16ページ目 本が好き

 家の前の道路を凄い勢いで走り去る車。

 車種はわからない。たぶんワゴン。道路のずっと先の闇の中に、消え入るように小さくなっていく赤い光。

 玄関先周辺をスポットライトのように照らす玄関灯が、暗闇の中に浮彫の木製ドアをボウッと浮かび上がらせる。私はゆっくりゆっくり音を立てないように、そっとドアノブを倒した。


 カチャッ……


 思いのほか大きな音が鳴って、私は思わずドアノブを倒したまま手を止め息を飲む。そして大きく息を吸って、深く深く吐き出した。

 忍者がそっと襖を開ける様子を思い浮かべながら、スッと滑らかにドアを引く。そして微かに開いたドアに細い体を潜り込ませた。


 第一関門突破。


 玄関の灯りはつけず、足元もおぼつかないままフローリングの床に腰をおろす。そして、煌々と光が漏れるリビングのデザインガラス戸を気にしながら、履き慣れないパンプスを脱ぎ下駄箱の前にそっと置いた。

 そっと――そっと、足音を立てないようにつま先だけで廊下を歩く。何でこんな時は、絵に描いたような泥棒歩きになるんだろう?

 廊下を黄色く照らすリビングのドアの手前で一度立ち止まり、そっと部屋の中を覗き見る。幾何学模様のデザインガラスのせいで、詳細な中の様子まではわからない。けど、人の気配はない。今がチャンス。

 部屋への階段は、もう目と鼻の先。私は今日、忍の心得を会得した。


『やったー! 第二関門突……』

 ガチャッ!


 私の後ろでリビングのドアが音を立てる。

 動けない。振り返ることも出来ない。息を殺して闇に身を潜めるように背中を丸める。

 心臓が激しいダンスを踊っている。例えて言うなら、そうジャイブだ。リズムは4分の4拍子――ただし2拍目と4拍目に強いアクセント。

 心臓の音が耳元で聞こえているような気がする。このままでは、私の心臓がもたない。心拍数120オーバー。

 私は意を決して……



「ヒ~ナ~! こんな時間までどこほっつき歩いてたの!」

「どんな時間? わぁ、もうこんな時間だー、お風呂入って早く寝なきゃー」



 棒も棒。完全に真っ直ぐな棒読みで、私は階段へ向かう。決して角の生えたお母さんの顔を振り返らないように。



「アンタ、まさか変な男に引っ掛かってるんじゃないでしょうね? アンタみたいに本ばっかで社交性がない子は、すぐ男に騙されるんだから」



 重く、お腹の底にズンズンと響くお母さんの低い声。

 なんか、酷い言われよう。

 変な男になんか引っ掛かる訳ないじゃん! 私は身持ちが固いんだから。

 私は顔をクシャッと歪めて振り返り、お母さんに向かってベッと舌を出す。そして、暗い階段を駆け上がった。



「勉強してたの! 印刷の勉強! 革ジャン先輩に教わってたんだから!」

「ちょっ、ヒナ! 待ちなさい! 革ジャン先輩って……」



    *    *    *


 ベッドの上の丸いモフモフのクッションをきつく抱き締め、怒りに任せてゴロゴロと左右に転がる。

 あの後、お風呂に入る時も入った後も、お母さんに捕まった。お茶を飲みにリビングに行った時は、お父さんにも捕まった。

 簡単に言うと、二人の考えは「今さら印刷の勉強なんて意味がない」だった。

 意味があるかどうかじゃない。それが好きかどうかなんだけど。


 私はベッドから転がり降りて、本棚の前へ移動する。

 私の自慢の本棚。部屋の一辺全部本棚。床から天井まで隙間なく本が詰まっている。その総てが、お爺ちゃんからもらった物だ。

 専門書から小説、エッセイ、図鑑から漫画――本棚に入りきらない本は、押し入れに入っている。

 お母さんには「床が抜けるからいい加減捨てなさい」と、しょっちゅう怒られるけど、これは私の大切な大切な宝物だ。


 本棚の一角――漫画コーナーから一冊の古い漫画を抜き取る。

 気を使って保管しているつもりだけど、やっぱり古い漫画だ。カバーは端がガサガサになり、カラーの色が半分くらい抜け、本文の部分は茶色く変色している。そして、部屋に充満する古本の独特の匂い。私はこの古本の匂いが好きだ。けど、お父さんには「お爺ちゃんの部屋と同じ匂いがする」と笑われた。



「本が――本が好きなんだからいいんだよ。データで読んだって、味気ないだけじゃん」



 そう呟いて気付く。

 私が「封筒なんて使わない」って言った時、革ジャン先輩も言っていたっけ。味気ない――そう、味気ないんだよ。昔からお爺ちゃんよく言っていたなぁ。



『インターネットだスマホだ、何をするにも手元に残らない仮想空間の物に何の価値がある? 音楽データ配信? Web漫画、小説? 新聞もいらない、手紙もいらない。味気ない……味気ないなぁ』



 データさえあれば小説も漫画も新聞も読める。けど、手にその感触はない。

 本を片手に親指で本を支え、一枚一枚ページを捲ってはもう一方の親指と人差し指で押さえる。

 手に馴染む、少しざらついた紙の触感。ページを捲る度にフワッと香る本の匂い。

 美しい装丁は、それはもう芸術品だと私は思う。

 カラー印刷されたカバーにキラキラと映える金箔が押されていたり、そのカバーの中も凸凹の加工がなされていたり、半分透けるような紙でデザインチックに飾られたりする本の数々。それがデータなんかでわかる訳がない。


 だから私は印刷の事を知りたかった。

 今さら意味がないなんて事は絶対にない。


 ベッドの上、モフモフのクッションに顎を埋めて、うつ伏せに漫画を読む。膝を曲げゆらりゆらりと足を揺らし、鼻歌を歌う。

 ストーリーや絵を楽しむだけならデータでもいいと思う。

 けど――けど、そうじゃないんだな、本がある幸せって言うのは。


 明日はまた、革ジャン先輩に会いに行こうっと。

 …………違う違う、革ジャン先輩に印刷を教えてもらいに行こう。

 沢山質問するから、覚悟しておいてくださいね。


 私は顔に溢れる笑みを隠すように、ポフッとクッションに顔を押し付けた。 

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