21ページ目 ボールペン、わら半紙、印刷機
何も見えない事に変わりはない。変わりはないけど状況はまるで違う。私の視界を遮るものは漆黒の闇ではなく、ゆらゆらと漂うように蠢く真っ白な霧だった。
視界は約1mちょっと。足元の黒いパンプスすら朧気だ。
霧と言うよりまるで雲。
こんなにも深い霧を見たのは、子供の頃に家族で霧ヶ峰に行った時以来だ。けどまさか、ここが霧ヶ峰だなんてオチは考えられない。お爺ちゃんの故郷へ遊びに行った時に、何度か遊びに出掛けた観光名所。名物はまさに霧。その標高1900m。
そんな場所で印刷に関係する事があるはずがない。じゃぁここは――
「どこだろう?」
遠くで複数人の子供の声が聞こえる。何とかその声のする方へ行ってみたかったのだけれど、足元すら覚束ない場所で、最初の一歩を踏み出す勇気がなかった。
私は自分の肩を両手で抱き締め、ブルッと小さく身震いする。
「革ジャン先輩~、怖いよ~」
自分の言葉にハッと息を飲む。
私、何言っちゃってるんだろう? 別に革ジャン先輩に助けを求めている訳じゃないですから。
平気です――全然、平気! あっ、この表現は文部科学省の見解で否定されているんでした。小説書いてる革ジャン先輩に怒られちゃうかも。や、怒らないですよね。かの文豪さん達も『全然+肯定』を普通に使っているんですから。
って、また革ジャン先輩の事考えてるし。
そっ、そうですよ。いつものようにPaFウォッチで帰ればいいんですよ。私はタイムトラベラーヒナ! そんなのお茶の子さいさいです。こんな意味がわからない場所は早く立ち去るが吉ですから。
私は左手首のPaFウォッチを胸に当て、右掌をそっとかぶせる。その時だった。何かが――後ろから駆けて来た誰かが、私の脇を掠め走っていく。その走り去る小さな背中が、辺りの霧をブワッと吹き飛ばす。
「病院――? 違う、学校?」
薄いクリーム色の外壁の真新しい校舎。その全貌を見渡すには、大きく首を動かさなければいけないくらいの近距離に、ただ呆然と立ちつくしている私。昇降口と思しき場所に立つ男の子を中心に霧が晴れただけで、私の視界の外側は相変わらず白くボンヤリと霞んだままだった。
大きな扉の前で振り返った男の子は、両手を口に添え、声の発射台のように体を前に倒す。
「先に印刷しに行くからなぁ~!」
印刷!? 今、印刷って言いましたよね? それも、私――に?
挙動不審に辺りを見回し、男の子に向かって確認するように自分を指差す。
落ち着きなく首を振った所で、男の子の周り以外は深い霧に包まれたままで、何も見て取れないのだけれど。
「待てぇ! 先に行くなぁ!」
「アタシも、アタシも!」
「みんな、早い~!」
背後から私の横を抜け、駆けて行く三人の子供達。男の子が一人と残りが女の子。後ろで縛った女の子の長い髪が、上下左右に激しく跳ねている。
恥ずかしさのあまり少し俯き、私はやり場のなくなった指先で宙に円を描いた。
私に向かって言っていた訳じゃなかったんですね。あー、恥ずかしッ。
昇降口の前にいた男の子は、三人の子供たちに追い付かれる前に、再び小さな背中を向ける。そして、校舎の中に走り去った。
「待てぇ~! みんなでやれって言われただろ~!」
「革ジャンく~ん!」
――!? 革ジャンくん!? 革ジャン先輩なんですか、あの男の子?
小さな革ジャン先輩を追いかけて校舎に消えて行く子供達。私はだらしなく大口を開けて、誰もいなくなった昇降口を眺めていた。そんな私の耳に、まるでバックミュージックのように、楽しそうな子供たちの声が聞こえていた。
************
ヒナ……何やって…………ヒナ……
どう……革ジャ……輩で……
まっ……ヒナの……んでこ……時代に…………たんだ?
……を飛ぶ時……余計…………えている……こんな事……るん……
昭和だ……………?
お…………ヒ…………帰…………い!
ヒナ…………ナ……
************
相変わらず私の周りは生き物のように漂う霧に覆われている。けど、目の前だけは視界が開けている。
さっきの子供達、いったいどこへ行ったんでしょう?
子供の――たぶん小学生の革ジャン先輩。
目が大きくて声が高くて、ちょっと可愛いなんて思っちゃいましたよ。それが何で、あんなキツネ目になっちゃうんでしょうか? 時の流れは恐ろしいですね。
私は物心ついた頃からずっと可愛い可愛いと言われながら育ってきましたから。お爺ちゃんにだけですけど。
小学生――? あれ? もしかしてトイレで『小学生ですか!』って言ったせいで、この時代に飛んじゃったんじゃないですか? そんなアホちんな理由でタイムトラベルじゃなくタイムスリップしたなんて、未来の革ジャン先輩に笑われますよ。
ガシャンガシャンガシャン……
少し薄暗い校内の壁に響く機械音。私ははたと立ち止まり、背筋と首を伸ばす。
たぶん、あそこです。『資料室』って札が開けっ広げの引き戸の上に見えますね。
ちょっと覗いてみましょう。
教室の奥に窓がある。その窓から見える景色は、私の周りと同じように厚い霧で真っ白だ。教室を分断するように並べられた、本がギッシリつまった本棚のせいで、酷く狭く感じる場所に、天井からぶら下がった蛍光灯に照らされた二台の小さな機械が置かれている。
一台は稼働中。革ジャン先輩を含む子供達が、楽しそうに機械を動かしていた。
「誰――?」
ポニーテールの女の子が不審な顔で、顔だけを覗かせる私を見る。その声で一斉に振り返る子供達。
「えっ――と、何て言えばいいんだろう? ここは、いつものノリで『美少女アシスタント、タイムトラベラーヒナ!』とか言っちゃっても……ブツブツ」
「何、このオバサン? 下向いてブツブツ言ってるけど。不審者?」
「オッ……オバサン!? 不審者!?」
「革ジャンくん、駄目! 女性にオバサンなんて言っちゃ。先生――きっと、教育実習の先生だよ。ね、先生?」
革ジャン先輩を除く、三人の子供達のキラキラした視線が胸に刺さる。
や、先生じゃないんですけど。むしろ、その機械の事を教えて欲しい身分なんで。
私の下に寄ってくる子供達をよそに、革ジャン先輩は機械を操作し始める。私は膝を折り、ショートカットの女の子の肩に手を置いた。
「ね? あれって何やってるの?」
「え? 印刷だよ? 先生、そんな事も知らないの?」
ごめんなさい。知りません。先生でもありません。それにしても……これも印刷機なんですか? 早速、革ジャン先輩に聞いてみましょう。
私は子供達をかき分け、機械を動かす革ジャン先輩に近寄る。革ジャン先輩は私を一瞥すると、面白くなさそうにフンッと鼻を鳴らした。
「邪魔しないでよ、オバサン」
「オネーサン!! 可愛いのに、可愛くない子供ですね。全然変わってませんよ。ねぇ、オネーサンにこの印刷機の事教えてくれる?」
「はぁ? 知らないよ、そんなの。印刷機は印刷機! そこに版があるだろ?」
革ジャン先輩は印刷機を動かしながら、机の上の青い紙のような物を指差す。
青い――と言うより水色のフイルムのような紙に、幼い字で何か書かれている。『悪魔アイランドへ』と一行使って書かれたタイトルの後に、子供らしい物語がつづられていた。
「これが版なの?」
「そう、これを機械に巻き付けてわら半紙を通すと、ボールペンで文字を書いた所からインクが出てきて印刷できるんだ。そんな事も知らないなんてさてはオマエ、先生なんかじゃないな? 何者だ! もしかして、みんなの原稿を盗みに来たスパイか!」
「スパイって……こんなの盗んでどうするんですか?」
「こんなのだと!? みんなが一生懸命に書いた物語だぞ! 原稿に謝れ!」
革ジャン先輩は大きな目で私をきつく睨み付ける。
何なんでしょうか、子供の癖にこの迫力は? 原稿に謝れと言われましても――わっ、怒らないで。ごめんなさい。謝ります。
眉を吊り上げ腕を組む革ジャン先輩の前で、机に向かって深々と頭を下げる私。
どこの時代に行っても、革ジャン先輩には頭が上がらないのね、私って。
もう、どうにか子供の革ジャン先輩を誑かして、未来の革ジャン先輩の私を見る目を変えてやろうかしら? なんて、そんな事はしませんけどね。綺麗なオネーサンに惚れるなよ、ボク。
「何だよ、気持ちわりーな! ヤッ……ヤメッ! 頭撫でるな!」
「いいじゃないですか。可愛い、可愛い」
革ジャン先輩を抱き寄せ、小さな頭を優しく撫でる。髪の毛フワフワですね。
小さな体を捩り、本気で嫌がる革ジャン先輩。ちょっと失礼じゃないですか? 子供とは言え、役得だと思いますけど。
ちょっとしたトラブルでおかしな時代に迷い込んじゃいましたけど、思わぬ収穫がありました。
ちょっと風変わりな印刷機も見れましたし、幼い革ジャン先輩にも会えました。
未来の革ジャン先輩に、このことも聞いてみましょう。
あっ、インキの件も忘れずに。
じゃぁ、そろそろこの時代をおいとましますか。
幼い革ジャン先輩、他の子供達も、素敵な大人になってね!
さて、今度こそ主任印刷オペレーターとして腕を上げている革ジャン先輩の下へ行きますよ。インキが私を待っている。
レッツゴーです!
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