15ページ目 パンツ見た癖に!

 戻って来ましたよ。バキュン年後に。革ジャン先輩が働く印刷会社です。

 改めて思いますね。あの頃の小さな印刷工場こうばとは訳が違うって。実際、稼働している印刷機の大きさから違いましたからね。革ジャン先輩が動かしていた大きな印刷機は、あのお店じゃ絶対に入りませんよ。



    *    *    *


 白い壁の二階建ての建物を駐車場から見上げる。

 左端のドアの横にセキュリティサービスのカードキーをタッチする機械が備え付けられている。そして、真ん中はポッカリと口を開けたような空間。大きな紙を包む、茶色い包み紙が何本も積み上げられ、その横には紙クズ――損紙が無造作に放り込まれた金属製の網籠。高く積まれた紙の向こう側に、工場こうじょうへの入口――観音開きのサッシがチラリと覗く。


 私は締め切られたドアを尻目に、フォークリフトの横をすり抜け、高さ50㎝はあろう段差に足を掛ける。



「よっこいしょ」



 段差を上りサッシを僅かに開く。

 隙間から漏れ出す熱気と、フワッと独特な匂いが鼻をつく。小さなお店でもそうだった。これはきっと、インクの匂いなんだ。

 左奥の大きな印刷機の前で、革ジャン先輩は忙しそうに機械を動かしている。その右に並んだ三台の軽オフの印刷機。

 やっぱりそうだ。

 あの真ん中の印刷機は、若かりし革ジャン先輩に教えてもらった、あの両面機だ。

 今は誰も動かしていない。ガシャガシャと大きな音が飛び交う工場こうじょうの中で、まるで置物のように静かに佇んでいる。



「こんにちはー! お邪魔しまーす!」



 工場こうじょうで働く方々が、一斉に私を振り返る。

 私はみなさんにペコペコと頭をさげ、革ジャン先輩の元へ駆け寄った。



「行ってきましたー!」

「マジか!? 数分前に出て行ったばかりだぞ!?」

「そこはほら、タイムスリッパーの腕の見せ所って事で」

「自在なら、スリッパーと言うより、トラベラーだな」

「あっ、そっちの方が格好いいですね」



 口を抑えフフッと小さく笑う私を、呆れたような顔で見る革ジャン先輩。

 その時、大きな印刷機からピーという発信音が鳴る。

 革ジャン先輩は慌てて印刷機の排紙右側の四角い赤いボタンを押した。

 ガックンガクンと大きな音を立てて止まる印刷機。

 革ジャン先輩は機械の上に積まれた、短冊のような紙を印刷物の山に差し込む。そして、チラッと私を振り返った。



「で、ちゃんと印刷機の勉強はしてきたのか?」

「当然です!」



 私は鼻高々に顎を突き出し、両手を腰に胸を張る。

 何でも聞いて下さいよ。センスいいって言われたんですから。

 ん? あれ? 何の変化もなさそうですね? 過去へ行く前とまるで変ってませんよ?

 私はススッと革ジャン先輩の脇に寄り、上目づかいで彼の顔を見あげる。革ジャン先輩は「何?」と言いたそうに、目を見開き僅かに体を引いた。



「私、過去で若い頃の革ジャン先輩に印刷の事を教わってきたじゃないですかぁ」

「ん? ああ、そうだな」

「何か、私を見て思う事ってないですか?」



 両腕を広げ、クルッと一回転する。

 革ジャン先輩は眉をひそめ腕を組む。そして、私の足の先から頭の天辺まで舐める様に見回した。



「太った?」

「太ってません! 何ですか、それ? たったあれだけの時間で太ったりする訳ないじゃないですか! どこ見て言ったんですか? いやらしい……セクハラです!」

「そんなにムキになるなよ。冗談だろ?」

「言っていい事と悪い事があります!」



 私は華奢な腕で自分の体を隠すように抱き締める。

 もうッ! ホントに何も変わってない! 過去の頃からデリカシーなさすぎです!

 …………やっぱり変わってませんよね? タイムパラドックスは?



「こう、なんて言うのかな? 私に恋しちゃったり――とか? 可愛いなぁとか思っちゃったり――なんて」

「はぁ!? 何で!?」



 さらに険しくなる革ジャン先輩の顔。

 わっ、何か凄く腹が立つ。



「パンツ……」

「は? 何?」

「パンツ見た癖に!」

「誰が!?」

「私のパンツ見た癖に! 革ジャン先輩にパンツ見られたぁ~! わ~ん!」

「ちょっ、待て! どんなシチュエーションだ? 過去で何をやってきた?」

「革ジャン先輩が私のパンツ見たぁ~!」

「ヤメッ! 人聞きの悪い! ちょっ、落ち着け! 一旦外へ出て!」

「私のパン……ムグッ」



 後ろから、革ジャン先輩の大きな両手で口をふさがれる。革ジャン先輩の手は、インクの匂いがした。

 私は口を押さえ付けられたまま、革ジャン先輩と共に工場を出る。

 革ジャン先輩は同僚の人たちの矢のような視線に串刺しになりながら、引きつったような苦笑いを浮かべていた。



    *    *    *


 「はぁ!? 事故だろ、それは!?」



 革ジャン先輩は怒り心頭に、頭ごなしに私を怒鳴りつける。

 私は両耳に指を指し込んで、亀のようにググッと首を竦めた。



「だって、だってぇ……見た事に変わりはないじゃないですかぁ」

「見たんじゃない! 見せられたの! 見たか、みんなの白い目? まるでオレが痴漢したみたいじゃないか」

「覚えてないんですか?」

「まるで」

「これっぽっちも?」

「これっぽっちも」



 そんな事言われたら、ただの見せ損じゃないですか。や、忘れてもらってもいいんですけど。それを望んでいたのは私ですから。

 革ジャン先輩は工場の壁に寄りかかって、濃いグレーの作業着の胸ポケットからタバコの箱を取り出した。そしてポンッと箱を叩いて飛び出した一本を歯でくわえる。



「らいたい、いんはふのえんきょうお……」

「何言ってるかわかりません」



 革ジャン先輩はライターの火に顔を寄せ、くわえたタバコに火を灯すと、大きくそれを吸い込み溜息のように吐き出した。

 薄く白い霧のような煙が空気に散り散りに溶けていく。



「だいたい、印刷機の勉強をしてきて、何でパンツの話になるんだよ? 恋しちゃったり――とか、訳がわからない事も言い出すし」

「勉強はちゃんとしてきましたよ? 今、話したじゃないですか」

「不十分だけどな」

「それは、革ジャン先輩がタイムパラドックスの話をしたから心配になって……」



 私が過去で印刷の勉強をする事で、未来がおかしな方向へ変わってしまったら大問題ですから。時空警察の御厄介になっちゃいますよ。時空警察なんているのかどうか知りませんけど。



「タイムパラドックス?」

「そうです。私のパンツを見た革ジャン先輩が、悶々として寝ても覚めても私の事を考えるようになって、結婚もせず私に恋い焦がれちゃっていたら大問題ですよ」

「…………」



 何ですか、その意識がどこかへ飛んで行ってしまったような間抜け顔は? ポカンと大口開けて、顎がブラジルまで落っこちちゃったら大変です。瞳も色を失っていますし。



「――っ、はぁ~……心臓が止まるかと思ったわ! ないない。心配ご無用。そんな事気にしなくてもいいから、思う存分印刷の事を勉強して来い!」

「それはそれで腹が立ちますね。どこにそんな自信があるんですか?」

「自信とか、それ以前の問題だ」

「言いますね? こんな美少女が相手ですよ? 若い革ジャン先輩が我慢出来る訳ありません。何か間違いがあったらどう責任取ってくれるんですか?」

「あのさぁ……」



 巻いたタオル越しに頭を掻きながら、革ジャン先輩は足元のアスファルトへ向かってタバコの煙を吐き出した。



「間違いがあって欲しいの? あって欲しくないの? どっち?」

「なっ、あっていい訳ないじゃないですか! 何言ってるんですか? セクハラです、セクハラ!」

「もういいよ、そのくだりは。まだまだ勉強途中だろ? 印刷の仕組みと紙のサイズと面付け? その程度で印刷の事をわかった顔されちゃたまらんね。今オレがやってる仕事はまだ早い。あの店での仕事は印刷の基本だ。オレが初めて印刷を学んだ場所だ。徹底的に勉強してきて損はないと思うぞ?」



 アスファルトにタバコを押し付ける革ジャン先輩。明るいオレンジ色の火の粉が、黒いアスファルトの上で花火のように小さく踊る。

 革ジャン先輩は勢いをつけて立ち上がり、私の頭にポンポンと手を置いた。 

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