24ページ目 漫画原稿用紙
原稿用紙、ですか? 原稿用紙って、四百字詰め原稿用紙とか、そういう、アレ?
首を傾げる私の目の前に差し出される一枚の紙。少し厚めの何も印刷されていない……あっと、これだ。これが原稿用紙なんだ。
「これってお店で印刷していたんですね?」
「同人誌印刷している印刷所は、大抵オリジナルの原稿用紙を自分の店で印刷しているはずだよ。ウチに入稿してくるお客が、他の店の原稿用紙を使っている、なんて事だって普通にあるし、逆もあると思う」
遠目で見ると何も印刷されていないただの紙。B4サイズくらいの紙。
近くでよく見ると、なるほど確かに印刷はされている。
前に面付けの時に見た、薄い薄いブルーで印刷された枠線。
原稿用紙上部にタイトルや名前の欄があって、その横にCOLORと印刷された枠がある。その下に絵を描くスペース。出来上がりのラインと断ち切りのライン。その周りに2㎜間隔でメモリが打ってある。
目を凝らさないと見えないブルー。コンタクトつけていなければ、これはただの白い紙だ。
「それにしても、前々から思ってたんですけど、この原稿用紙って何でこんなに薄い色で印刷されているんですか?」
「は?」
「や、だから、見えないじゃないですか」
「見えちゃ駄目でしょ」
信じられないとでも言いたそうな目で、私を舐めるように見る革ジャン先輩。
見えちゃ駄目って、見えないと描き辛い……描いて、描きやすくて、見えて、見える?
ああ、見えちゃ駄目じゃないですか。何言ってるんだ私は。
絵を描くスペースにも、あたりのラインが印刷されている。ページの位置とか。
「もしかして、これくらい薄くないと、印刷された絵の中に線が出ちゃうんじゃないですか?」
「そう。製版機で原稿から紙版を焼く時に、ラインを拾っちゃう事があるんだ」
「やっぱり。でも、こんなに薄くないと駄目なんですか? 前に革ジャン先輩、鉛筆で書いた絵が綺麗に版にならないって言いましたよね? それよりもずっと薄いんですけど」
「ああ、そうだな。ちょっと待ってて」
そう言うと、革ジャン先輩は後ろの棚からビニール袋に入ったお客さんの原稿を取り出した。
お店の原稿用紙を使った漫画の生原稿。ペンで線が引いてあって、ベタが塗られていて、スクリーントーンが貼られている。
こう、漫画が原稿用紙の大半を占めると、確かに薄いブルーの線はまるで見えない。
「ここ、ここの所見てごらん?」
革ジャン先輩の指さす先、薄い網から濃い網へのグラデーションのスクリーントーンの下に見える線。薄いブルーの線。薄いはずのブルーの線。
「ここだけ他の線よりも濃く見えますよ。何でですか?」
「ブルーの罫線の上にスクリーントーンを貼ると、網点の細かな点が視覚的にブルーの線を浮かび上がらせちゃうんだよ。よく、下書きを鉛筆じゃなくて、水色で書いてくる客がいるけど、それを消さずに上からスクリーントーンを貼っても同じ。だからこれくらい薄くしないと、漫画原稿に影響が出るんだ」
「だったら、ブルーの線なんてなくしちゃえばいいのに」
「それはもう、ただの白い紙です」
「あ、そうですね」
必要だから、ある。あるのに見えちゃいけない原稿用紙。
何だか胸がチクチクする。
そこにあるのに、さわれるのに、温かいのに、この世界はない。現実には、ない。
私がどれだけみんなにあると言っても、私以外の人にはない世界。私だけの世界。
上条さんや、桧山さんや、関さん、川口さん、園田さん……そして革ジャン先輩。沢山の人がいるのに、私しかいない世界。仮想現実の世界。
私はふと、革ジャン先輩に手をのばす。
そこにない、革ジャン先輩に触れたくて。
ここまでリアルなVRはない。お爺ちゃんが目を覚ますまで、この世界がVRだなんて気がつかなかった。この世界は仮想ではなくて、私に取ってはもう一つの世界。
けど、VRはリアルすぎてはいけない。
人が現実世界に戻れなくなるから。
私の指先が、革ジャン先輩の腕に触れる。そして、その肌が僅かに沈む。
温かくて、柔らかくて、どこまでも現実で。どこまでも非現実で。
この世界で何をやっても罪にはならなくて、私は平気な顔で現実世界で生きていけて、そして再びこの世界を訪れる。
より高性能なVRが規制されてきた理由がよくわかる。
「どうした?」
「あっ」
慌てて手を引き、若ジャン先輩の顔を上目使いで見つめる。
私、何をやっているんだろう? 何を考えていたんだろう?
現実世界のもやもやが、何か変な方向へ影響している気がする。
この世界は失われてきた印刷を学べる世界。本を愛する人が、その大切さを再認識する世界。ただ、それだけなのに。
「手つきがエロい」
「なー! 何考えてるんですか! スケベ!」
私は頬を膨らませて、革ジャン先輩に背を向ける。
と、よくよく思い返してみると、やれどうだろう?
革ジャン先輩のなだらかに隆起した腕を、触れるか触れないかの力加減で撫でまわした私の行動は。何だかとてもいやらしい。もし逆に、革ジャン先輩が私の腕に指を這わせたら……あーーーー、駄目です。回路がショートして、頭から煙がふき出します。
何だか今日はおかしい。ちょっと、色々考えすぎだ。
真面目に印刷の勉強をしなきゃ。
「オレがさわられた側なのに、スケベって。どれだけ理不尽なんだよ」
「もういいですから、許してあげますから、原稿用紙を印刷しましょう!」
「…………どうも釈然としない」
革ジャン先輩はブツブツと文句を呟きながらインキ棚から二つの缶を手に取った。
そして向かった先は、両面機の隣の片面機。
その排紙部の上にあるインキツボに、白っぽいインキを入れる。
「何で片面機を使うんですか? 原稿用紙が片面だからですか?」
「両面機は普段本ばかり印刷しているから、薄い色や綺麗な色が苦手なんだよ」
「……?」
「意味がわからないって顔してるな。ほら」
そう言うと、革ジャン先輩は両面機の金属カバーを押し上げて、その中に並んだローラーを見せてくれる。
太かったり細かったり、大小さまざまなローラーが印刷機の中に並んでいる。そのローラーは僅かに黒っぽかった。
「インキは使った後に、洗浄液でローラーのインキを洗い流す。けど、完全に落とせる訳じゃあないんだ。だから、原稿用紙くらい薄い色を刷ると、青じゃなくてグレーになっちゃうんだよ。原稿用紙がグレーになったら、さあ大変。製版機でもバッチリ再現されちゃうし、印刷にも線が出てくる不良品原稿用紙の出来上がりって訳」
黙々と作業する革ジャン先輩の言葉に、私は眉間にシワを寄せて首を傾ける。
「だったら、片面機でも一緒じゃないですか? 例えば赤を印刷した後は、紫っぽくなっちゃうんですよね?」
「そう。で、片面機。ヒナちゃんが来る前に、浅黄――青を印刷したから。影響が少ないだろ? まったく影響しない訳じゃないから、三回くらいローラーを洗っているけど」
なるほど、だったら薄いブルーも印刷出来そうです。
印刷って、刷る色の順番も考えなきゃいけないんですね。段取り立てるのが難しそうです。
革ジャン先輩は白っぽいインキをツボに入れた後、金属製のヘラの角で、ほんの少しだけ青い色のインキをすくう。そしてそれを白っぽいインキと合わせて練り始めた。
「この青いインキをメジウムでのばす。んー、メジウムって言うのは、絵具で言うと水だな。水色じゃないぞ、水道から出てくる水ね」
「薄めるって事ですか」
「そうそう、それ。塊だから白っぽく見えるけど。無色透明のインキなんだよ」
そう言うと、インキを練り終えた革ジャン先輩は、印刷機の紙版をつけて機械を動かす。
ガシャンガシャンとリズミカルな機械音が工場に響き渡る。そこからボタンを操作して紙を送り出すと、排紙台から出て来た紙を抜き取る。
相変わらずの手際よさ。
そして、ジッと印刷物を見て、再び紙を通す。
次に抜き取った紙を、私の目の前でペラペラと振った。
「はい」
「わぁ、薄いですね。これで、製版機では再現されない原稿用紙の出来上がりなんですね?」
「ちなみに、コピー機でも再現されないよ」
「本当ですか?」
「コピー機もカメラみたいなものだから」
そこに確かにあるのに、製版機にもコピー機にも映らない。
映らないものは、本当にあるの?
見えないものは、本当にあるの?
ダメだ、今日の私はやっぱりちょっと変だ。
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