカイくんが転がるように真横に吹き飛ばされる。

 キンッと乾いた音を立ててコンクリートの上に転がるナイフ。

 右足を高くあげ、思い切り蹴り抜いた格好の男の人の背中が私の目に飛び込む。ライダースの背中にペイントされた大きなRockersの文字。



「革ジャン――先輩?」



 それは忘れもしない、革ジャン先輩のライダースだった。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る