23ページ目 おはようございます

 こんにちは。

 私はスッと静かにお店の引き戸の隙間に潜り込み、みんなに小さく頭をさげる。



「いらっしゃ……い?」



 桧山さんが目を丸くして、店の入り口に背を向けながらコピー機を動かす上条さんの背中を突っつく。振り返った上条さんは、私を見て桧山さんと同じように眼鏡の向こう側の目をこぼれ落ちそうなくらい大きく開けて、アングリと口を開けた。



「どうしたの? なにかヒナちゃんの周りだけ明度が10%くらい落ちてるけど」

「それは単に暗いって事ですか? 私は元気ですよ。いつだって、山盛り元気です」

「あ、そ、そう? 声のトーンもだいぶ低いと思うけど」

「そんな事ありません。これがいつもの私です」



 固まるみんな。

 誰も言葉を発しない店内に、ラジオから流れる流行歌が虚しく響く。

 なんだろう? アツ苦しい歌声が耳に触る。

 いつも聞こえてくるマッキントッシュのキーボードを叩く音が聞こえない。

 お店の奥でいつもデザインや文字組をしている課長の園田さんまで、不思議そうな顔で私を見ている。

 なんでそんなに私をジロジロ見るんですか? 別にいつもの変わりないのに。

 ちょっと――ちょっとだけ、気が滅入っていると言うか、それくらいです。



「革ジャン先輩は」

「奥にいるけど…………うん、ヒナちゃん、起こしてあげて?」



 上条さんが目を細めてニッコリと笑う。

 いいですね、なにかとても幸せそうで。

 ええ、私も幸せですよ。別に嫌な事なんてなにも……襲われそうになったのは嫌でしたけど、助けてもら……あー、何かこう、胸の奥がモヤモヤします。

 じゃあ、わたしは革ジャン先輩を起こして……起こして?

 熾す? 興す? 起こす? ここお店ですよね? 寝ているんですか?

 時間は……まだ十時なのに? 何考えているんでしょう?


 素っ気なくみなさんに頭をさげ、わたしは奥の扉を開く。

 工場は薄暗く、シーンと静まり返っていた。

 機械は動いていない。製版機も。

 人がいる気配もない。関さんも川口さんも、もちろん革ジャン先輩もいない。

 ただ、仕上がった印刷物を置く長机に、山のような印刷物が積み上げられていた。

 もしかしたら、二階で寝てる?


 ……寝てる!?

 ちょっと待って! あの川口さんもいなくて、二階にいるかもしれなくて、二階で寝てる!? 誰が? 革ジャン先輩が? 誰と? 川口さんと? そ、そんなふしだらなこと……け、けしから~ん!!

 ここはお店ですよ! 上条さんもいるんですよ? そんな……革ジャン先輩がそんな人だったなんて……


 ガタン!

 ビクッ!!


 し、心臓の跳ねる音が聞こえた。口から飛び出すかと思った。

 私は背中を丸めてゆっくり、ゆっくりと工場内を見渡す。

 動いているものは何もない。誰もいない。耳を澄ますと、電源の入った印刷機が、ジーッとオケラの鳴き声のような音を立てている。



「だ、誰か、誰かいるんですか?」



 消え入るような声で、見えない相手に言葉をかける。

 返事はない。

 私は一歩一歩足を踏み出す度に、周りに細心の注意を払いながら工場の奥へと足を進めた。

 古びたトイレのドアの向こう側、キッチンシンク蛇口から水滴が一滴落ちる。ステンレスのシンクを叩いたその滴の音が思いの他大きくて、私の肝を潰す。

 そっと段差をおりて、製版機の隣を通り過ぎようと……あっ。

 いた。

 革ジャン先輩が、製版機の前に腰をおろして、考える人のような格好で肩を小さく上下させている。

 私はその場で膝を折り、うつむく革ジャン先輩の顔を覗き込んだ。

 目を閉じて、微かな寝息を立てて眠る革ジャン先輩。

 仕事が始まったばかりなのに、製版機を見る限り作業の途中なのに、小さく丸まって眠っている。

 私は上条さんに言われた通り、起こしてあげようと手をのばすも、それをすぐに引っ込めて、そっと革ジャン先輩の隣に腰をおろした。


 私の隣で、遊び疲れた子供のように眠る革ジャン先輩。

 肩が触れ、革ジャン先輩の熱を感じ、胸のモヤモヤがスーッと消えて行くような、そんな気がした。

 なんだか私の心はふわふわふわふわと掴みどころがない。

 ここの所、自分の気持ちがよくわからない。

 こんな風になったのは、初めてだ。



「う、うん……」

「――っ!?」



 革ジャン先輩が私の方へ倒れて来た。

 押し戻そうと革ジャン先輩に手を回して気づく。

 この体勢はヤバい。本当にヤバい。誰かに見られたらマズい。

 誰がどう見ても、抱きついているようにしか見えない。

 私の口元を、頬を、首筋を、革ジャン先輩の長い髪の毛が撫でる。

 温かくて、そして革ジャン先輩の匂いが……


 何て、悠長な事を言っていられない。

 重い。重いですよ、革ジャン先輩。私、か弱い乙女なんですから。

 そんなに倒れて来られても……ダ、ダメ……首に息を吹きかけないで。気持ちい――じゃない、くすぐったいですから。

 ほら、しっかりしてください。体を起こして。本当に眠ってます? 狸寝入りで私にセクハラしているんじゃないですよね?

 ああ、また倒れて……


 ――っ!?


 革ジャン先輩の頭。サラサラの髪の毛。顔は見えない。私の胸に埋まっている。

 私の胸に埋もれている。埋まっている……埋もれている……埋まっている……

 肩が大きく上下する。呼吸をしている。革ジャン先輩が、私の胸で苦しそうに大きく息を吸って……



「やーーーーー!!」

 ゴンッ!!



 あり得ないくらいの力が出た。火事場のバカ力ってヤツだろうか?

 私が突き飛ばした革ジャン先輩は、反対側の壁に頭を打ちつけて、やっと目を覚ました。



「んあ? て、いてててて。なに? ヒナちゃん、いつの間に? イタタ。頭打ったぞ?」



 頭を押さえて目を瞬かせ、ブンブンと首を振る革ジャン先輩。

 私は両腕で胸を隠して俯く。



「どうした? 寒いのか? 耳まで真っ赤になって、もしかして風邪でも……」

「ひいてないです!」

「じゃあ、どうして……」

「大丈夫です! 大丈夫ですから、近寄らないで!」



 胸が破裂しちゃいますから。

 ドキドキがおさまらない。今なら心拍数自己新記録をマークする。

 ダンスどころの話じゃあない。機関銃だ。機関銃を乱射しているくらいの早さで胸が音を立てている。

 顔が、暑い。体中が、暑い。

 涙まで出て来た。もう、恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずか死ぬ。

 間違いなく、恥ずか死ぬ。



「何だよ、心配してるのに」

「へ、平気ですから。大丈夫ですから。気にしないでください」

「気にするなって……ふむ……オレ、寝てたよね?」



 革ジャン先輩は腕を組んで大きく首を傾ける。

 その目がグリッと上を向く。



「やっと頭が冴えてきた。しまったな、眠っちゃってたか~」

「な、何でこんな時間から寝てたんですか!?」

「や、昨日徹夜で仕事してて」

「徹夜!? 働き方改革はどうなっているんですか!?」

「何、それ? 働き方改革? 最近、碌にテレビを見てないから時代についていけてないんだけど」



 しまった。これは未来の話だった。

 この時代に働き方改革なんて、ない。

 にしても、徹夜で仕事をして、朝会社の片隅で寝ている。なんて、そんな仕事ってアリですか? とてもじゃあないけど、考えられません。



「何か、いい夢を見ていたような気がする」

「いい――夢ですか?」



 VRが夢を見る? とんだ笑い話だ。

 革ジャン先輩はここにいるけど、革ジャン先輩はここにいない。

 私の心を鷲掴みにする革ジャン先輩は、現実にはいないのに。

 また少し、胸にチクチクとした痛みが走る。



「温かくて、柔らかくて、フワフワした……」

 ゴンッ!!

「ってー! 何で押すんだよ! さっき打った所、またぶつけたじゃないか!」

「…………ださい」

「え!?」

「……てください」

「は!?」

「忘れてください、って言ってるんです!!」

 ゴンッ!!

「あーーッ! もう、痛いを取り越して、火花が出たわ! もし工場内にブロッキングパウダーが充満していたら、粉じん爆発起こしてるわ!」



 一体どんな、怒り方ですか、それ。

 大丈夫。ホッと一安心です。これできっと、さっきの過ちは綺麗さっぱり頭の中から消えたに違いありません。

 革ジャン先輩は頭を撫でながら立ち上がり、製版機のガラス板を押しあげる。



「起こしてくれてありがと。また、作業が遅れる所だった」

「そんなに忙しいんですか?」

「山は越えたけどね。最中だったら本当に寝ているヒマなんてない」

「恐ろしいですね、同人誌印刷界。今度は何を印刷するんですか?」



 革ジャン先輩は製版機のボタンを操作する。

 ギギギと機械が動く音が鳴り、それが止まるのを確認して、革ジャン先輩は別のボタンを押した。


 パシャ!!


 一瞬の激しい明滅。

 カメラのフラッシュのような光に目が眩み、緑色のモヤモヤが目の前をチラついた。



「原稿用紙を印刷する」

 


 

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